lunedì, settembre 19, 2005

メビウスの輪

原材料
http://d.hatena.ne.jp/demian/20050908/p1
http://d.hatena.ne.jp/dempax/20050915#p1

いじめている側が、いつ、いじめられる側になるかわからない、
という事なんじゃないかと思った。
事件の時点では、殺害をしていなくても、
少なくとも集団で一人の人間をいじめていたという点では、
いじめていた側は、本人が死ぬ所まで追い詰められていたならば
死ぬ気になる所まで追い詰めるという、
もしくは、周囲がそうだったんじゃないかと思う根拠となるだけの事は
していたわけで、この点では、私には、充分、罪があると思える。
これが、事件になり事件その場面一点においての事実が、
その場に居た一人の人間の不在(被害者の不在)により
明確でなくなった。
その時、被害者が亡くなった時点で、いじめていた側の、いじめていたという事が
別の単位からのいじめられる理由になったとも、考えられる。
捜査の手段に、後からの疑いが出るような方法があったなら
たとえ、罪状が事実だったとしても
今度は、捜査する側に、強い立場から弱い立場を追い込む
いじめ的な心理要素があったわけで、
もし、それを見過ごすならば
事件そのものの発端である
いじめをしたという事についての、集団となっていじめをしていた生徒達側の
彼等の反省すべき一番大きな点への
糾弾も、うやむやになってしまう。
(付:罪状が事実でなく、他に、犯人が居た場合、
その犯人は、逃げた事になってしまう。
その可能性はあるのかなぁ?)

私には、視点が食い違っているだけで
論点は、充分、一致しているように思える。
お互いが視点を変えた立場で、この事件について検証しているのを見ていると
その結論が出されたならどのようになるのか、興味深いと思う。
どちらか一方の勝ちであっては、ならないと思う。
それぞれが相手側の視点を、自分の中に持ち
その上で、もう一度事件を再検証する事で
とても大事な事が見えてくるのではないかと思う。

集団の強さを、自分のものであると、勘違いして
誰かを、自分の快さの為に攻撃する事を容認すれば
いずれ、自分が攻撃される側になった時
それも、また、自分が容認した事であったのだ、と思い知る事になる。
っつーか、思い知らないんだけど。
自分が攻撃されたら、攻撃する側を憎悪するだけなんだけど。
そして、立場が逆転する。
立場は常に逆転する。
逆転を続ける回転だから、終わりが無い。∞。こういうこと。

糾弾は、糾弾される側に自分を置いて、それでも糾弾をする事で
はじめて、意味を成すのではないか
と思う今日この頃。
皆様いかがおすごし?