sabato, novembre 05, 2005

頽廃美

三島由紀夫さんの「憲法草案」は
ひっそりと暗がりで青白く燐光を放ちつつ朽ちていく所に
意味があるのではないだろうか。
結実しない所に、De cadenceな美があるのではないだろうか。

個人的な解釈としては
三島由紀夫さんは
戦時中の軍国主義国家が創りだした思想広報の為の美学を
しかし美学であるがゆえに美しくなってしまったそれを身体中に吸い込み
自らで演出し自らの全てを用いて、滅びゆくその終焉を飾ったのである。
崩れゆく所に、美があったのである。
自己陶酔は共有できるものではなく、鍛え上げた腹筋も
かっさばいたら、たんぱく質と脂質と水分の
びちゃびちゃした肉隗に成り果てると示してみせたのである。
血の聖杯を交わすなんて、言葉で書いたら、陰のある浪漫だが
実際やったら臭いわ気持ち悪いわ不味いわ変に固まるわべとつくわ、
結局、その現実の中での生き血の杯の、
むやみやたらな気持ち悪さが認識できないのが
狂気である。錯乱である。
人間は、清く儚い幻燈ではないのである。
三島さんは、それを示したのである。
物理的身体も、築き上げてきた実績も、誇りも、理想も、
自分に属する全てを滅ぼす事と引換えに。
空中の楼閣と、実際にやってみる事の差
デフォルメして思い描くものと、隅々まで略されない現実の差。

小さくて、過敏で繊細で、可憐で純粋な耽美主義で、あり続けられたら
それが、本来の個性だったはずだろうに。
同世代の人間が、みな戦死した中で
徴兵を逃れて、終戦を迎えてしまった後に
器用に新しい日本の価値観に素早く迎合する事もできなかった人の
巧妙ではない始末のつけ方だと思う。
そんな時代に生れなければ
違う咲かせ方もあっただろうに。

崩れないで、丈夫に
その後35年も生きる事を許容したなら
多少退屈でも、理を認めなくてはダメである。
人を殺してはいけない。
朗らかに民主主義である。
自分は、地道に愚直に鼓動を繰り返し呼吸を繰り返し
生き続けたのだから。

縦だか横だか知らないが
共に血判の契りを結んだのに
思想を同じうすると、誓ったのに、
共に逝かなかった現在は
転向後の現在である。
裏切って転向したのである。
今更のこのこと出てきて
同志面するない。

傾倒し、追慕したにもかかわらず
後に続いて散ることもなく
ダダ漏れで、ながらえた挙句
過日の遺稿を、このように無粋なやり方で白日の下に晒してしまうとは
ある種、冒涜だと思う。

実に興ざめで
白き灰がちになりて、わろし。

光と闇があって、世界が面白いんで。
爽やかに活発に、穏やかに明朗に
健やかにわはわはと笑い額に汗する白い歯のヒトビトによって構築される
陽光のさんざめく基礎があって
はじめて、
闇の暗さに意味が出てくるんで
暗がりにあるものをなんでもかんでもキッパリした照明の下に引きずり出したら
がさがさして白けるばかりである。
情緒ってモンが無い。
なんとかならんのか。

憲法は明るく元気に朗らかに、動かしがたく
どうしようもなく堅実で健全で明白でなくてはいけない。
それでこそ、脱落する事に、それなりの魅力が出るんで。

罪を罪と認める知能も無いまま、罪を実行してしまうのは稚拙だ。
いかにも子供だ。
まともにあるべき多数派大衆の人々が、
みんなしてそろいもそろって中途半端に墜落してみせている。
空想してぞっとしてみるような事を
実際にやってしまうなんてのは
感覚が中途半端だからだ。
空想の完成度が低い。
(だから)コドモが大人のものを見ちゃいけません(って言われちゃうんだよ)。
そういう(年齢ではなくアタマが)子供の
愚かしい露悪趣味のせいで、
本来、暗闇でひらめく天鵝絨をまとった者共が
御天道さんに背かない、
素直な真っすぐの角の四角い正論を、
しょうがなく、しかたなく、述べ立てなければいけない
この、やるせなさを如何にすべきなりや。うんざりや。

なんでもかんでも引っ掻き回したら
のっぺり灰色の藁半紙である。
再生紙のトイレットペーパーである。
プラスチックの機械的な匂いである。
通信簿と朝礼とラジオ体操である。
裏も表も無くひたすら灰色のどこまでも灰色一色の秒針で刻まれる単調な時間である。
光のものは、光の中にあって鮮やかな彩りをもち
暗がりのものは暗がりにあって、輪郭の霞む妖しい彩りを浮かべるのである。

美輪明宏さんは、
現在、薄闇を縫う月光に映える為に
造られているのであって
そのための、あの化粧である。
げしゃげしゃした赤だの黄色だの閃光を当ててはいけない。
・・・ああ、そういう話じゃなかったね。(

この項を送信するかどうか、かなり迷っている。
その時代にあって、書かれたその時代のものが
文学のひとつとして、出版されるという形ではなく
こんなに時間が立って、空気も変わっている中で
誰かが気持ちを入れて書いたものが
あんな不細工な晒し方がされた事は
できれば、無かった事にしたいので。自分の記憶の中で。
別に、特に強い思い入れは無いけれど
なんかねぇ、
頭に血が上った状態で夜中に書いた日記を、
本人以外の人間が(※)、公共に晒すみたいなもので
知らないうちに黒板に貼られた個人的手紙みたいなもので、
なんとなく、いたたまれない。
だから、誰かが思い出すきっかけになりたくない。

まぁ、誰も読まないだろうからいいか。

※本人が、厚顔にも自分でパブリッシュしくさるのは
このblogが、文字通りそのものである以上、あり。


しかし、なんつうか
泥酔して書いたような文章だ。
どちらかというと15年前の自分が書いたモノのような気がする。
そうかも。
いや、そんなはずは。。
泥酔してたのかも。(←御免、言い逃れ。また、削除するかもこの項何度目だ)