lunedì, settembre 19, 2005

エルベ河のほとり

(話がぶっ飛んで、挙句、関連性もあまり無かったので
前項から続いていた文ですが、切り離しました)

私には、なんとか主義とかって
楽しい言葉、以上の意味は無いんだ。
自分は既存の何とか主義であると自称することは
何とか主義を提唱している、という事になっている誰かの説を
丸ごと鵜呑みして、傾倒して心酔している鸚鵡ですと
自称していることになるんじゃないかと
思っちゃうんだ。
それはそれで、楽しい。
千切りキャベツは醤油かける主義とか言ってると楽しい。
楽しいけど、それ以上ではないよ。
誰か別の存在を、そう呼称する事は、人を十把一絡げにする
カテゴリー主義だと思う。
と、書いていることで明らかだが
私にもその傾向はある。
でも、それを良いものとは思わない。

民主主義だって、結局何だかわからないものになってるし。

平和主義ってなんだろう。
「戦争は絶対起きちゃいけない事だ。」
この絶対、が、主義になっているんだろうか。
地球には引力が存在する主義、とか言わないけど。
でも、天動説が信じられていた時には、
地動説、地動主義があり得たのかも。
戦争は必要悪だとする考え方もあるから
そのほうが、実際だと思う人々も居るから
平和主義は、平和主義と呼ばれるんだろう。
一体、どのような方法なら
戦争はするべきではない純粋な害悪で、必要性もあり得ない
と実証できるだろうな。
戦争の被害者の様子を見ても
加害者には、自分がその立場になる事を
実感として感じる想像力が働く立場に無いから
(腕力を兼ね備えているとか、権力があるとか、
生きてきた中で、被害者になった事が無いとか)
実証に至らない。

エルベ河の誓い。
1945年4月25日に、ナチ・ドイツ軍を撃破した米ソ両軍は
エルベ河畔で相合しました。
ドイツの非戦闘員の屍が累々として横たわっていたし、
なかには人形を抱いた子供の死体もありました。
酢鼻を極めた戦場に立って、米ソ両軍の若い兵士たちは、
今後協力して平和を守り、二度と再び、決してこのような悲惨事を
地球上では繰返さぬようにしようと誓い合ったのであります。
(「人間模索」から引用。残されている記憶の推挙として)

この誓いが、その後に、清潔な場所で人殺しを命じ作戦を指揮する人々に
いかに簡単に踏みつぶされたかは、問題じゃない。
あのナチスのドイツ軍を、撃破した、勝った側、その行動者たちが、
勝った時に現場で得たのは、後悔だった。
勝った側だから、言えた、という事ではないと思う。
戦いの終わった戦場での、
戦場に立って辺りを見回した人間の共通の感覚だったのだと思う。
残るのが、後悔なんだという事は
間違っていた事だったのだと思う。
結果に中に、良い事があったとしても
その良い事は、別の方法でもたらされるべきだったと思う。
まず、ナチスドイツ軍を誕生させない、という方法で。
どんなに、悪い存在であっても
それを駆逐する為の方法は、常に選ばれなくてはいけないと思う。

ナチスに権力が集中されるべきじゃなかったんだ。
その時に、世界中の人々が、
権力が集中される危険を、感知するべきだったんだ。
成立してから、戦争によって撃破し破壊するのは
正しい方法ではなかったんだ。
でも、今までに無かった事だから、わからなかった、なら(※)
今、その事実が歴史に残っているのに
また、繰返し続けているのは、一体、どういう事なのか?
ナチスドイツ軍は、たった一人の人間で構成されていたわけではない。
たった一人の人間だけで、あれだけの事は、やろうと思っても、できない。
そこまでひどい事が、起きたのは何故か、そこを考える必要がある。
(※ 本当は、あった事、だと思う。でも、多数に、両論の側が共通認識として持つ
悪かった、と認めさせる「悪かった」は、
ナチスのファシズムが、唯一かもしれないと思ったから。
「アイヒマンのような人物と一緒にするとは!」って怒るって事は
アイヒマンさんの行った事は、悪と、認識されているわけでしょ?)

戦争はしてはいけないという事が
なぜ、わからないんだろう。
いじめてはいけないという事が
なぜわからないんだろう。
いじめに屈しない人間になる事が必要なのではなくて
そんな、その屈しない人間になろうと思えばなれる一人個人だけが
助かれば良いと言うものではなくて
いじめに屈せざるを得ない状態が悪い。
いじめるのが悪い。
いじめに屈しない、のは、いじめがどの程度のものか
どの程度まで屈しないで居られるか
人間が能力として可能ないじめは、どこまでも、ひどくなれる。限界が無い。
人間が、屈しないでいられるという強さには、限界がある。
生まれつきの加害者はいない。
加害をした時に、その者が、加害者になる。
加害しなきゃいいんだと思う。

どんなに腕力を持っても権力を持っても
全ての人が、いじめられる側になる可能性を
いつも、認識しておく事が必要だ。
誰かがいじめられている事を許すという事は
自分がいじめられる人間となった時
いじめる側を、無条件で正当と認めるという事だ。
それを、自虐という。と私は思う。

戦争や戦争犯罪や、いじめや暴力を
正当化し美化することは
自虐だと、思う。