domenica, maggio 21, 2006

独り言的メモ

近頃使われることの多い
「あんたなんかにわかんない」
という言葉には
省略された部分があるように思う。
「わからないのに、決め付けたり指図したりしないでほしい」

多分
わかってほしい、などと、
人は本気では思わないだろうと
思うのだけどどうだろう。
よほど年少のうちはまだしも。

それぞれに異なる経過があって
異なる結果となった異なる存在が
異なる考えを完全に理解しあえると
思わないほうが良いときもないだろうか。

理解しようとしすぎるのは
うるさいのではないだろうか。
自身にさえ、
それぞれがそれぞれを
理解などできているものかどうか
わからない。

理解できなくても
許容しあうという事が
必要なのではないか。

違うものがあっても良いじゃないか?
理解できないものや
違うものを
排除しようとするということは
違うものから排除されることを
認めるということに
ならないか?

なぜいつも自らだけが、主体なのか?