mercoledì, gennaio 12, 2005

intolérance

人は一人一人多かれ少なかれ違っています。
その違いが、多かれだったとき、それを病気と定義づけないと
受け入れられない社会というのは、なんだか寂しいと思います。
彼等・・と言っていいのかどうかわかりませんが
(そう診断される人と診断されない人とが
どう違うのか納得いかないので)
彼等はコミニケーションや感覚の受け取り方が、少し違う、のだと思うのです。
自然界においては、それは、肌の色が違ったり目の大きさが違ったり、
そういう違いに似たようなものの気がします。
アスペルガーであれ、自閉症であれ、名前をつけてしまいましたが
それは、例えば腫瘍であったり、薬などで遺伝子を傷つけられ
引き起こされたりした物理的損傷と違い
生命活動に支障は無い事が多いように思います。違いますか?
自然の流れの中では、生きていける、
フツウに、そういう風にできている、のだと思います。正常。
ただ、一般大多数とは感受のしかた考え方感じ方の方法が違うので、
一般大多数は一般大多数のコミニケーションのやり方をしたとき
それが通じないととまどい、病気としないと受け入れることができない、ように思います。

アメリカが、自分たちとやり方が違うと、
とりあえず自分たちに合わせて変えようとするのに似ていますね。

人はそれぞれ違います。
その違いは、スペクトルのようにグラデーションをおび
そして、片側から、一番外れたもう片側のこの二つは、ものすごく違います。
真ん中くらいとだと中くらいに違います。
近くであれば、違いはだんだん目に付かなくなります。
でも、違います。
違うそれぞれを知り、どう違い、どう付き合えば共存できるか
それは、”病気”の人相手であろうと、そうでなかろうと
ひとりひとりに会ったそのときから、
そのときを最初として謙虚に真摯に始める必要があると思います。
自分のやりかたと違って、自分が疲れるからといって
自分の思う社会のやり方と違うからといって、
やれしつけが悪いの頭が悪いのというのは傲慢だと思います。
そういう考えを持つことこそ、頭が悪い。
こういう場合に限らず、何かっていうと
他人のことを、しつけが悪いの甘やかされてるの、
自衛隊に入ってイラクに行って根性叩きなおせの、いけしゃあしゃあと
のたまうような方々こそ
人の気持ちがわからないし、経済面でなく育てられ方が悪いと思うし
オタンチンパレオデュカスで豆腐の角に頭ぶつけてXXXXXだと思う。
自分がいかほどの者か。
経済活動においての優勢だけが、価値か?
そのせいで、地球はぼっかれつつあるんだけど。
まとめられて整然と足並み揃えて動けることが良いとするのなら
いわしさんやや蟻さんとお付き合いなさればよかろ。

思ったのは
そういう風にできて生まれてきた場合に
大多数が、その人と大きく違ったときに
問答無用で、その人のほうが社会に適合するべく矯正されることが前提とされる
それは、なんだかつまらない社会だねぇ、とそういうことでした。
なんだか不公平だし、本当に、つまらないねぇ、と思います。

普通の人から見て、”高機能”と選別されたり
そういう特殊に”優生”とみなされる能力が無ければ”障害”で”劣性”とみなされるのは
なんだか寂しいです。
記憶が飛びぬけていたり、楽器などの演奏が飛びぬけている場合もあるという事実は
それが”病気”ではなく、そういう風にできている
もしかしたら人類という種の中での”進化”のひとつかもしれないと思わせ易いですが
たかが別の人間が優れているいないと決めるのは傲慢で
高機能とされない人も、もしかしたら自然の流れ宇宙の流れの中で
ものすごく高機能かもしれません。