lunedì, giugno 07, 2004

綺麗な事

長崎佐世保の少女事件ですが
どうやら、一般的世論はチャットは危ない、
インターネットは危ない
子供はずーっと見張り続けて、
その全てを把握しとかなくちゃ危ない
という方向に流れている気がしますね。
いやんなる。

そりゃあ、顔が見えず声も聞こえない中での会話と
実際の会話がまったく同じものでもありませんが
じゃあ、なにかい?
まさかとは思いますが、
おぞましくて考えたくもありませんが
もしかして、
被害者が、”誤解されかねない”言葉を発した事にも殺されるに値する
もしくは理由になるなんらかの非があったなどと
言うわけじゃあないでしょうね?とかんぐりたくなるんですけどね?
まさかね?
チャットも掲示板も電話も手紙も、直接顔をあわせた時でも、
人は、冗談のときもあれば、本気で
慢心の憎悪をこめて、最悪なことを言う時もありますよ。
言われることもありますよ。
だけど、それを理由に殺されちゃいけない。殺しちゃいけない。
どんな、いかなる理由によってでも
人を殺しちゃいけない、虐待しちゃいけない、
子供を問題にする前に、大人はそれをわかっていますか?
私は、問題はそこだけだと思うんですけど。
何故、加害者が殺意を抱いてから行動に移すまでの間に
殺してはいけない、やめようと思えなかったのか?

メディアを規制するのは、いずれ焚書に繋がる考え方です。
”悪いもの”を国家権力で禁止するのではなく
悪いものを覆うくらいに
たくさんの良いものが流されるべきなんです。
メディアを論ずる時、
えぐい内容のものが流されている事は問題になっても
正義感で発する言葉がリスクを伴っている現実の方には
誰も着目してくれないのが悲しい。
経済制裁を訴えるデモは3千人で繰り返し報道されても
反戦デモは何千人集まっても
たいしたニュースにならない事とか
(外国のだと少し流される)。
戦争反対って言ったら、非難ごうごうで
挙句仕事干されちゃったりする若者が居たりとか

”きれいごと”を通してみせない”汚れた”世の中だから
未来に、台無しにしたくないと思える希望をもてず
人の未来を奪う重さも感じられなかったのではないでしょうか?
たとえば高遠さん達や橋田さん達の、
光り輝くような”きれいごと(と、一部で呼ばれたもの)”について
表面だけの理想論などではない、本当の信念を伴った時に
それがどんなに押しつぶされても、
その下でちゃんと人の心に届いても居ることを
加害少女を含めて子供達が、
理解して受け入れてくれるといいのになと
思います。(それを届ける大きな役割を担っているのも同じネットです。)

・・・9条みなおし改憲草稿なんて作っている与党の方なら
そりゃあ「人を殺すなんて、まぁ、元気になったもんだ」と
思うのかもしれませんが。
・・・そんなのがまかりとおっているから・・