lunedì, ottobre 10, 2005

さんだる

低額の医療費は公的医療保険の対象から外して患者の自己負担とする
「保険免責制度」が、医療費抑制のための検討項目として、
10月中旬に厚生労働省が公表する医療制度改革試案に
盛り込まれることになった。
1回の診療にかかる医療費のうち500円、
1000円などの一定額を患者負担とし、
保険の適用はそれを超える分とする方法。
http://www.asahi.com/health/news/TKY200510010280.html

一回の診療が450円でも
そういう人に限って、来週もう一度来て下さいといわれるものだる。
重症で即入院で即手術なら一回の診療費は高額だが
軽症で様子を見る場合は、総額が高額なんだる。
軽い症状が出ていても病院に行けないで、
もしくは、セカンドオピニオン的診療なんか
贅沢で、「過度な受診」とみなされて、できなくなって
適切な診断のできる医者に出会えないままに
重くなってしまったら
障害者自立支援という名のもと
「未必の殺意」をもって、見殺しにされるわけだる。

あれだよ、病院に行く事も、医者を選ぶ事も
いわゆる、どこにでもでてくる
「甘え」だの「自己チュー」だのと見るわけだよ。
他人の事を「自己チュー」言う奴に限って
驚くほど自己中心的なんだよ。
自己中心的である事を自覚できないほどに。
「私は別」とか言い出すんだよ。
どこかの占い師モドキみたいに。

病気にならなければ
兵士として戦場で殺されるか
病気になるまで働かされるか。
要するに、これはひとつの攻撃だ。
抵抗のできない存在を
一見正論に見える言葉でくるんだ
権力の行使という兇器で傷つけ殺しているわけだる。
理由は、
「あの人達には理屈が通らない」と、他者を称する根拠であるところの
まず自分こそが理屈を持たないというところで、
ただ、楽しいんだろう。多分。
自分達がそれだけの力を持って、それだけの結果を出す力があると
実感したいんだろう。
力だけが、自分の自負する価値なんだろう。
攻撃がしたい。だけだ。

一握りの良心ある人達を弾除けにかついで
危うくなれば沈黙する。黙認という消極的な加害。
いつも強い側にある人は
いつも正しいと思っているかもしれないが
いつも、卑怯だと思う。

自らと違う世代の人々の、お互いの価値観や感性を認めあって
それぞれに尊重しながら手を携えている人達が、居る。
違う世代、違う文化、違う立場、違う環境。
たとえ、都合よく矢面に立たされても
たとえ、努力が実らなくても
私はずっと尊敬します。
自分の哀しいほど微かなできる事の限り
守れる限り、守りたいです。
自己陶酔でしかない「武力」「暴力」という方法以外のやり方で。

反面、確かに
自分達が若かった頃の事を、きれいな部分しか覚えていないで
値する中身も無いのに尊敬を押し付けて、
自分が得た良い思いはさせたくないが
自分達が苦しめられた事だけは、同じ苦しみだけは与えたい老人も居る。
自分達が享受している時代の価値も分からないで
年齢を重ねた為に体力が落ちた弱みを動物のようにかぎつけ
自分達の負担としか考えず、ひたすら排除しようとするガキも居る。
自分の孫もかわいくない。
自分の祖父母も「きもくてうざい」。
だから、孫が兵隊になってお国の為に死ぬ事を考えても
「英雄の祖父母になれて、尊敬されるかも」って思っちゃうし
家族が、治る見込みの無い病に倒れても
福祉なんか充実してなくても、構わない。
闘病とかしないで負担かけないで--と思って平気でいるのだろう。


そんなの開き直って
ああそうだよって、認めていいものか。
いいものな人が、結構、多いのね。
結構どころじゃないのね。
だって、まず、この社会の仕組みを決めている
政治に関わる立場になる為には、
そのくらいの攻撃性がある人じゃないと
勝てない選挙制度だからね。


他人を犠牲にする事に
どれだけ抵抗を感じずにいられるか。
勝ち組と呼ばれてる人なんて
誰でも思い浮かべてみ。
随分踏んできただろうなって、簡単に想像できるから。


生き延びたらいいです。
そうやって、他人の屍の上に。
踏まれる側になるまでの間。