sabato, luglio 30, 2005

うつつ

暑。
靖国参拝をめぐる討論、を観ていたら
夏の疲れがどっと出た。
まだ、これから八月もあるのに。
こんなのより、もっともっともっともっと暑い所で
水が無いなんて、絶対嫌だ。バケツで汲み上げることができる人たちは
とても恵まれている方で、
貧しい人たちは汲み上げる水も無い、
って、・・絶対嫌だ。

自爆する人々というのは
まず、とにかく居なくなってしまいたくなっているんじゃないだろうか。
この次の一分この次の一分を過ごすのが耐え難いときに
居なくなる事へ、更に与えられる大義名分
殉教という口実がちらつかされた、なら、それは、
拒むのがとても難しい誘惑かもしれないと、思った。
イスラム教、過激派、である事が、自爆の原因と
考える前に刷り込むように伝えられるけれど
暑い中で、水が来なくて、浄水場が米軍に破壊されているとき
このまま生きていても、いつ理由もなく逮捕されて
人間が考え付く中でも最悪の苦しみを与えられて殺されるかもしれない
それが、現実として周囲の人が次々と居なくなるのを目の当たりにさせられて
そういう毎日だった時に、特に若い人間にとっては、
宗教や、過激かどうか、の前に
何かあると思う。

憲法九条や前文に謳われる”諸国民の公正と信義に信頼”を根拠とした平和主義が
理想論できれいごとだと言われているのを、最近とみに聞いたり読んだりするわけだけれども
きれいごとを、「表面だけを立派にとりつくろうこと。
見かけや口先だけ体裁を整えていること 大辞林 第二版 (三省堂)」 と定義するなら
きれいごとは、どっちだよ、と思う。
安部自民党幹事長代理さんの話を聞いていると
戦争の過ちは
「戦争に負けた」事であって、「戦争をした」事じゃないという考えなのか、もしかして。
そう考えてらっしゃるならば、
確かに、何故靖国神社に参拝する事が国の内外から憤りを訴えられるのか、
理解できないだろうと思った。
話を聞いていると
「だって、何とか君だって、前、やってたもん」
みたいな話になっていたけれど
他の何とか君達の大部分は、ちゃんと反省してるから。現在進行形の以外。
という以前に、他がやっていれば、何やってもいいのかと
じゃあ、殺人犯などというのも、昔から居るけれども
だからといって、殺人を合法にしていいのかと。(確かに文字通りそれが戦争なわけですが)

戦争に負けたことが、過ちなのであって
戦争によって、犠牲者が出た事は、勝っていれば、問題なかったわけなのだろうか。
”お国のため”や、”大切な人のため”を口実にたくさんの人が戦場に往かされた事は
国家権力が、出征させた事は、過ちではないという認識・・・なんだ・・・・?。

一部にほんの少人数の高潔な例外もあるかもしれないが
人間って、もう、どうせ明日にでも死ぬ、と思ったら
そう思っていないときよりも、酷い事ができてしまうかもしれないと思う。
しかも、命令であったり、集団心理で強い流れがあったら
流されてしまう人は圧倒的に多いと思う。
この人間の弱さは現実だと思う。
”敵”と定義された、武器を持たない民間人の中に
そういう心理状態の武装した団体を送り込んだ事は
過ちじゃないのだろうか。

靖国神社に祀られているのは
”国の為に犠牲になった人々”じゃなくて
”国の為の犠牲なのだ、と強制されて殺させられたり、殺されたりした人々”と
”国の為の犠牲なのだ、と殺したり殺される事を強制した人々”だと思う。
しかも、その事を祀り上げるまでに褒め讃えている場所だと思う。
こういう事こそ、きれい事だと、私は思う。
人間の人体の約70%は水分で
残りはたんぱく質とか脂質とか、ぐにゃぐにゃしたもので、
こういうものは、
”花と散った”り、”勇ましく砕け散ったり”しないと思う。
砕けるような物体じゃない。
どうせ、あとわずかで死んでしまう、
家族も恋人も、国の為に死んで来いと自分を送り出した。
死ぬ事を求められた人間が、
戦場でやる事が、残虐でおぞましくても、そこに矛盾は無いと思う。
戦争というのは、炎天下に放置して腐敗させた生肉を拡大増幅させたようなもので
そんな事は実際戦争を経験しなくても、
日々の経験でわかっていいと思う。
人間の身体を構成しているものは何か。
それが、死んだらどうなるか。
切れば血が出ると。
どんな聖職者でも人体が死ねば腐って死臭がすると。
それを、花だの珠だのに例える事が
きれいごとじゃなくて、何だろうと思う。
この現実を、つくづく思い知った日本人が人類の中で史上初めて
これは、良い方法ではないと戦争というものの実質を直視し
この国の国民がこの先生きていく為に
”戦力を放棄し”、物事を武力で破壊するのではなく、知力で解決するという
空虚でみせかけのぱっとした華やかさは無くても
より、確実で地に足の着いた
きれいごとじゃない、素朴で地道な、方法を選んだのだと思う。

自爆テロは、”kamikaze”と呼称されていたりする。
自爆する為の爆弾や、装置が発明され開発されたのは
そんな大昔じゃないと思う。
だから、イスラム教に詳しくないけれども、それでも
コーランに、「爆薬を身体に結び付けて
周囲の人も巻き添えにする形で、爆破させて死になさい」とは
そのような具体的な記述は、絶対書いてないと思う。
自爆をする事で、その宗教の立場が世界の中でよくなったりはしないと思う。
偏見は増えるかもしれないけれど。
宗教の為に、役に立っていないのに
自爆してきました、なんて言ってこられても、
神様としても、「恩着せがましいのがまた来た。まいったな」
って思うかもしれない。そういうものじゃないかもしれないが。

きれいごとを一切省くなら
一瞬ものすごく痛くて熱くて(一瞬ですめば運が良い方かもしれない)、
後は、巻き込まれた人や、その家族が
ものすごく悲しむだけだと思う。
自爆しなければ、少なくとも巻き込まれる人が巻き込まれなくて救われる。

人一人分、人が死んだくらいで
人間1人を生かしたり、守ったりは、できないよ。
ましてや、国を守ったり世界を変えたりなんか
できるわけないよ。
実際には、人の命1人分は、みじんこ一匹分と引き換える事だってできない。
人が1人死んでも、死んだミジンコが生き返ったりしない。
だいたい人一人分の命は、この人間の社会において
どんどん扱いが安くなっているし
本当に、虐げられている国の人々を苦しめている、その元凶の誰かにとっては
数秒の音声にしかならないと思う。
「どこそこで、自爆テロがあり、何人の死傷者が出ました」
それが、耳に届いて聞き流されるか
一行読んで、忘れるか、そういう事にしかならないと思う。
生きているから、重いのであって
死ぬだけで、何かができるくらいなら、苦労はしない。

これを、殉教、と呼んで、英雄と呼ぶのは
きれい事だと思う。
”kamikaze”なんていう概念を
作ってしまった、この日本の国の歴史の、ひどい過ちのひとつの余波かもしれない。

三島由紀夫さんの本を、結構読む。
だって、きれいごとの極みなんだもの。
ある程度以上に極まっているものは、ある程度以上に面白い。
微にいり、細にいり、綺麗に綺麗に作りこまれていて
面白い。
現実味が、まったくなくて面白い。
ちょっと前の少女漫画の、ひたすら背後からバラの花が湧いたりするのとか
顔の半分以上の大きさのある瞳の中に、星が散っているのとかも
面白いもの。
少女漫画じゃなくても、やたら稲妻が飛びまくったりとか
目の中で炎が巻き起こったりとか、面白くて感情もいろいろに動かせるけれど
だけど、それ、現実じゃないよ。現実に背後からとめどなく花が湧いて出てきたら
枯れたりして、臭いしごみは増えるし、
ショック受けるたびに一々稲妻がひかったら、危なくてしょうがない。
気象がとんでもない事になる。
作り物と現実を、現実の政治を扱う仕事の人は
分けて考えてほしい。
国が税金で軍隊を養い、武器を携え
外国に往って人を殺して、殺されて戻って来なくなって
そこで、バラの花が湧いたりはしない。
湧くのはうじだから。

靖国神社も、そこに祀られているかつて居た人々も
祀られていない、戦争で殺された多くの人々も
生き残って今なお苦しんでいる多くの人々も
全部、現実の事であって
鬼が島へ行ったら宝の山がありました
という話ではないという事を
認識して欲しいと思う。

それとも、言っている本人は、それが綺麗に飾った嘘であるとよく認識していて
綺麗に飾ると、いくらでも騙される集団心理を操るのが
面白くてしょうがないのだろうか?
そんなの全部きれい事で
普通に自分と自分の周辺の人間の飯の種だって事はよくわかっていて
飯の種が、自分の思うままに動かせるのが
面白くてしょうがないのだろうか。
面白くてしょうがない人が止められないのは、少なくとも理屈が通っているが
飯の種にされて面白くもなく踊る方が、止められないのは
ちょっとねぇって、思うんですけど。

今、イラクに居る、イラクの人も日本の自衛隊も、他の軍隊の人も
みんな、生身の人間だから。
一度亡くなったら、コマーシャルで復活してきてにっこり笑ったりもしないから。
わけのわからない大儀だの面子だのそういう飾りより
大事なものを大事にしてほしい。

大事なものってお金が大事とか言うのかな。
お金が大事なのは
大事な何かの役に立つからだしょ。
何にもなくなってお金だけあっても
意味ないだしょう。