mercoledì, luglio 13, 2005

はじめに言葉ありき

河童の川流れは、河童が川を流れている様子を表すためにだけ
使われる言い方ではないし、
山茶花は、”さんざか”を”さざんか”と言い間違えたのが定着したのだし
タツノオトシゴは、龍が産み落とした子供ではない。
サルノコシカケは猿の腰掛ではないし、
枯れ木も山の賑わいが、
つまらないものでもないよりはまし、だけではなくて
人が集まれば、にぎやかになる(から、
つまらない人でも、枯れた人でも、集めとけよ)でも
いいじゃないか。
言葉っていうのは、年月とともに変わるものだと思う。
相互に了解されて伝わった言葉の意味が、使われた言葉の意味だと思う。
知恵熱は、幼少時の原因不明の発熱だけではなくて
幼少時に、いろいろな知識を急激に吸収しすぎたために
発熱したのではないかと思われた、その発熱のように、
普段頭を使い慣れていないのに、急にものすごく頭を使ったから
オーバーヒートしてしまった、という意味に使っても
ぜんぜん構わないと思う。
ヤバイ、が、危ないだけではなくて、
はまりそうであぶない位に、美味しいとかかっこいい、という意味で使われても
怖いを超える位怖いから、超怖い、でも、チョー怖い、でも
かまわないと思う。

そんな仲間内で慣れ親しんだ、変化させて楽しんでいる言葉を
使ったくらいで、人間の精神は、荒廃しない。
荒れた言葉を使っていると、心が荒れてくると言う人は
荒れていない言葉を、使っている自信があるのだろうが
それで、自分の精神が荒廃していないと、自信がもてるのだろうか。
今、戦争が起きていて、国としてそのどちらかの味方についてしまったのに
日本中、世界中を駆け回って戦争被害を訴えたり
辺野古の海のやぐらの上に立って、基地が作られないようがんばっていたり
そのように、なんらかの事を、見るに見かねて、やらざるを得ない事になっている人以外は、
こういう時に、普通に暮らせている私達は全て、
いい加減、精神が荒廃していると思う。
精神を荒廃させて、順応しなければならないでいると思う。
それを、自分だけは、荒れていないと思って
自分の荒廃を、自覚できていないという事は
荒廃の程度が、それだけ進んでいるという事かもしれないと、思う。

辞書に載っている意味だけが、言葉の意味ではないと思う。
辞書は、使われている言葉を、追って編纂されるもので、
辞書の前に、生きて使われている言葉があるので、
辞書が、現実に追いついていないことも、少なくない。
にもかかわらず、辞書に載っているから
正しい、と思うのは
とても、奇妙であぶない、鸚鵡症候群だと、私は思うけど。
正しいという事になっているから正しい、と考えるから
地球は平面で、亀か何かの背中にのっかっているのだと
一生信じて疑う事が無かったりするのだろう。
その為に、地球が丸いと言った人を、断罪できたりしてしまうだろう。
正しいと思うなら、何故正しいのか、自分で納得する事、自分で考える事が
できなくなっている事こそが、精神の荒廃だと、思う。

人々の、心が荒れているのは
少なくとも、使っている言葉のせいではない事だけは
確かだと思う。

いろんな人が
ロンドンでの事件の伝え方と
イラクやアフガニスタンや、アフリカや旧ロシアや、その他の地域で
何千何万の人が殺されて、傷ついて、亡くなっていることとの
報道の扱いの違いに、
違和感を覚えている、それを書いているのを読んだ。
少し、安心した。

ここに気が付かない人々こそが、精神が荒廃している、と、私は思う。
”正しい日本語”を使っていても。

辞書に定義された意味や、
本来の語源を持ち出されるのは、
その言葉が、意図を持って、悪意をもって
歪曲されて使われる時、だけでいいと思う。
その言葉が、貶められるのは、嫌だから。


おまけ
「仏語を侮辱」で都知事提訴
これは怒る事・・・というよりも「藁」。ってねってねってね。
こうなったら、本人より投票した人の問題よ。