sabato, ottobre 02, 2004

一段落

Simona Torrettaさんのインタビュー

▽最も、ひどかった瞬間は?

「拉致された時。すぐ処刑されるのかと思いました。」

▽最も、素敵だったのは?

「最後の日。私達のイラク人の同僚Manhazさんと Raadさんに再会したときです。」

Simona Torrettaさんは、どのように事件が起きたのか、ようやく語った。
▽拉致犯の手にあった21日間は、どのようでしたか?

「9月7日の午後5時、彼等は事務所への闖入をしました。
彼等が扉の所へ到着したのを見ました。
私達が目的で来たのは、すぐにわかりました。
彼等は警察ではなく機関銃や銃を男性の背丈の高さに構えていました。
私はSimona (pari さん)のところへ、
隠れるように言おうとして走りました。が、間に合いませんでした。」

▽車での移動は?

「私達は常に一緒でした。額を膝の上にし、
椅子の上に身体を屈する形で30分ほど、運ばれました。
Baghdad郊外のように思える部屋に到着するまで、
彼等はじっとしているように私達に命令しました。
ここで、手首を背中で縛られ、目隠しと猿ぐつわをされました。
赤い粘着テープで覆われた白いガーゼを覚えています。
それから、ジープのトランクに押し込められ、終わりがないかのような旅が始まりました。
5時間以上、暑く、喉の渇きに耐えていました。
着いたときは、歩くことができませんでした。
彼等は私達に飲み物と果物を与え、
それから少なくとも真夜中までかかった尋問が始まりました。」

▽尋問をしたのですか?という事は、彼等はギャングではないのですか?

「ギャングではなく、レジスタンス運動とつながりのある宗教的な組織です。
つまり、アメリカの望んだ占領に抵抗する男達です。
女性は一度もみかけませんでした。
私達の監視役は、3?4人でした。最初の頃、彼等はとても厳しかったです。
はじめSimona(Pariさん)が、すぐ傍にいることを、私は知りませんでした。
自分1人だと思っていました。
彼等は"Un Ponte per ...",の計画の全てを知りたがっていて、
現在の、学校について、交流について、病人の為の仕事についてなど、
活動状態を訊いてきました。
私への尋問にあたったのは、3人で統率が取れていて、
知識のある人達で、そのうち1人はアラビア語から英語への通訳でした。
簡潔な返答を要求し、そのうちの1人は、本当のことを言わなければ殺すぞ、
と首に刃物をかすらせました。
他の人間を拉致する為に、その情報を訊き出そうとしているようには、見えませんでした。
私たちの事を知りたがっていました。イスラムについてどう考えているか。
イスラム共同体と、それから、イタリアで、どのような繋がりを持っているか。

▽評価の段階は、どのくらい続きましたか?

「最初の4日間は、とても難しい時期でした。彼等は私達に
”私達は占領に抵抗している、イタリアは、
アメリカの先導する軍隊に参加している。だから
あなた達は、敵である。”と言いました。」

▽どう答えましたか?

「私達は、Berlusconi政権の政策には反対してきた。戦争にも反対してきた。
私は、ちょうど侵略されている時期に、イラクの民衆と一緒にイラクに住んでいた。
私達は、他国軍のイラク駐留に反対してきたし、反対している、と。
しかし、彼等は乱暴で、もしSimonaに話しかけようとしたりすれば、
耳元でdon’t talk!!! と怒鳴りました。
私は、私達の計画は、イタリア政府にも、
またアメリカ政府にも支援を受けていないと強調しました。
それは、とても重要な点です。」

▽着るものはどうしていましたか?

「Ciampinoに着陸したときもっていたチュニックを、
拘束された場所に到着したとき、与えられました。
私達は、解放されるまで、それを着替える時間はありませんでした。
時々、これを拘束されていた部屋の近くの
風呂場で水と石鹸で洗い、夜、乾かしました。」

▽21日間拘束されていた部屋はどのようでしたか?

「小さかったです。小さい窓がひとつ、家具はほとんどまったく無く、
床に敷かれたマットレスの上で眠りました。」

▽逃げる事は考えませんでしたか?

「それは、正気のさたではない考えだったでしょう。
生き残る為の唯一の作戦は、服従する事でした。
どうであれ、いつも、私達は静かにしていなければいけませんでした。
犯人達とは、尋問に答える時だけ話しました。
先程も言いましたように、殺されるかもしれないと、すぐわかりました。
いつも、この瞬間、それは、起きるかもしれないと考えていました。
暴力をふるわない事は明らかでした。
もし、彼等についてこさせる必要がある時は、服の袖をひっぱりました。
ひとりが不注意に足をひっぱった時は、他の1人が、とがめました。」

▽監視者を識別しましたか?

「サンダルを履いた足からだけ。毎回、彼等が部屋に入るときは、
私達は目を覆わなければなりませんでした。
私は床面の高さの所でだけ、かいま見る事ができましたが、
理解のあったひとりの監視役の足は、太っていました。」

▽状況はいつましになりましたか。

「5日目、私達の陳述の信憑性を確かめた事を、
私達に知らせました。陳述は、正しいものでした。
多分、イタリアが私達について発表した広報活動の、
特にアラブ世界内でのものを、見聞きした事もあったのでしょう。
彼等は私達が、ただ、イラクとその人民の為を望んでいる事を理解しました。
それで、私達に、清潔な布物(シーツやタオル、か、肌着)、
歯磨き粉と歯ブラシを持ってきました。
けれども、私達の部屋は恐ろしく静かでした。
何か交通の音や、アメリカの攻撃の音さえも聞こえませんでした。
どこか、広い平原に建てられた家に拘束されていたのかもしれません。」

▽毎日何をしてすごしましたか?

「何も。たくさん眠りました。とてもストレスを受けていましたので。
継続的に食物が運ばれました。
それから、幾冊かのコーランについて英語で書かれた本を与えられました。
イスラムの視点からのキリストの物語でした。
食べている間は、特別に私達の間で会話ができました。
そのときは、笑おうと試みました。
まぁ、私達の家族の話や、大切な人達の話もしました。
彼らの事がとても心配でした。」

▽イスラム教に改宗することは、考えませんでしたか?

「私は、アラブ語の文化には興味があります。が、改宗には、ありません。」

▽Fabrizio Quattrocchiさんが殺されたことについて、どう思われますか?

「反対します。あれは、犯罪でした。」

▽解放の為の仕事をしたのは、特に、イタリア赤十字の代行役員Maurizio Scelli氏でした。
過去に、あなたたちが痛烈に批判をした人物です。人道支援と占領軍が関わる仕事の境界を
解釈を曲げた事を、非難しました。矛盾はありませんか?

「確かに、私達は幾度となくScelli氏の仕事を批判してきました。
しかし、今日、彼には、心からの感謝をささげたく思います、
彼は勇敢によくやってくれました。
彼は私達を迎えに、命の危険を冒してBaghdad郊外まで来てくれました。
罠におちるかもしれなかったのに。
このことは忘れません。」

▽何故、Berlusconi氏に対する感謝の言葉を、繰り返すのですか?

「私達は私達の救出の為に全力を尽くしてくださった事に対して、
Berlusconi氏と、政府に感謝しています。
けれど、私達が到着した夜、私達は疲弊していて、
ショックも受けていました。2日後、共に演壇の上にいた人が、
Veltroni氏(ローマ市長)である事も、気が付きませんでした。
私達の態度は、悪意や悪気からのものではなく、故意でもありません。
短時間の間に、数千の握手を求める手が伸びてきました。
もし、どなたかへの敬意が欠けていたなら申し訳なく思います。
でも、わざとではありません。例えば、たった30分間で、
アメリカ人人質の方2人の処刑を知らされました。新聞を読む時間も
テレビを観る時間も無く、常に動いていました。」
(付 感謝の言葉が無いという非難が出てきたので
各紙のインタビューで、繰り返し政府に対する謝辞を述べています)

▽今や、身代金が支払われた事はほぼ確実ですが?

「もし、身代金が支払われたなら、申し訳なく思います。しかし、何も知りません。
私は、この犯行は、宗教的で政治的な組織によって行われ
最終的に私達が敵ではない事を納得したのだと信じています。」

▽占領と闘う為の拉致は、正当ですか?

「私はテロとレジスタンスを区別します。
兵士が対象なら、正当ですが、民間人に対しては反対です。」

▽イタリア軍はイラクから出てゆくべきですか?

「はい。疑うことなく。拉致される前から、主張してきましたし、今も、繰り返します。」

▽Allawi政権は正当ですか?

「いいえ。アメリカの手の中の操り人形です。」

▽一月末に行われるという予定の選挙は?

「正当にはならないでしょう。絶望しうんざりしきった状態にする方向に向かった、
この占領の日々は、イラクが復興するのに数十年もかかるというような結果に
繋がっているでしょう。」

▽いつ、戻りますか?

「戻りたいです。でも、すぐにではありません。アメリカの占領の終結を待つ必要があります。」

Corriere della sera 10月1日