domenica, agosto 01, 2004

託す責任

個人の意思は、小さな事であれ、またどんなに正しく思える目的の為であれ
犠牲にされてはいけないと、私事を離れて私は考えます。
個人の思いは、本人のみによって管理されるべきです。
私の文章には、くどくて邪魔臭いほど、この”思います””考えます”が
多いのですが、それは私の能動的で主観的な判断によるものだということを
明らかにする必要があるからです。
正しいか間違っているか、善か悪かは、結局のところ
主観的なものです。
だからこそ、その為に人が殺されない傷つけられない事は
約束しておいた方がいいのではないかと思います。
確実ではないことの代償は、
せめて後から少しでも取り返しがついた方が良いと
思うからです。
一者の正義が
それをどう思っているのかわからない他者の権利までを、
巻き込んで犠牲にしないために。
私は高遠さんという人の存在を知ることをきっかけに、
いくつかの事を思い、また信じましたが
それは高遠さんが、”思え””信じろ”と
強いたゆえのことではありません。
私が高遠さんの存在と行動を見た事実をきっかけに、
私自身の意志で、学んだのです。
私の責任です。
私は、せめて投票に行ってくれたらいいのにな、
平和を願ってくれたらいいのにな、と
祈ることはあっても、それを他者に強要することはできないのです。
これは個人の権限外です。
例えば、仇討ちが、感情的にはいかに理解できても、
社会の中で認められていないのも
このことのためだと思います。

まだ精神の柔らかい子供たちと関わる教職にある人達が
自分の良心に従った行為を、”二度としないために”
ただ一方向の思想のみを、強要される、調教される事がまかりとおるなら
本当に自然に快く、自らの生まれた国を愛する事が
できない時代に、また進んでしまうと思います。
個人の良心を抑圧して、力づくで強要しなければ通らないような考え方は、
例え押し付けきれたとしても、結局卑屈な服従に過ぎないものだと思います。
そんなことを押し付けたい目的は、何かな、と思ってしまう。

この事に例外があるとすれば
それは、政府や、政党、公人に対してだと思います。
なぜなら、彼らは、その選出方法に疑問を拭いがたいとは思えるものの
とにもかくにも、私達の代表だからと思うからです。
代弁者なのです。
代弁者にもかかわらず、私達の望まないことを私達の名前で”代弁”することを
もし撤回させる為に抗議しなければ、それは私たち自身の行動であると容認したと同じです。
今、民主党の代表者が、憲法を変えて、海外で日本の軍隊が武力行使をできるようにしたいと
発言し、またその党においての、次期代表者とも思える人が
憲法が変わるまで待っているのはかったるいから
憲法を変えなくても、武力行使はできるようにした方が良いと発言しています。
総理大臣は、憲法は変えてもいいと公言するし
経済的に大きな権力を持っている人達は、それを煽り支持しています。
民主党、自民党に、投票した人達は、抗議しないなら、
これを容認した事になりますが、本当にそれでいいのかなと思います。
民主党から立候補した人は、
結果的に民主党に票を集めたわけですが
今の民主党の方針が明らかに自分が主張したことと違っている人は、
この事実に対してどうするのか、私は注目しています。
彼に投票した人々の責任についても、注目しています。
それは、悲しいほどに力が及ばないながらも、
つまりは、私達全てにその責任だけはかぶさってくる問題だからです。