domenica, ottobre 08, 2006

アンナ・ポリトコフスカヤさんについて検索していたら
”日本の、安全圏にいて役にもたたねぇことばっかしやっている
平和主義者”が大嫌いな人を
少なくとも2人はみかけた。
役に立つことをできる人にとっては
確かにいらつく存在なのだろう。

彼らのその苛立ちという反応は
これは、甘い誘いではある。
役にもたたねえ、自分でもわけのわからない
感情の無駄に大きい起伏による疲労は
本人にとっても、無いほうが楽である。
自然に素直に自分の興味が向かうこと
調べて知ることが楽しいこと
自分が面白いことだけを考えた方が
ずっと、楽だし楽しいし、精神も安定すると思う。
少なくとも、その意味にとって
本人に、”役に立つ”。

で、それで、いいんかいね?
真剣に、
困窮している人々の為に
自分の人生すべてを賭けている
偽善的でない人々にとって
それが本当に
人生のすべてを賭けてまで
得たい結果であるなら
困窮している人々にとっての
困窮をせめて軽減したい、良い結末に届きたい
というのが、本当の目的なんだとしたら
役にたたねぇ惰弱なおばかさんたちが
知ることも考えることも
放棄して
楽に暮らすことのほうが
本当に、自分のやっている行動の、その目的にとって
望ましいんだろうか。

結論は、今、私には、本気で
出ていないんですが。
そうかも、と思ったり
でもわだかまる

地獄の中にある人々の悲惨な状況を目の当たりにして
それが放置され、世界中の人の無関心の中で
どんどんどんどん進んでいくことを
怒りに震えるほどに思って動いている人たちが
命がけで入手して発する情報を
「役に立つことができる状況にありませんから
悲しいものは知らないほうがいいですから
お互いの為にね、」
という理由で
たくさんの役立たずの”おばかさん”が
選択して完全に遮断することが
情報の発信者から
望まれている事なんだろうか?

変なの。

普通一般の惰弱で
自分が生きることもおぼつかないだらしない人間は
そりゃ、脅しに屈するし
屈するしかないだろう。
脅しが実行されると
脅しに屈しないだけの、脅しに対する対効力が無い人間は
抹消されるわけで、抹消されて
居なくなったほうがいいのかもしれないが
それは、脅かしに屈しない、行動力と
行動できる環境を兼ね備えた人達の
立場からの価値判断なんじゃないか?
自分の目指す理想のように動けない他者は
居なくてかまわない

したら、自分たちの望まない行動をする人たちを
死んだほうがいいと思って
暗殺する人たちと
変わらないじゃないか。

役にもたたねぇ
その他大勢の人たちが
もし
普通に一般常識として
よそで何が起きているか理解していたら
今みたいなことにはなっていないんじゃないか?
安全圏にある惰弱な平和主義者たちが
平和でない場所で何が起きているのか、意識の隅においていることは
知っているということは
大事なんじゃないか?
いつか、他の場所で起きている不幸が
いつまでたっても、意識の隅で続いていることに
我慢できなくなるかもしれないじゃないか。

だから、知られることが
妨げられるんでしょ?

誰かに動けるだけの条件がそろったとき
条件がそろったことを自覚していても
何が起きているか知らなかったら
その動く方向は、違うことに向かうんじゃないか?
実際そういうわけで、
元気あふれる人たちが
自分の楽しい事を楽しくやっている結果が
今現在の、世界なのでは、ないんかな。

もやしみたいにふにゃふにゃした平和主義者が
折っても折ってもキリ無くたくさん居る方が
鋼鉄みたいに意志の強い攻撃的な人がたくさん居るより
少なくとも、流される血は少ないと思う。

ふにゃふにゃしていても
役に立たなくても
平和主義者である以上
平和主義者である事をやめないなら
少なくとも他人の血は流さないだろうと思う。

問題は
平和主義者ってのが
その場3分の平和の為に
平和主義者であることを
放棄する場合だと思う。
何も脅しとか無くても
「そうだよね」と言ってその場の空気を和やかにするために
相手を喜ばすために
「役に立たない平和運動なんかやめちまえ」
「そうだよね」
「相手が言葉が通じないんだから、武力に訴えてでも
通じさせるしかないだろう」
「そうだよね」
「愛する人の為に、命を捨てることこそが、
勇気だろう」
「そうだよね」
「馬鹿が多いから、こんななっちゃうんだから
馬鹿はみんななんとかしないといけない」
「そうだよね」
「調教するか廃絶しなければいけない」
「そうだよね」

この、そうだよね、が、いっちゃん怖いんじゃないか。
で、屈託無く
そうだよね、と言う為には
知らない、考えない
っていうのが、一番、役に立つんだよ。
安全圏にある人達が
英雄好きで、暴力的な勇敢さに憧れている状況が
現場の、戦闘する人たちを祀り上げると思う。

                         (余談。個人的には主義者という言葉は嫌い)

それを望んでいるわけなのか?

相手との争いが目的ではなく
でも、自分が自分であるために
自分が疑問に思う内容に対して
「そうかなぁ?」
と、言える程度のもやしになら
その他大勢がなれる可能性は、まだ、高い気がする。

そこいらじゅうの人がみんな
役に立つ取材者たちのように
戦闘地域に行くようになったら
行けるような条件を兼ね備えた人ばかりになったら
条件を兼ね備えることが、義務となる世の中になったら
それって、
・・・

それは、戦時中、と、あんまり変わんない。

役に立たないことは
止めたほうがましという誘いはものすごく魅力的で甘いのだけれども

むちゃむちゃ美味しそうだけど

つまり、どうにも、乗れない。
意味とか役立つとかを”正”として考え出したら
生きていては、いけない、というところに
たどり着いてしまう





”私”は、
周囲や
インターネット上に公開されている
他人の言葉の中の意見や気持ちに、
反応しすぎている。
あまりにも、過剰だと思う。