lunedì, febbraio 07, 2005

「もうひとつの国」の危機

関谷勝嗣参院憲法調査会長は3日午後、
今国会中にまとめる最終報告書に
「憲法9条の改正は必要との意見が多数だった」
との内容を盛り込む考えを示したそうです。
先日、今後予想される展開として、
早ければ、今年5月にも改憲の為の国民投票法案が、
国会に提出され成立してしまうかも
しれないというのを読みました。
もし、それを阻止できたとしても、
今の状態では成立するまで何度でも提出されてくるでしょう。
この人達は、本当に呆れるほどにこつこつと地道で
着実で根気強く歩を進めてきます。
考えてみれば、この方々は、たとえ今目標を達成せずとも、
主張を続けている、という事によって今の地位を保持できるとか、
権力を保持できるとかの利があるのかもしれません。
続けている事そのこと自体で、得ができるのでしょう。
それに引換え、戦争をしない平和主義である事を求め、
憲法の改悪に反対する側は
ただ、それによって、こういうときに黙っているような人間にはなり下がらない、
という誇りを持ち続ける事ができるというそれだけです。
誇りで空腹は満たせないとなれば、なかなか持続が難しい。

でも、お腹の足しにならない、雨風しのぐものにはならない、
その誇りは、
実は、人間として在り、生きていく事に、
とても大切なものと思うのですけれども。

こういう、感覚、価値観というものは、
読書によって培われる事も多いような気がします。
勿論、本好きな人が皆、戦争を疎み、
平和を求めるようになるとは限りません。
”作る会”の人達なんかでも、読んでいるかいないか、
で言えば、かなり読んでいる人々だと思います。
ただ、普通に自然に考えた時、
大多数の人は「平和なほうが良い、戦争はしないほうが良い」
と考えるものだと思います。
その人達が、その考えを、自分の考えとして組み立て、
確かなものとできていたなら、9条や前文に特に示されるような
現在の日本国憲法の毅然とした平和主義の姿勢を
変えようなどという意見が主流になるはずが無いと思うのです。
漠然とした、本能から来る自然な思い、
それを根拠立て確かなものとできないでいると
その考えに自信がもてないから、自信ありげにきっぱり主張する人が居るとき
その内容が何か違うような気がしても、流されてしまうのだと思います。
もし、自分の考えが確かなものであったなら、
たとえいくらきっぱり発言されたものでも
その発言の矛盾や、異常な点があれば、それに気が付くことができ、
自分の考えが揺らぐ事も無いはずです。
矛盾してますよ。
改憲を主張している、軍隊を持ち戦争をできる国へ日本を変えようと主張している
あの人達が、元気で、幸せに、そういう事をのたまっていられるのも、
戦争は二度としない、という誓い、前文や9条に象徴される憲法に守られて
日本が、平和主義の国として60年間歩んでこれたおかげなのに。

考えを組み立てて確かなものにする力は、
澄んだ水をそそぐように、
たくさんの言葉を自分の速度で理解しながら頭の中を通す
文章を読み進める事で養われるものと思うのです。
憲法の前文や9条を読んで、わかりにくい、
理解しづらいという感想しかもてないというなら、
まず、そこで、そんな国語力でいいのかと思ってしまいます。
この、気高い決意を示した美しい文章に感動できないなんて、
せっかく日本語を母国語とする日本人として生まれたのに、なんて勿体無い。
日本人が一番に日本語を深く理解できないのなら、
一体、日本語はどうしたらいいんですか。気の毒に。
自分の日本語の能力がそう優れているとは、残念ながら思えませんけれど
地方のそれぞれの方言、子供や若い子の使う新しい日本語や、
外来語がこなれて変化したものも含めて、
私は、日本語という繊細で情緒の深い表現を持ち、
幅の広い言語がとても好きです。
なんてことを書いていると、まぁ、自分の愛国心、
その辺の街宣車のお兄ちゃんよりよほど強いと
苦笑せずに入られませんが。
言葉を頭の中で組み立てて、自分の考えを確かなものにする
日本語を母言語としていながら、
それがそんなにまでも、理解されなくなってきているのなら
自分の意見、確かな自分というものを、
持つのも難しくなってきているのかもしれません。

本が読まれなくなったせいなのではないか、
多少暴論ですが、そう思うことがもうひとつあります。
以前、高橋源一郎さんの書評について書いたとき
何かおかしい、なにか変になってきている、
この「なにか」、は何だろう、と考えたとき
それは、良心、というものが失われてきている事なんじゃないかと思いました。
今、またそれを思い出して、思い至ったのは
「想像力」が失われてきてしまったので、
「良心」が機能しなくなってしまったのではないかという事です。
テレビで司会者が「この捕虜に拷問を加えて情報を引き出してもいいかな?」
と問うた時視聴者や回答者が「いいとも」と答えた、
というそのえぐい現象は
つまり、そういう事を訊かれた時に、
拷問を加えられる側の人間の痛みや苦しみが、
瞬間的に脳裏をよぎらない、想像できないからこそ、
それに「YES!」と答えることができてしまい、
罪悪感を感じる事ができないから起きた事なのかもしれません。
これが、イラクへの戦争をしかける大統領を支持できてしまう、
「作る会」の教科書が、採用される事を見過ごせてしまう、
クルド人難民者のカザンキランさんがトルコに強制送還される事を見過ごせてしまう
その他、もう、ここの所、本当に列挙すればきりがない、
そういう非人間的な事がまかりとおってしまう
そういう所にも繋がっているのではないかと思うのです。
本を読んで、文字だけの所から情景を思い浮かべ、
少しの間、読み進めることを休止しその情景を眺め
そして、また綴られた文字に戻っていく、
映像だけでは伝わりにくい、遠い氷の国や砂漠の国の人の気持ちや価値観を
自分のものとして、共感する。
そうやって、長い人類の歴史の中で育まれてきた想像力が、
今、失われてきているのかもしれないと思います。

情報が少なかった昔は、知らされないことによって
残酷であってはならない事が、まかりとおっていったのだとしたら
現代は、いくら情報をもたらされても、
それに反応する人間の能力が退化してしまった。
だめになってしまって、許されるべきではない事が許されるように
なってきてしまった、のかもしれないです。

それで、ですね、
何故、図書館が民間企業に管理を委託される事に、私が、反対するのか、です。
民間企業が管理運営する事になれば、採算が重視されるような気がします。
コストが削減され、作業の能率化が進められ、
利潤を生むことが求められるようになるような気がします。
でも、図書館というのは・・・・・
例えば、10年間手に取られない、開かれない本があったとしても、
10年目に、誰かがその本と出遭うのなら、その本は、
10年間、そこに無ければいけないのです。
それは、無駄として省かれてはいけない大事な図書館の役割です。
今までに、特に子供の頃に、本を読んで強く感動した事がある人
初めて読んだときは、そう衝撃的でなかったとしても、
その本の内容がことあるごとに思い出されたり
何年も経ってから、その意味に気が付いたり
そういう特に思い入れのある本との出会いがある人は
少し時間ができたら、是非、図書館に行き、
その本が今も書棚にきちんと並んでいるかどうか
確かめてほしいと思います。
1人が衝撃を受け感動した本に対して、他の人間も同じように衝撃を受け
何かを得られるとは限りません。
というよりも、ほとんどの人は、それぞれが違う思いを抱く物と思います。
それぞれの個人の持って生まれた感覚、今までの経験、知識によって
同じものを読んでも、感想は十人十色なはずです。
でも、今大人になった人と、
とても似ている感覚を持つ子供が、今いるかもしれない。
同じ本に感動できる要素を持った子供が、
今、その本と出遭う時期にあるかもしれない。
その子供は、やっぱり、その本との大事な出会いをする権利があるはずなんです。
それが可能な状態になっているかどうか、確かめて欲しいんです。
大切な思い出を持つ本と、無事、書架で再会できた人は幸運です。
私の通う図書館の閲覧書棚からは、なだいなださんの「おっちょこちょ医」も
舟崎克彦さんの「ピカソ君の探偵帳」も消えていました。
大きさも装丁もとても好きだった、福音館の土曜日文庫が全部無い。
「おっしょこちょ医」を並べないでいて、よくも図書館を名乗れる!
・・・・私怨を交えてしまいましたが、

思い出される本を、ネットで検索してもわかると思うのですが
たくさんの素晴らしい本、好かれていた本が、今、廃刊、生産中止です。
そういう本は、図書館で探すしかないのです。
今の子供は、図書館でしか出遭えないのです。
たまたま、制限無く、気になった本を買える裕福な子供であってさえも
お店の本棚でその本とめぐり合う事は、なかなかできません。
古本屋も減ってきていますし。
今、背表紙が気になっただけで、何冊でも本を買える子供が
どれだけ居ますか?そういう事をしたいと思える子供がどれだけ居ますか?

民間企業が管理するようになって
人件費を削る為に、司書の人が減らされたり、その雇用が安定しなくなって
対応がマニュアル式になることで、
親身になって時間をかけ一緒に一冊を探してくれたり
なにかのきっかけで読む人と本とを繋げる橋渡しをしたりが、
できなくなってしまう事は無いでしょうか?
並べられる本も
企業が、その時広告費を費やし、今、元を取りたい、企業として売りたい作家の本、
ベストセラー、話題の本、売れ筋作家の本ばかりが、
試食販売のように並べられるようになったらどうしようと思います。
管理を能率化するために、整理しやすくする為に本の種類が減らされて
夏休みに3冊指定される文部科学省推薦図書のように、
提供する側が提供したい限られた本だけがあって
その本と気が合わなかった子供が、本を読む事の魅力を知らずに
読書は面白くないものと思ってしまって、本を読む習慣がつかなくなる
そういう事が今よりさらに増えてしまうかもしれません。
本当は、出遭うべき本と出遭わなかった為に。
その子の為にある本、その人が出遭う為にある本が
そこに無かったばっかりに。

出版社も、図書館が宣伝機能を持つような、そんな事になってしまったら、
たとえ一時的に一部の本を売るのに追い風を得られたとしても
長い目で見れば、本を読む人が減ってしまって、業界は衰退する一方だと思います。
図書館で、制限無く手に取れるいろんなたくさんの様々な本の中から、
本当に自分が面白いと思える本と出遭って
本を読む事の面白さを知って、それが習慣になり愉しみになり
どうしても借りているだけじゃいられない
自分の手元において置きたい本というものが出てきて、お金を払う価値を感じる。
新刊にも、歴史的な名作の本にも。
それでこそ、出版業だって安定した需要をもてると思います。

そうじゃなかったら、このまま出版社が本を出さなくなって
書店もどんどんつぶれて、
人はますます本を読まなくなっていってしまう。
そうすると、どうなるかというと、
・・・・・冒頭にモドル

公共施設である事、というのは、
どうしても国や自治体が管理している=国のもの、自治体のもの、
それを直接動かしている人達エライサンのもの
と思ってしまいがちかもしれませんが、
私達、ひとりひとりみんなのもの、なのです。
公共施設で在ればこそ、やっぱり利用者の為の
運営管理がなされる仕組みであるべきと
誰もが、建前的であったとしてもとにかく認めざるを得ないわけです。
NHKも、公共放送局だからこそ、
今のように受信料の不払いなどの意思の表示のしかたも
できるところがあると思います。
民間放送局であっても、とにかくメディアに政治家が圧力をかけて
番組内容を変えさせるなんて言語道断ですが、
制作する側が、勝手に顔色を伺って番組作りをしたとき、
公営の方が視聴者の憤慨が、まだ反映され・・・少なくとも本来はされるべきだと
筋が通りやすい。企業スポンサーがついていると、
観る人よりも、大事なのは広告主だ、と居直られてしまいます。
今、やっている事がおかしいから、その存在自体を無くしてしまおうというのも
またおかしい。民営化してしまえばいいという意見を
ここの所頻繁に聞きますが、視聴者のものではない放送局ばかりにするというのは
イタリアで起きたような、権力に繋がる放送媒体の独占
番組への関与の独占というのも起きてしまうかもしれないし、
また、違うのではないかと首をひねります。
公立学校でも、高速道路でも、税金を払っている国民の中にも
利用する人としない人がいるわけですから
NHKも、チューナーなどを配布して、受信料を払って観る
受信料を払わないで観ない、そういう選択もできるようになればいいのに、と
私は思ったりします。
受像機は、民間放送局だけを観たい人にも必要なんですよ。
今のやり方は視聴の押し売り、だと思う。
前回、「NHKも嫌いだし」などと書きました。
好き嫌いの問題じゃないから、
「嫌い」で切り捨てるのはまずかったと思ってたところなのですが
著作権をたてに、VAWW-NET Japanの集会での
改ざんした番組の上映を阻んだというのを知って
「やっぱり嫌いだ。大っ嫌いだ。」
でも、現実が本来あるべき姿とかけ離れている場合、だからといって
本来の筋の方を、曲げるなどというのは、愚かです。
間違っている方を正すのが、当たり前じゃないですか。

「作る会」の教科書を採用した白鴎高校付属中学校が
応募倍率14倍になったとテレビで言っていたのですが
「結局、一番大きな魅力は・・・!?」
学費が安く済むことなんだそうです。公立なので。
学費の安さが学校を選ぶ要素に大きく関わる、そうせざるを得ないそういう人達が、
まず「お国の為に、命をささげる事」をよしとする、
権力に従順になり自己犠牲を賛美させる教育を受けさせられるようになっていく

そのような方向にこのまま進むのであれば
せめて、そういう教育を受けながらでも
そこに疑問を感じられるような思考力を、
経済力で差別される事無く、様々な価値観と出遭う事のできる図書館で借りる本で
はぐくんでほしいと、私は思います。

だから、私は図書館の民営化は反対。