新年の豆腐・・・(ベタだなぁ)
年末年始ちょっと滅入っていました。
日々、目にする惨状の映像や、
意を決して行動を起こした人の運動(意見広告とか)
お金の力は、どうしたって実際つくづく大きいです。
振込みすれば、それが間違いなく力になる
絶対力になる、事がわかりながら、それでも注げる額には限りがあります。
そして、待たれている注ぎ口は限りなく多いです。
社会生活に順応するのに、処方された薬まで必要としていた友達が
まだ小さい小さい子供を保育園に預けて、
体調を崩せば休みがちにもなってしまう自分を自戒しながら
それでも頑張って働くのだと手紙をくれました。
えらいのだと思います。
でも、保育園に預けられていた子供だった私は
毎朝どれだけ辛かったかを思い出すと、なんだか複雑になりました。
人間が、誰に文句を言わせることなく母親を必要とし、
なんなら独占だって要求くらいはしていい
その限られた時期、子供のうちは、
できればできるならその願いはかなえてあげたいです。
それは、母子だけで放置され煮詰まっていくような孤独は避けたほうがいいでしょうし、
周囲との接点や分担、サポートは必要でしょうけど
子供が小さい時ってその子供、その人にとって、一時期だけなんだよー、と
一分一秒が貴重なんだよーと思ってしまう。
子供の時の記憶や思い出は、本当に子供にとっても
今後その子供と家族としてずっとつきあっていく親にとっても
節目節目で、ものすごく大きく意味を持つものなんだよと、思うんですけど、
でも、この友達が働く理由はきっと精神衛生上というよりは
やっぱりお金なんだと思います。
そのかわいくて大切な子供だからこそ
かわいい子供を育てるのに、
どうしてもお金が必要なんだとがんばっているのだと思います。
近所で立て続けにお店がつぶれています。
ちょっと改装して、自動ドアがついたな、酒類の販売始めたな、と思っていると
数ヵ月後につぶれたりします。
空き店舗だらけです。
定期的に通っていたお店がつぶれるのは、悲しいし、また現実的にも厳しい。
今までできた額での生活ができなくなるからです。
私の周りでは、余裕ある人をとんと見ません。
支払えば、支払っただけ間違いなく誰かの命を救い苦しみを減らすのだろう
お金というものを見ていると、
小さい私なんかが、書いたり描いたりして表現することは、
自己満足にしか過ぎなくて意味がないのかなぁ
迷惑そうにされる事もあるし、はた迷惑で場合によっては押し付けがましく
逆効果にさえなってしまうのかな
と思ってしまいそうに・・・
正直に書けば、その考えが頭から離れません。
でも、もしかしたら
ある程度額募金できて募金している人は
募金だけしていていいのかな、と
思っていることがあったりするのかもしれません。
募金できるだけの生活を維持するからには、
それだけ忙しく疲れきっているかもしれませんから。
何が起きているかも、実際詳しくはわからず
知らなくちゃいけないのにな、と思っているのかもしれないです。
知るための時間が無い。
できるだけの事をすれば、できない所に気が付き、その足りなさを悲しんでしまいますが
できるだけの事をした時、できただけの事を、誇る事もそして喜ぶ事も、必要かもしれないと
今朝、ふと思いました。
例えば、ホームレスであっても亡命している人でも、あとなんだろな、
入院中の人でも就労年齢に満たない子供でも100歳を越えて動きの取れなくなった高齢者でも
ありとあらゆる立場の人間に
戦争を疎み、平和を望む権利があります。
それを表現する権利があります。
権利は行使したとき、うれしくないと、その権利を大切に思いづらい。
平和であってほしい、戦争には反対だと、
どんな手段でも表現できるそれによって得られる満足感、歓びを
否定してはいけないと、なんだか思ったのでした。
平和を望む声をあげる人は
たとえどんな人であっても
ひとりでも多く必要だと思います。
多い方が、憲法九条だって戦争をしない国である事だって、なんとか守る方向に
ひっぱれる可能性が高いもの。一応民主主義なんだから。
そのひとりであり続けることを、
ちゃんと嬉しく思おうと思います。誇りに思おうと思います。
(なーんかとかとんとん大魔王が襲ってきてむつかしいものですけど)
おまけ。テレビ。
年末年始、やけっぱちのような嬌声響く番組が連なる中
でも、結構収穫もありました。
明石屋さんまさんが、年末の小さめの番組の中で
話の流れでどさくさに紛らしたようではあったものの
「戦争はいや。戦争が、嫌」とそこのとこ強調していましたし、
宇梶剛士さんは、深夜の討論系番組観ていても、もう、完全に腹決めたなって思いますし
北野武さんも、独立した自分のスタンスからの発言が、最近、鮮やかです。
井筒和幸監督さんの発言も、注目してます。
番組としても、ニュース総括のような特番でも
例えば”自己責任論”について
全体的に、「踊らされちゃったよねぇ、」という雰囲気を感じる事が多かったです。贔屓目?
今更、ともちょびっと思いますが、反省が生まれるなら、
まだ捨てたもんじゃないかもしれないです。(含希望)
ばたばたしていて普段の私に比べたらそう観てられなかったのですが
もともとからの人だけでなく、表現者の人々が、それぞれに少しづつ心を決めてきているような
そんな空気を感じないでもないのですが、気のせいでしょうか?
日々、目にする惨状の映像や、
意を決して行動を起こした人の運動(意見広告とか)
お金の力は、どうしたって実際つくづく大きいです。
振込みすれば、それが間違いなく力になる
絶対力になる、事がわかりながら、それでも注げる額には限りがあります。
そして、待たれている注ぎ口は限りなく多いです。
社会生活に順応するのに、処方された薬まで必要としていた友達が
まだ小さい小さい子供を保育園に預けて、
体調を崩せば休みがちにもなってしまう自分を自戒しながら
それでも頑張って働くのだと手紙をくれました。
えらいのだと思います。
でも、保育園に預けられていた子供だった私は
毎朝どれだけ辛かったかを思い出すと、なんだか複雑になりました。
人間が、誰に文句を言わせることなく母親を必要とし、
なんなら独占だって要求くらいはしていい
その限られた時期、子供のうちは、
できればできるならその願いはかなえてあげたいです。
それは、母子だけで放置され煮詰まっていくような孤独は避けたほうがいいでしょうし、
周囲との接点や分担、サポートは必要でしょうけど
子供が小さい時ってその子供、その人にとって、一時期だけなんだよー、と
一分一秒が貴重なんだよーと思ってしまう。
子供の時の記憶や思い出は、本当に子供にとっても
今後その子供と家族としてずっとつきあっていく親にとっても
節目節目で、ものすごく大きく意味を持つものなんだよと、思うんですけど、
でも、この友達が働く理由はきっと精神衛生上というよりは
やっぱりお金なんだと思います。
そのかわいくて大切な子供だからこそ
かわいい子供を育てるのに、
どうしてもお金が必要なんだとがんばっているのだと思います。
近所で立て続けにお店がつぶれています。
ちょっと改装して、自動ドアがついたな、酒類の販売始めたな、と思っていると
数ヵ月後につぶれたりします。
空き店舗だらけです。
定期的に通っていたお店がつぶれるのは、悲しいし、また現実的にも厳しい。
今までできた額での生活ができなくなるからです。
私の周りでは、余裕ある人をとんと見ません。
支払えば、支払っただけ間違いなく誰かの命を救い苦しみを減らすのだろう
お金というものを見ていると、
小さい私なんかが、書いたり描いたりして表現することは、
自己満足にしか過ぎなくて意味がないのかなぁ
迷惑そうにされる事もあるし、はた迷惑で場合によっては押し付けがましく
逆効果にさえなってしまうのかな
と思ってしまいそうに・・・
正直に書けば、その考えが頭から離れません。
でも、もしかしたら
ある程度額募金できて募金している人は
募金だけしていていいのかな、と
思っていることがあったりするのかもしれません。
募金できるだけの生活を維持するからには、
それだけ忙しく疲れきっているかもしれませんから。
何が起きているかも、実際詳しくはわからず
知らなくちゃいけないのにな、と思っているのかもしれないです。
知るための時間が無い。
できるだけの事をすれば、できない所に気が付き、その足りなさを悲しんでしまいますが
できるだけの事をした時、できただけの事を、誇る事もそして喜ぶ事も、必要かもしれないと
今朝、ふと思いました。
例えば、ホームレスであっても亡命している人でも、あとなんだろな、
入院中の人でも就労年齢に満たない子供でも100歳を越えて動きの取れなくなった高齢者でも
ありとあらゆる立場の人間に
戦争を疎み、平和を望む権利があります。
それを表現する権利があります。
権利は行使したとき、うれしくないと、その権利を大切に思いづらい。
平和であってほしい、戦争には反対だと、
どんな手段でも表現できるそれによって得られる満足感、歓びを
否定してはいけないと、なんだか思ったのでした。
平和を望む声をあげる人は
たとえどんな人であっても
ひとりでも多く必要だと思います。
多い方が、憲法九条だって戦争をしない国である事だって、なんとか守る方向に
ひっぱれる可能性が高いもの。一応民主主義なんだから。
そのひとりであり続けることを、
ちゃんと嬉しく思おうと思います。誇りに思おうと思います。
(なーんかとかとんとん大魔王が襲ってきてむつかしいものですけど)
おまけ。テレビ。
年末年始、やけっぱちのような嬌声響く番組が連なる中
でも、結構収穫もありました。
明石屋さんまさんが、年末の小さめの番組の中で
話の流れでどさくさに紛らしたようではあったものの
「戦争はいや。戦争が、嫌」とそこのとこ強調していましたし、
宇梶剛士さんは、深夜の討論系番組観ていても、もう、完全に腹決めたなって思いますし
北野武さんも、独立した自分のスタンスからの発言が、最近、鮮やかです。
井筒和幸監督さんの発言も、注目してます。
番組としても、ニュース総括のような特番でも
例えば”自己責任論”について
全体的に、「踊らされちゃったよねぇ、」という雰囲気を感じる事が多かったです。贔屓目?
今更、ともちょびっと思いますが、反省が生まれるなら、
まだ捨てたもんじゃないかもしれないです。(含希望)
ばたばたしていて普段の私に比べたらそう観てられなかったのですが
もともとからの人だけでなく、表現者の人々が、それぞれに少しづつ心を決めてきているような
そんな空気を感じないでもないのですが、気のせいでしょうか?