mercoledì, novembre 23, 2005

諸行無常・・(←大袈裟)

木津上人無事釈放、不起訴処分決定
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200511181300_09.html
との事で、
これは、不当拘束を19日間以上続けることができない程度には
市民的な要求に実行力があったということで
0ではないだけ、まだ良かったけれど

19日間、無実の人を監禁拘束できてしまうという実証であり
良かったね、で終わったら、今後もこういう事は続くだろうな
という事であり
なによりびっくりは、
この件について、少なくとも私は一回もテレビで観なかった。
いまさら、びっくりじゃないかもしれないが
いまさらだろうと刺身皿だろうと
何度でもびっくりする。
よく、平気でいられると思って。

18日BaghdadnBurning更新。
こういう事についても
もう、一年以上
あまりにもあからさまな見てみないふりが続いているわけで。

どこの神様、仏様から見ても
実にバチアタリな日々が続いております。


一度、民主主義的仕組みが定着し
人権という考え方もそれなりに主流となった社会が
もう一度、強権的な独裁政治に戻る可能性はあるものなのかどうか考えてみた。
あるだろうと思った。
”自分が”他人より裕福になれない。
”自分が”他人に指示を下す立場になれない。
”自分が”幸せだと思えない。
事を理由に
安易に、”民主主義社会への幻滅”を思い
人間は平等でないと、悟ったような事を思い
「なんでもいいからとにかく政治が変わればいいのだ」
と主張する事で
なんでもいい、という部分が、なんでもよくない人に巧く利用され
変えてはいけない部分が変えられる起動力として使われるだろうと思った。
平等な権利というのは
どんなに能力が無くても
どんなに個人として不運で、あらゆる災厄に見舞われ続けていても
どんなに悪い事(個人には、感情があるものだけれど
だからこそ、その人が感情によって罪をなす事から守る為に
”社会”は恨みや怒りで動かず、
客観性を保つ必要があると思う。)をしてしまった人でも
雨風をしのぐ住居と、衣服と食事
入浴と排泄に障害の無い状態で生活ができる事
つまり、誰であっても、
社会全体からは、「死んでいい」とみなされない事だろうと思う。
何でもいいから変えろ、と、八つ当たりのためだけに主張する事で
自分の主張が自分たちの首を絞めている事に
気がつかないまま流れを加速させれば
今よりも更に悪く、物事は変わるだろうと思う。

社会の中で、一番弱いのは、子供と老人、病人であるから
弱いものに負担を押し付けて
弱いものが弱いから悪い
弱いものから切ってゆこうという考え方が定着するならば
個人にもそれが、常識として浸透してゆけば
体力として強いものによって
たとえ、家が経済力だの権力を持っていても
家を出ればただの子供である子供が
誰かの自らの思いを優先する事によって
犠牲にされるようになる事も
また、自然の摂理なのであろうと思う。
たとえ、若いときに貯蓄した財力や立場があっても
年齢を経れば、どうしても、誰でも力というものは減ってゆくものであり
誰でも年齢は重ねるものである以上、いつかは、それを思い知り
二度と逆転の可能性が無い弱い人間の位置に立って
犠牲とされる事になるだろうと思う。

いつも、完璧に実現はされなかったが
ある程度までは到達してきていたものを
より完成度を上げる段階にあったものを
今、壊してきていると思う。
自分の意思で他人の権利を奪い
屈辱を与え苦しめた人間よりも
ただ、弱い人間の方が
はるかに人間的でない扱いを受ける社会になってきていると思う。
そして、その事を修正しようとする動きを封じ込め
人間を人間として扱わない社会としての、完成度を高めようと
一生懸命な人たちが居ると思う。
自分も人間なのに。
「自分たちの国が良ければ、他の国のことは知らないというのでいいのか」
とたいそうな事を言って、他の国の人間の苦しみを増加させる為に
あってはいけない軍隊を、派遣してはいけないのに派遣したが
自分たちの国の、それまであった人権に対する尊重と敬意の念を
言葉だけはもっともらしい事を言いながら見事にないがしろにするようなやり方は
結局、他の国も、自分の国の自分以外の他の人間も、知らない、という事だと思う。
言葉だけはもっともらしいことを言う状況を
許容するのは亡くなった人間だけだと思う。
亡くなった人間は、発言ができないから
生きている人間に、いつも利用される。
この国の人達は、どうもいつも亡くなった人間を優先するが
生きている人間を大事にしない人間の、
亡くなった人に対する表現は
亡くなった人に対するもの、亡くなった人の為のものではなく
自分の為のものでしかないと思う。
生きているときに、大事な尊厳ある人間だったから
亡くなっても、尊厳が持続するので
亡くなったから尊厳があるのではない。


自分がされて嫌な事はするべきじゃない、し、
自分が窮地に陥った時に、なされてほしい事は
自分ができる立場にあったときは
最大限にやっておく事は
何も偽善でもきれいごとでもないだろうと思う。

きれいごと、を言わないというのは
がつがつした卑劣な人間である事を恥じる事さえしない、
という意味じゃないだろう。
偽善的では無い、というのは
他人を傷つけて平然としている人間、という意味ではないだろう。
忌憚がないというのは、悪口を言うという意味じゃないだろう。
正直であるというのは
厚顔無恥であるという意味じゃないだろう。



少なくとも、無実の良心の人が
今はともかく寒い冷たい場所に閉じ込められているわけではない
少なくとも、ひとりはそういう状態から解放された
というのは
正直、嬉しい。
一つの事を嬉しいと書くのも、大変である。

他に、おびただしい数の人が
まだ、どこかで苦しんでいるだろう事も

早くなんとかなってほしい、というか、
ちょっと神経が限界。