lunedì, aprile 04, 2005

どぶ

BaghdadBurning 更新

米情報機関の問題点を検証した独立調査委員会は、
3月31日に公表した報告書で、
ブッシュ政権が開戦を正当化する有力な証拠の一つとした
「イラクは移動式の生物兵器製造装置を保有している」との情報について、
中央情報局(CIA)が重視していた情報源によるねつ造だったと断定した。

イギリスのBBCなどの報道も、アブグレイブ刑務所に、
子供も拘束されていたニュースや、拷問が行われているという兵士の告発を
いち早く取り扱げてきた。

政府や権力機関が隠蔽したそうな事実が、
数年で明るみに出てくるというのが、
なにはともあれそれでも、でてくるという所が違うと思う。
日本は、出てこないねぇ。
なんだろ、また半世紀くらい経たないと
アメリカ政府の戦争を支持した間違いも認めないんだろうか。
それとも、半世紀も何世紀もたってもずーっと認めないんだろうか。
亡くなった法王は、ガリレオさんを罪とし罰を与えた
カトリックの間違えを認めた事も、偉業のひとつとなったけれど
本当は、カトリックとしては、それ、遅すぎるでしょう。
地球は、どうしても、丸い。
丸いものは丸い。
例え、その時代それが明らかに確かに思えなくても
主張する人が居るならば、その可能性は視野に入れるべきで
主張する人を断罪するというのは、自分達の考えが
どうしても正しくて絶対だと思ってしまう傲慢さだったと思う。
それは間違えで、間違いを理由に断罪したのは罪な事だ。
認められないのは、愚かだ。

アメリカでもイギリスでも、政府に迎合しない報道をすれば
”目をつけられる”事はあるんじゃないか?
それでも、圧力を受けても、本当のことを言う人が居るし
その事を、大きく取り上げて伝える報道がある。
そこが違う。
日本でも、本当に政府と迎合しないような報道をしたら
暗殺されるかもしれなかったりするのだろうか?
なんとなく、何も確かな事は無いのに
ただ摩擦を起こす事が面倒で、あまり問題になりそうな事は
勝手におもねって、避けている様な気がするのは
気のせいなんだろうか?
放送コードを自分達で作って、自分達で勝手に自分達を統制して
従順にも程がある。

イラク戦争の理由だとされていた事は、全部からっぽだったわけなのに
自分達で真剣に検証している様子も無く
アメリカ政府から渡される情報をそのまんま受け取って
日本なのに、被爆国なのに、
戦争の加害者になるひどさ被害者になるひどさを経験した国なのに
つるっとイラクの人々を戦火に焼く事を支持してしまった政府に対して
責任を追及するような声があまりにも少なすぎるんじゃないだろうか。
特に報道に携わる、その中でも実行力のありそうな”大人”の人たちに。

争いごとを好まず、相手のあるがままを認められるという長所が
日本人の国民性にはあると思う。
やっぱり、だからこそ、平和憲法を世界に先駆けて担って来れたのだと思う。
でも、その”争いごとを好まない”部分が
逆に争いごとを悪化させ被害を増大させてしまうように
働き続けたとしたら、
それは、寛容で穏やかな長所、じゃなくて、”日和見で卑怯”になってしまう。
戦争に反対するには、本当の勇気が要る。
人と戦って殺すのは勇気じゃなくて、野蛮、なんじゃないだろうか。
日本人にもいろんな人がいるけれど、印象として持っている特徴のこの穏やかさは
事なかれ主義の日和見じゃなくて
季節の移り変わりの中で、糧とするものを育てて収穫して生きてきた、
時間をかけ考え深くある事のできる知性と、
暴力による争いは、連鎖するばかりで
問題を解決しないという毅然とした理念に裏付けられたものであると
示す事が必要だと思う。示すときだと思う。
・・・実は、そうじゃないんだとしてもさ、
示す事ができれば、そうだということになれば、
現実はあとからついてくるかもしれないじゃない。

報道に関わるなんてのは、生活する為の経済力の為だけにする仕事じゃ
ないはず。何か思って、使命感を持って、その仕事を選ぶはず。
ごたごたする事が怖くて、適当で当たり障りの無いようなニュースばかり
選んでいるというのは、
結局能動的に、何かに加担しているという事だと思うのだけど
結局、それも偏っているうちだと思うんだけど
自分の信念に背く事になっている人も多いだろうと思うのだけれど
それは、良いんだろうか?

つくづく思うのですが、NHKの番組への政治的介入を告発した
プロデューサーの方は、勇気があったと思う。
この国に、こういう面があるのをよく承知しているのに。