lunedì, novembre 13, 2006

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こんな簡単に、ちゃんちゃん、ちゃんちゃん死なれてしまうと
生徒にしろ先生にしろ校長にしろなんにしろ
すごく巧く失敗せずに、毎日みんなしてどんどん自殺に成功してると
呆気にとられる。
愕然とする。
ぼーっとしてしまう。

なんなのよ。
そしたら、無理して
なんだかんだ考えて
瀬戸際をうろうろしながら
生きてるのが馬鹿みたいじゃない。
馬鹿なんだけど
馬鹿じゃいけないみたいじゃない。
なんなのよ。

そりゃ、本人たちは簡単じゃないつもりかもしれないけど
というよりも、
死んじゃった人に何も届かないし無駄だけど
あんたたちが死んじゃうせいで
いつまでたっても
追い込まれる人が追い込まれ続けるんだよ。
追い込まれた先の突破口を
誰も見つけないで
みんなして
死んじゃうから
いつまでたっても
死ぬしか方法がないんじゃない。
どうすんのよ。

そりゃ、
死んじゃえば全て、
その人にとっては完結だし解決だけど
そしたら、
さぁ、

それまで関わってきた人の事とか
なにか面倒をおして
その人の為に何かした人とかさ、
その人の為に我慢したこととかさ
そういうの、どうなんの?
無駄だった、ってことなんだな。
親切なんて、みんな、無駄だな。

こういう時、戦場や違う時代をもちこむのは
違うと、は、思うけど
つまり、
戦場でも
辛い中でも
死んじゃったら楽なときに
それでも死なないで行くことは
馬鹿なの?
別に、死ななかったからって
いつか、幸せになれるとは
限らない
多くは、実は、あんまり幸せになんか
なれないだろうけど
でも、それは、自殺はやっぱりいけないだろうと思って
ぎりぎり意識が遠のく瞬間にとか
やっぱりまずかろうと思って
けっこうたくさんの人が我慢して行き続けた結果
建前的には
戦争って
あんまり趣味で行ってはいけない
くらいには、
なったんじゃないかという気がするが。
趣味でこんな目にあわされたらたまんないっていう人がそう言ってきたおかげで。
ぼちぼち。
(それでも仕事なら、お金のためなら、戦争してもいい、みたいな
了解があるのが、まったく解せないんだけど。
正義のためなんていう理屈で、納得しちゃうって
つまりたぶんそういうことなんだろうと思うんだけど
違うかもしれない。)

死にたい死にたい
って言うのは、場合によってはありだと思う。
死にたいんだから
死にたいって言ってもしようがないと思う。
だけど、本当に、それで死んでしまうなら
言われた記憶が残った遺される人はどうしたらいい。
死なないから
死にたいってもらして
苦痛を訴えてもいいんだと思うんだよ。

少なくとも
誰かに何か提供されているうちは
自殺する必要は

なくったって、
死んじゃうしなぁ。
なんなんだよ。

いつでも死んだらぁ、って、思うのは
つまり、
死んでしまうリスクをおかしても
何かをして
その結果として
死んでもいいって事だけど
積極的に
死ぬ準備をして
死んでいく
その瞬間に
何も、ひきとめるものはないのか?
なかったのか?

ないんだよな。
先が無いんだもの。
生きてて、生きていれば良いことがあるかもって
ある人も居るが
確かに
いつまでも、無い人も
いる。
居るって事は知ってる。

で、先はなぜないかって言えば
追い詰まった人が、その多くが
追い詰まった気持ちを
解決する方法を
考えないで
逝ってしまうからだ。
多分。
だからたまたま死にぞこなっても
死ぬこともできないくらいの無能っていうのは
それはまたそれで稀少で
極小数になってしまって
いないことにされてしまう
声が少ないから
声として認知されない

死ぬほどまでに追い詰まってみなかったら
その切迫感はわからない。
追い詰められない人は、その切迫感がわからないから
どういう状況なのか、いつまでたっても
伝わらないから
「誰かに相談しろ」
だの、
「助けを求めろ」
だの、
「がんばれ」
だの、
「弱いからしょうがないんだ」
だの
そういうコメントばっかり屁のように沸いてきて
どっかに流されて
それで終わっちゃう。

誰かに相談しろ
助けを求めろって
どうやって助けてもらえばいいかわかったら
追いつまらないんだよねぇ・・・
自分の力にかなわなくても
なんらかのこれを誰かがこうしてくれれば
っていう望みがあったら
死なないよ。
こうなる、その方法を、あらゆる角度から考えちゃうよ。
そうすりゃ、いいなら。
助けを求められても
助け方なんか誰もわからないでしょう。
求めるほうにも、
どう助けてもらったらいいかわからないでしょう。
だいたい
助けを求めろの、誰かに相談しろの言う人たちは
「どうして私に言うの」
とか、
「あとにしてくれないかな」
とか、
「あんたまで私を困らせるのか」
とか、
言われたことがないんだろうねぇ
そういうことしか言えない人は。
幸せだと思うよ。

いじめに関して言えば
現在義務教育課程の時期にある子供で、
いじめが今現在進行形なら
このちょっとした注目が流行になっている今なら
この今の瞬間いじめられている人は
まだ、少し幸運だと思う。
今だっていう、それだけでも、
与えられている、運命だよ。
親や先生は無理かもしれないが
交番に駆け込めば
今のこの報道の扱い方とか考えると
期間限定で
なんとかなるかも。
交番のおまわりさんにもいろいろ居るけれども
基本、普通の大人よりは
切迫してしまっている人間から
話を聞くためのマニュアルが
身についているはず。
問題に対処するのが、仕事だということになっているはず。

でも、普通普段にこの国で
死にたいところまで追い詰まっている人間を
助けられる人は
場合によっては
誰もいない。
誰も助けてなんてくれないよ。
助け方わかんないもん。
過去例がないし
成功例が無いから。
みんな死んじゃったから。

死ぬ人がみんな死んじゃうから
死ぬほどまでに追い詰まる人は
いつまでも、
追い詰められて良いとして
そういう人は追い詰まるという犠牲があるものとして
社会の仕組みはできあがってしまう。

ここがこうなっていて
ここがこうなっていて
そのひずみとして
ここで、こういう人は追い詰まるが
自殺してしまって
解決されるから
それでよい
と、
無自覚に
無意識に
そうなっていってしまう。

かたづかなくってね
死ぬ死ぬいいながら
いつまでもうだうだわだかまってね
ごたごたひずんでいると
そういうのが、どうしようもなく増えたら
ひずむようにしておくのは
面倒だって、いつか、なるはずだったのに。

死んじゃったから
もうどうしようもないけど。

なんか、

そいじゃ、

馬鹿みたい。(私が、だよ)