domenica, ottobre 08, 2006

ラマダン

自分はイスラム教徒ではないが
世界の、貧しい人々の苦しみを共有する
というのどっかで読んで
宗教の教えとして従っているとはいえ、すごいなぁ、と思った。
そういう理由で、断食をせよ
とされたときに
納得して良いことだと思って断食するところが、すごい。
夜食べるから、結構なんとかなるんじゃないの、みたいな話を
いつだったか誰かが言っているのを聞いたが
宗教と関係なく、
いっぺん、やってみたらいいと思う。
頭で考えるのと、ぜんぜん違うから。

私の場合、たまにであれば
水以外のものを断つことは、
現在だと、
13時間目までは、気にならないが
そこでお腹が減ってくる。
その場の事情で、なんとかできなかったりすると
あとは時間を増すごとに
だんだん物事がごちゃごちゃになってくる。
水は、もっと短時間で無理になる。
高校生くらいのときは
もすこし長いこと我慢できたけど
最近は、だめですわ。

月っていうからには、一ヶ月くらい続くんだろうが
一ヶ月、昼間、水も飲めず唾液も飲めず
ふ・・・わぁ・・・

こういう事を毎年繰り返して
毎年、自分以外の、飢えている人の感覚に思いをはせるような人々を
今みたいな目に合わすのは
だめだと思うんですよねぇ。
しかも、個人の保身のためだったりするのかもと思うと

宗教だけで、人間って、・・どうなんだろう。
狂信者、というものは存在するが
すべての人が狂信者になる可能性を備えているかというと
そうではない、と、思う。
宗教に定められていても
信者であっても
納得できないことは、しない人もいると思う。
とくに、イスラム教くらい大きければ。
で、断食は、納得して、行うわけだ。
日本に生まれ育っていると
信者じゃなくても、仏教のお寺とか身近だし
よく考えてみれば、断食はイスラムの専売でもない
日本の風土って、こういう色、強い気がする。
それが良いか悪いかはよくわからないが
両面あると思うが
こういう感覚ってのは
結構身近で理解しやすかったんじゃないだろうか。
他人の貧しさや不幸を、自らで思い知ってみる事の意味とか。
そういう風習や考えを持つ相手に対する
尊重?敬意?うまい言葉が出てこない


改めて思い出すわけだが
よく、空爆に賛同できてしまったものだ。



他人の苦しみを共感する云々だけじゃなくてもさ、
・・・あと30分で解禁、
水ー!!!
というときに
殺されてごらん。
どんな宗教の信者であれ
みんながみんな悟りきったりしてないから。

生の身であれば
恨みは倍じゃすまないと思うなぁ


と同時に、

宗教でもなんでもなく
夜も昼も無く
ただ、経済的な理由から
何日も、
いつが終わりとも予想もつかず
なんにも食べられない人が
日本に結構増えてきてるらしいと聞くと
この国って、どうなっているんだろうと。
彼らの苦しみを、遠い戦場の人が共有していて
地理的な隣人は、「自業自得」と心の中で切り捨てている。

信念とかじゃなく、なりゆきとして
食べられないという状況がしばらく続くと
どうやって手に入れたらいいかとか
考えなくなってきちゃうんだよねぇ。
どうでもいいかぁ、って。
いつでも死んだらぁ、っていうような

空腹も何も感じなくなると
なにもかも美しく見えてくるが
そういう美しさも
美しさのひとつだが

美しいってのは
政治家の仕事じゃない。と、思う。