sabato, luglio 24, 2004

こんぐらがるるる

つくづく思うのですが
情報や教育を完全に権力が制御できた昔であれば、
たとえば、お互いの国のほとんど全員の人が、
敵視した相手の国の人の全てが、その国の人であるがゆえに
鬼とか、そんなものと本気で思い込むこともあったのかもしれませんが、
今は、それは無理でしょう。
どうしたって、人種や国籍や考え方が違っても
人は人と、もうだいたいわかっているし、
自分の国が攻撃している国の国民の中には
自分と気の合う人も居るのだろうと
頭のどこかでは、誰もがもうわかっているし。
敵対する国の代表者同士が、同じテーブルについて会談して
その内容が決裂したとしても
お互いにその場で飛びかかるような事も無いのは
彼等の間でも、それは、了承されているものがあるはずで。
自分は、その公の場でどうこうするということが無いのに
何故、命令は出せるのかなぁ。
自分の本意からであればやらないだろう事を
何故命令に従うという形であれば
実行できてしまうのかなぁ。
何の為に。

イラクに生まれて、空爆で殺されてしまった人々にとって
その空爆が、必要なものだった事になり得る理由なんて
あるのかなぁと思うのですが。

現代における、もっとも不気味で不安を覚えるものは、
直接に自らに及ぶ現実的なリスクさえ無ければ
どのような事も平気でできてしまえる
基本的で人間的な良心の欠如の増殖と思います。

例えばある2つの国同士が難しい理由により敵対関係にあったとしても
それぞれの国民全員の、ひとりひとりが
どちらの国の者であるかわからない状態で
混在したまま数年間暮らせるようにしたら
絶対、敵対関係にある国籍の人同士の間での友情関係や信頼関係は、
いくつも生まれると思います。
2年もそれを持続させられたら
その後それぞれの国籍を明らかにしたとしても、
2つの国間での敵対感情は戦争をする程の物ではなくなっていると思う。
各々として、許しがたい理由の結果による怨みがあったとしても
だからといって、本来の憎む対象の人が属する共通項があてはまる
他の人間に対しても、それを同様に持ち得るかというと
自然な状態では、それはないような気がする。
国籍を例にとれば
例え、憎む相手と同じ国籍であっても
別人であれば、国籍以外に憎む相手とは違う部分があるだろうし
それは逆に自分に共通するものであるかもしれないし。
国籍だけが、人との間で共有できる個性じゃないから。
国境をなくしても宗教をなくしても今ある全ての境界を無くせたとしても
どこかにまた別の新たな集団間のひずみができるだろうけど。
下手すると、食べ物の好みとかのの間でさえ。
それが、別の戦争をする程の敵対関係に発展しないようにできるのは、
ひとつの事を理由に相手の全てを否定しない理性と寛容さから生じる
煽る者になり得る個性を持つ人間の良心と、
従う者になり得る個性を持つ人間の良心じゃないかと。
2004年、人間という種の圧倒的多数の個体にこの寛容さと理性は
実は、それぞれの頭の隅にもう備わっているのではないかとさえ思います。
だけど別の面で、もっと基本的な良心
良心の基みたいなものが荒廃してきている気がする。

現代の戦争は、これが目に見える形となって出てきた現象のひとつで
同時に、この事は以前とは少し違う形で起きている様々な
異常な事とも無関係ではない気がします。

憲法の九条や前文は、”基本的な良心”を目に見える形にしたものに思います。
今、もし私の思う状態に近いのだとしたら
時代遅れ、ではなく、実はこの時代の到来を予見して
考えられたかのようであり、その大切さは日々増している筈で、
その時々の都合を理由に変えてしまうなんてもっての他と
私は、思います。
今日は9条の会の講演があった日です。個人的には
そのことを記念すべき日としたいくらいです。自民党は
「憲法改正プロジェクトチーム」(中谷元座長)を発展的に解消し、
草案の「起草委員会」を新たに設置する方針を決めた(共同通信)。
そうですが。