sabato, dicembre 11, 2004

何の為

最近、特攻兵や兵士となって亡くなった方々を
私たちを守るために命を賭けたのだし、
私達は、彼らの犠牲あってこそ、今平和に暮らしていられるのだ、
彼等は私達の為に犠牲となったのだから、それを祀って何が悪いという
・・・先日深夜にやっていたドキュメンタリーでもそういうのがあって、
ちょっとつまづく感じを持ちました。
過去の戦争において出征し戦死した多くの日本人は、
果たして本当に、日本の国家を守る為に死んだのでしょうか?守るためになったのでしょうか?
この国家というのが、少なくとも、亡くなった彼等の家族や未来の子供達の集合体としての
日本国家かどうかとなるとそれはおおいに、疑問に思います。
そう思って、そう信じて亡くなったのだろうことは、そう覚悟を決めたのだろう事は
痛いほどわかるんです。母親の、恋人の、子供の顔を見ながら、
この愛しいものを守りたいと思ったのだろうという事は。
でも、それは、オウム信者が被害者となる人や自分の家族のことを思って、
彼等の魂を浄化し救う為だと自分に言い聞かせサリンを作成し
地下鉄内でそれを入れた袋に傘を突き刺したことに、何か似ているように思います。
彼等の犠牲があって、今の日本の平和があるという”定説”がありますけれど
もしそうだとすれば、それは、戦争はこれだけ悲しい事になるこれだけ酷い事になる、
二度と繰り返されてはならない証拠であり礎としては、納得できるんですけれど、
もし、この犠牲は無くてすんでいたとすれば、
そうできていればそれに越した事は無かったように思うんです。
やってみなければわからないというの、なんだか愚かなような気がします。
戦争で被害を生む前に、それを予想できなかったのか、本当にできなかったのか、
その悲惨を何故想像できなかったのか。
何故、その被害と犠牲を出さない為の努力は実を結べなかったのか。
理由を知ってこそ、実を結ぶ為の方法もまた見出せるかもしれません。

今、日本の軍備を強化しなければいけない、と戦争を想定している人達の
その根拠のひとつとして、北朝鮮や中国の”脅威”がありますけど
その敵意を持っているだろうと思う理由が、
過去の日本の軍がアジア各国で行った残虐行為に対する
尽きないわだかまりだとしているなら、
それを子供達に語り継ぐ事が反日教育だとしているなら、
その残虐行為こそが、日本の平和を脅かすと想定されている理由に
なっちゃっているわけで、日本を守るため、
自分達の子孫を守る為という口実ではじめた事は
実は未来の子供達の平和をさえ脅かす理由となっているわけで、
現実には、残虐行為を含む鉄砲かつぐ武力行為は、
どうも日本を守る為になったようには思えないんですけど。
実際、死ぬ事を覚悟して家族の下を離れ、
過酷な戦場で苦しんで、死んでいった人が
彼等が守りたかった家族や大切な人の為に、
本当に命を犠牲にしてできたことは何かと考えると
なんだか、その死んだ事によって、
できた事はあまり無いような気がしてならないです。
家族が近所の人に非国民の家族と非難されない為にはなったかもしれないけれど
そうだとすれば、彼等が何から家族や大切な人を守ったかといえば、
近所の人、周囲の世論、国家からなのじゃないかなと
思って、なにやらやるせなくなります。
それと引き換えに、自分達をそこまで大切に、
命を賭けてまで守りたいと思ってくれる存在を
失う悲しさやつらさは、命を賭けて守ろうという側には、理解できないものなんでしょうか?
AさんがBさんを大事に思っているとすれば、場合によるとしても
理想的な場合は特に、大事に思われているBさんもAさんを
同じように大事に思っているものなんじゃないでしょうか?
BさんのAさんを守りたい気持ちは、どうなるの?

本当に、同じ命を賭けて守りたいのであれば、
戦場に散った人たち全て、その日本人の中のとても多くの人数が、戦場に赴く事ではなく
国が戦争をしないためにこそ、覚悟を決めて賭けたなら
賭けに、勝てたような気がするんですけど。悲劇も連鎖せず、怯えも連鎖せず、
守りたい人を、その人が自然に亡くなるまで守りきることのできる大勝ちを得る人も、
ずっと多く出たように思うんですけど。
そして、勿論、そうなっていれば攻撃され犠牲となった人達の方も
それぞれの生をまっとうできたはずです。
フツウの人々においては、誰にとっても、その方が良かったように思います。

日本人の歴史好き、時代劇好きと
歴史を学ぶという事との違いは
主人公と、周りでううっと言って倒れる人の全体の画面の扱いの違いかもしれません。
主人公にだけスポットが当たる時代劇の立ち回りの影で
「おかっつあん、おとっつあんはいつ帰るの?」「おとっつあんは星になったんだよ。」
というような、で、おかっつあんはおとっつあんが居ない分もの
働きすぎや結核やで死んだりするんだ、これがまた。
そういう所まできちんと把握して歴史を捉えるかどうかの違いのような気がします。
武勇伝、軍雄伝、英雄伝や年号は、歴史の側面のひとつに過ぎず、
本来、学ぶのであれば、人間という存在は、
何をしてしまうか、何をしかねないか、を知り
歴史の中で起きた悲劇は、間違いはどこにあったのか、何故そうなったのか、
それをどうすれば防げたのか、その可能性を模索するところにも大切なのじゃないか
と思わずには居られないんです。

時々、思います。
境界線は、北朝鮮と日本や中国やロシアやアメリカの間にではなく
フセイン大統領やブッシュ大統領や小泉首相や金正日首領、その周囲の権力のある人々と
イラクや日本やアメリカや中国や北朝鮮のふつーの人との間にひかれているんじゃないかと。
なにかしらの経済的な得のみならず、
自分が命じれば、どんな事でもやらせることができると、権力を実感できる歓びとか
そのような得の為に主導権をとる人と
踊らされ、流れていって、犠牲になったり、砂糖の特別配給くらいは受けたりする人と
その間に境の線はあるような気がするんです。
そう考えると、”日本軍の犠牲になったアジアの人々”というくくりではなくて
酷い目にあい、その酷い目にあわせるという行為を武勇伝として誇る展示品にあふれ
どこか本音では、負けてしまったから失敗だったけど、
勝てば官軍だ英雄伝説だというような評価を戦争に対して下しているかもしれない事を
非難し、悲しんでいるのは、私達の中の人々であると思えます。
酷い被害にあった人にとって、その被害が苦しみ悲しみ痛みが無かった事にされることは
やっぱり辛い事だと思います。それを正当化されたり、
被害者が望んでやった事にされたりする事を
自分の側からみると、その悔しさは・・・悔しいですよ。
やっぱり。やめてほしいなと思いますよ。

歴史を学ぶ事の大切さって、そういう所にもあるような気がするし
日本という国においては、それは不十分なんじゃないかなという気も何かする。

私達が、歴史丸ごとかかえて、自分達の生まれた国を誇りに思うためには
こういう過ちや被害を受けたり、または与えたり、
そんな事もありましたが、それを糧にし反省し、そのひとつひとつを認め学び
成長できる国ですよ。間違えを、認める潔さと、
たとえ及ぶものではなくても償いをしないではいられない責任感を持っていて、
そういう国に生まれました、そういう歴史を経ました、今こうなりました
という形で胸をはれる事が必要な気がします。
本当は、そういう立場である事を、世界においては理解されやすい以上
国際間の争い、今度のイラク戦争のようなときも
宗教も特に国教ももたないわけですし、間に立って
戦争で起きる事をよく知っているという説得力を持ち、
率先して平和の為に貢献できていれば
それは、過去の過ちに対する、被害者に直接ではないにしても
ひとつの重要な償いとなった気がします。
今、起きてしまったあのイラクの人々の犠牲を、
出さずにすんでいたら!それに貢献できていたら!
どれだけ、誇りに思えたかと思う。
戦争の惨事、あんな事を繰り返す程、それを見過ごすほど
そこまでじゃないから。
そう思えてこそ、人間の国なんです、という誇りを保てる気がするんです。
やった事を認めない、それを教訓にしないという事のほうが、余程自虐的、自堕落に思える。
過去の、将来の、日本に生を受ける人を「自ら」と見たときの、自らに対する自虐であり
愚かさを繰り返す、誇りをもてなくする事のような気がします。

今の自分たちを恥じるのではなくて(まぁ、半世紀以上、
自分達の国の政府がいろいろ放置するままにした
そういう政府を放任した選んできた責任の一端は
どうにも恥じなくてはならない気もしますけれど、
それは私たちを含む直接手を下さなかった世代が
それでも背負っている罪のような気がしますけど。)
恥じないですむように、なんとかしないか、という事が大事な気がします。
その為には、まずなにより、知らないってのはありえない。
知ってこそ、今からでもできることが何なのか考えられる。
そう思えば、歴史を直視する必要が出てきます。目を背けたくても、
めまいがしても(←虐殺のとか
直視すると、なることもある。でも、その価値は必要は、あるのだと思います。)

埼玉県の長である県知事は
図書館や博物館の運営を、民間企業に委託することも
公共施設の管理・運営を民間企業などが行政に代わって行う、
「指定管理者制度」が創設されたことも受け、
そうした制度の活用なども視野に入れ今後の方向性を考えていく方針にあるのだそうです。
学校で学べず、また、図書館や博物館においても
採算を重視し、コストを削減することを優先するようになれば
これからの世代は、良心的な歴史の資料を学ぶ事がしにくくなるように思います。
県知事は、今までの教育は”自虐的だったと思う”と県議会において発言しているのですが
(長峰 宏芳議員の国旗国家についての質疑に対する答弁)
http://www.pref.saitama.lg.jp/s-gikai/gaiyou/h1609/1609_a.html
国の政府だけでなく、
なにか、本当にきなくさいです。