domenica, aprile 24, 2005

重みもいろいろ

いろんな考え方があり
いろんな教科書があって良いのだ、という主張を聞いていて
そうかな、と思った。

自分の頭が固いという事を自覚しているから
とりあえず、逆側から考えてみるようにしている。
私から見ると、明らかにおかしいが
私がそう考えるのも、今までの教科書のせいだ、等という説を読んで
そうなのか?と思ってみたのだけど、

思うに、加害者というのは
第三者よりも更に、被害者の気持ち、被害者とされた立場の人の気持ちというのが
全く、理解できないのだと思う。
加害者に親身になって、ほとんど同一化してしまうと
物事を両方から見えなくなるのかもしれない。
加害者の気持ちは理解できたまま
その、気持ちのある側は人間であり
そうでない側の事は、なんだろう、なにかもやっとした影のように
考えてしまうのだろうか?なにか、敵キャラとかそんなような?

加害者が、それは歴史上無かった事だと主張するのは
気持ちの上で楽な事だ。
それを前提に、歴史を調べ研究し資料を作り
その論拠を打ち立てていて、
多分、あまり辛いものではないのだろう。
そんなに、ひどい事はしたとは、”限らない”。
”たとえ起きたのだとしても”
地球上のあらゆる所で起きた事だ。
仕方の無かった事で、仕方の無い範囲内だ。
だから、自分が、もしくは自分の気持ちの入った加害者が
そう、特に悪いわけではない。
歴史上の、悲劇の一幕だ。けんか両成敗だ。

罪を認めることには苦痛を伴う。
何をやったのか証言し、
たとえ、他から許されていいと言われても
本人が直視してしまえば、本人には許す事ができなくなるくらいの
罪の意識を感じる、という事は、
したくない、という気持ちが強く働くほどに辛い事だと思う。

この両方を同じ量りにかけることには、疑問を感じる。
どちらが、信じられるかという事になると
やっぱりしずらくてもしなければならないという
信念や、勇気を持ってなされる証言の方に真実味を感じる。

更に
これが被害者となった場合
ここが、加害者や加害者に親身となった人々には
理解できないのかもしれないが、
それ以外の
被害者に、会った事も無くても、
例えば、加害国の1人でもなくその子孫でもなく
被害国の子孫の1人でもなく
まったく関係の無い人間であっても
少し、考えればわかるのではないかと思うのだけど、
被害者が被害を証言する事は辛い。
できれば、思い出したくないはずだ。
なのに、忘れられないのではないか?
痛みは、現在も続くのではないだろうか。
それを直視した時、痛みは増すのではないだろうか。

そのうえ、今また新たに浴びせられる中傷や誹謗を受けながら
それでも、証言し続けられる言葉というのを
加害者側の考え方と同じ重さで受け取っていいものかどうか。

加害者は、のんびりとにこにことしている。
記憶の中に残酷に鮮明な事実を
「もう、謝った。忘れても良い頃では?」という。
更には、繰り返さない、といいながら
何故か、もう一度繰り返す事が可能な状況に
物事を変化させようとしている。
いつまでも、過去の事に固執して恨み続ける存在から
防衛する為だといって
武装を始める。
もう一度繰り返さないと言いながら、
何を、に関して言葉を濁す。
次の世代に教えないという方向転換をする。
それまで、ほんのわずか、微々たる部分に限ってではあれ
たった数行ではあれ、教えていたものを
削除する、という。

この時の被害者の気持ちは
多分、自分を正当化したいという気持ちを持つ加害者にだけは、
理解できないのだと思う。

そういう、加害者としての考え方や立場の人も居るのだから
その気持ちを無視しないために、あいまいな表現を用い
多角的な視点の歴史の教科書が必要だ。

というのは、やっぱり、納得できない。
教科書なんだから。

例えば、私達は1492年コロンブスアメリカ大陸発見。
と、いう教科書で教育を受けた。
その後、コロンブスが生まれた国の人に
私が教えてもらった事。
アメリカ大陸には、既に人々が住んでいた。
コロンブス一行は、そこに到着し、もとから居た人々を虐殺し、
言葉を奪い宗教を押し付け、奴隷として自国へ連れ帰った。
彼等が、海に乗り出した冒険心は高揚するものがあるけれど、
コロンブスがしたのは、発見ではない。
アメリカ大陸は、ずっとずっと昔に
今や誰とも知らない誰かによって発見されて、
その子孫によって、文化も育まれてきていたのだ。

本当に、そうだ。
なんで、気が付かなかったんだろう。
その通りだ。

ところが、
それでもなお、
”コロンブスは1492年、アメリカ大陸を発見した”と
頭のどこかに刻みついてしまっている。
教科書は、そういう存在なのだと思う。
日本の学校教育というのは
黒板に書かれたこと、教科書に書かかれたことを
ノートに書き写し、暗記し
試験を受けて、回答を記入し
正解か不正解かに、選別され
正解を書けるように、訓練されるもの。だと思う。
ゆとり教育で、自由解答欄の白紙回答が増え成績が下がったので
これは、ゆとり教育が生んだ弊害と評価された。
考える事ができるようになったので、
決まった答えを、記入すればよいだけの頃よりも
答えを出すのに時間がかかるようになって、
決められた時間内に、まとめられるような
単純なものじゃなくなったせいなのだと思うけれど。
しかも、いろんな考えがある以上、
採点者、問題製作者の正解と同じものはどれでしょうという
読心術のテストになってしまって
ますます、答えをさっさと書き込むのが難しくなったせいだと思うけれど。

この国の考えている”教育”は叩き込むもの、覚えさせるもの、
信じさせるもの、であって、その機構作りに成功している。
そのうえで、教科書だけが、いろいろな考え方に配慮しちゃっている。
それは、納得できない。

中国も韓国も、反日感情を煽る反日教育をしているのだ、と
主張しているのを聞く。
だから、何なのかわからない。
被害者は、覚えているからだ、と私は思う。
そのうえで、
他の国がこうだから、日本もこうでいいのだ、とか、
他の国がこうなのに比べれば、日本なんか随分公平で偏りも少ない
というので、いいんだろうか?
子供みたいな事を書くけれど
他がやっている事であれば
何でもやるの?

・・・やるのかもしれないなぁ。
私が子供の頃
大人の人が、「じゃあ、A君が人を殺したら
B君も殺すの?え?」というお説教をよく聞いたけれど
今じゃ、多分、それは使えないだろうと思う。
肯定されたら、怖いじゃないか。
しかも、先頭たって
国の政を行う人達が、理想を捨て他に倣えを実践なさっているのだから、
なんとも、説得力も無い。

全ての人が、なんにも欠点が無いのは、気持ち悪いと思うけれど
政治家の人、有権者から選ばれる代表が
おかしげな事をして開き直って
きれい事ばかりじゃない、という場合には
批判が必要だと思う。
代表になった時点で
普通の人以上の力を得るのだから、
その権力を自分が濫用しない為の
ただの人以上の、自制心や自重心、冷静さとやさしさのある人である
必要があると思う。
だから、代表になるのだから。

である以上、
加害者側、自分の親近者の立場にしかなれずに居る人が
政治家という仕事をするのは困ったものだし
そのような人々の考え方を大いに取り入れた教科書も
やっぱり学校で使われてはいけないような気がする。

ましてや、そのうえ
被害者の国の教科書にいちゃもんまでつけたので、
こんなもの書くくらい頭が煮えちゃっているんですよっ。
なんでー、あのような人がー、外相なんですかー?????