mercoledì, novembre 10, 2004

否戦

思うんですけども
戦争に、出征した兵士が殺すのは、
兵士の家族や大切な人を苦しめたり傷つけたり殺したりした人じゃないんですよね。
兵士となって、家族の誰かが戦争に征って不在の間に、ましてや戦死などしたら
兵士の家族や大切な人が、
犯罪者となった誰かに、もしくは災害に、または病魔に脅かされたとき
その人が、共に家に居れば、
守れたかもしれない、せめて心の支えとなれたかもしれないのに
そう思いながら、苦しめられ、命の危険にさえ、さらされるかもしれないんですよね。
守りたいなら、連絡の取れる、危険なときは駆けつけられる存在でいたれや。

守るための本能的な暴力と戦争は
随分違うと思います。
集団で、別集団に属する個人全てを敵とみなし、それを攻撃する
また自ら側の集団に属していさえすれば、それ以外については無条件に味方とみなす。
そうなってくると、これは、文明のひとつだと思います。
定義づけなど、野生ではできないもの。

殺したいほどに憎悪するほどの理由の無い個人を
命令であるから許されるから、わざわざそこまで征って殺すというのが
戦争だと思います。

戦場において、そこに居る人が極限状態となり
残酷極まりないことを平気でできるようになるのは
その一部だけを見れば、野生の本能的な現象かもしれないと思いますが、
兵士となる人間を育て、そこに赴かせ、その状況に陥らせるのは
人間にしかできない
しかも、人間であればこそ、避けようと思えば、それをしない事を選べる
悪事だと思います。
それが、戦争だと思います。

矛盾を肯定する事の必要性は、時に、あると思います。
矛盾していても、
世界という機能が成立する為に、守らなければならない最低限の事がある。
多分、その矛盾は矛盾に見えて、矛盾していないんですよ。どこかで。
戦争を肯定したら、共存はできない以上
答えが出ているから、きっと、計算はあっているんです。なんだかな。
その方が良いとわかりながら、計算の全てを把握するまで、その答えを認められないで居ると
その間に失うものは大きいので、とりあえず、答えを認めて
後からゆっくり、何故そうなのか計算を検算するのでいいような気がします。
矛盾に見えても、とりあえずそれを肯定しとけば、
戦場で殺される人が出ないならそれでいいじゃないかと。
矛盾してても殺しちゃえという、その方向で妥協をすると取り返しがつかないけど
まず、戦争だけはしないでおいたなら、殺さないでおいたなら、後で、きっとなんとかなります。
人間の脳みそは、なんとかして、他の方法を考えるだけの能力があると思います。
1人には無理でも、答えの要素を少しづつ誰かが持っていると思う。
知恵を寄せ合うという事が、言語を持つ人間には可能です。
せっかく、殺しあわずに共存が可能な方法も考えられるかもしれない
という、そこまでの思考力のありうる脳みそを授かりながら
いかに、巧く殺しあうか、に、その脳みそを使い
(考えずに殺せという命令に従うのは犬でもできるので、人間にしかできないわけではない)
牙も爪も毛皮も、そういう身の守り方を放棄して生まれてきたのに
そのかわりになる、以上の、武器や戦略を考え出す為に、その脳みそを使うのは
人間にしかできないのかもしれないけど
やっぱり、それを人間らしさと認めたくないです。
そこに、嫌悪感を感じる、その感覚を、
人間らしさと思いたいです。