mercoledì, marzo 30, 2005

らぢお

以前、作家の人が
出版社が、出版している雑誌に、
未成年容疑者の写真を掲載し、
その事を正当化したことに抗議して、版権を引き上げた事があった。

間違っているとは、思わない。
怒りも理解できない事は無い。
だけど、何か”違う”と思った。
表現者としては、何か違う、と思った。

事務や経理や、機械の操作や運転、営業や調理など
そういう仕事をしている労働者が、経営者や出資者に対する抗議として
ストライキをするのは、認められた権利で、正しい。
作家も、頭脳労働者の一部と考えるなら
仕事を提供しない、というのはひとつの抗議の方法かもしれない。
でも、
表現者としては、どうなんだろう。
作家なら、版権を引き上げるという抗議の方法ではなくて
ペンで、抗議するべきだったんじゃなかろうか?
ありとあらゆる媒体で
自分の、その出版社に対する抗議を主張するというのが
作家のやり方だったような気がするのだけどどうなんだろう。

タモリさんとか倉本聡さんとか市川森一さん等が、
「ニッポン放送がLivedoor傘下になるなら
降板を検討する」と表明したようですが
それは、間違っていないのかもしれないけれど
何か、違う気がしてならないのです。
その前に、まず、意見を言葉で主張するのが表現者なんじゃなかろうか?
ジャンルはいろいろでも、表現する事のプロである事は
同じだし、どんなジャンルであれ、自分の意見を
自分の方法で表現できるはずだと思う。
放送局の自分の番組を放棄するほどに、そこまで憤りを感じるなら
ありとあらゆる出演できる番組で
その事ばっかり言ったらいいと思う。
言いたい事を言って、それで辞めさせられたら、仕事を奪われたら
それなりの生活基盤があるのであれば
”てやんでぇ、こっちから願い下げでぇってんでけつまくって”も、
それは喝采に値する。
そういう状況になって、
自分の親身な表現者に対して、そういう扱いをする経営者に、
働きかけをしないリスナーや視聴者や読者は、ごみだから捨てていいと思う。
でも、
抗議の力のかけ方として、そういう資本に対して資本
って、表現者としてそれでいいのか?
このニッポン放送に関して言うなら
裏方の人たちとの繋がりを想うなら
裏方の人たちが、大きく伝えられない声や気持ちを
言う事を仕事にしている人場所を持っている人が
代わりに声を持って公にするのが、表現者の連帯の表し方のような気がする。
何が起きているのか、みんなに伝えたら良いと思う。
日本語を公用語にする唯一の国、日本の中で
その日本語を使う事の、頂点に居る人達が
何よりも、表現の力こそが強いと信じられなくてどうするのか?
言葉の玄人な人達が、
自分達の言葉の力、自分達が言葉によって築いてきた力よりも
実際的な行動による抗議の方が効果的なのだと
示してしまったら
言葉が、日本語が、かわいそうじゃないか。
表現する事で、生きている人たちは
特にその秀でた能力によって得た大きな表現のできる場所を
粗末にそう簡単に放棄しちゃいけないと思う。

イラクの戦地で
今、次の瞬間、爆撃されたら全て燃えてしまうかもしれない絵を
命の危険に晒された生活の中で、描き続ける人が居るそうです。
もし、お金持ちや評論家による
または、一般社会による、絵の芸術性の評価や経済的価値は低かったとしても
その絵を描く人にとって
その絵は、とても大事なものだと思う。
価値は最上であると思う。
そして、その絵が描かれた状況というものが訴えてくるものも
確かにあるのだと思う。
絵としてどうであれ、感動させるもので、
また、絵としてどうであるかは
実際の所誰かが決める事じゃない。
本人が決める事でさえない。
世界中の一人一人が、違う感じ方をするし
違う評価をするし
世界中の一人一人によって、それぞれの価値を持つものだと思う。

表現する仕事は、特殊なんです。
その力を発揮させる事は、その人にしかできないんです。
受け取る方も、受け取るひとりひとりが
その人にしかできない受け取り方をしているんです。
だから表現を伝える場所は、表現者にとって
できることならひとつでも多い方がいいと思うし
ひとりでも多くの人に届いた方がいいと思う。
場所を広げる為に表現すること自体の中心、大事な精神を曲げたり、
妥協したらそれは原点からの間違いで、本末転倒で
もう表現者ではなくてただのサラウンドスピーカーだし
そういう場所の保持の仕方は意味が無いけれども
自分を曲げる事を決定的に強制されるまでは、
自分から抗議の為に自分の場所を放棄したらいけないような気がする。
そのような事を番組で主張するなら辞めていただく
と引導を渡されるまでは、その件を理由に辞めちゃだめなんじゃなかろか。

ニッポン放送っていえば、
大昔、ぽっぷん王国からオールナイトニッポンの二部まで
週5日、毎晩聴いていた頃があったなー。
しかも、週末もなんだかんだ
なんのこれしきとか放送終了まで聞いてた。
毎晩かかりっぱなしだった。
音悪いんだけど
聞いてるうちに電波が来やすくなるんだよね。気のせいか。
生活が変わったときまで数年間聞き続けましたぁ。
ぽっぷん王国が最終回のときなんか、泣きましたから。
だから、ただの一聴取者だった者としてですね
勝手な思い入れがあるかないかでいえば、ある。
番組のパーソナリティーを、聴取者のランキングで決めるなんて
そんなつまらない事をよく思いつくと思う。
伊集院さんという人の放送初めて聞いたとき、なんだこの人って思ったもん。
”光ケンヂの”ってなんだよこれって思ったもん。
なんだよこれって思いながら
そのまま二部を毎週聞き続ける事になって
気がついたらどっぷりになっちゃっているわけですよ。
面白くて。
気がつくまでの時間は必要なわけです。
オペラ歌手って信じ込みましたから。
大検受験は、あれは本当だったんか?
こういう嘘なら、いくらでも騙されたい。
そういえば川村かおりさんて、今も音楽活動続けているんだよねぇ。
知ったときうれしかった。
まぁそれはさておき。

でも、そんなランキングなんて乱暴でめちゃめちゃな方法を
現場の作り手が許さなければいいだけでしょう。
経営者より、社員の方、実際働く方が強くなくちゃダメだと思う。
そこんとこの話だ。

で、正直な所
Livedoorに対して牙むいている牙むける力があるような人達は
本当のところ、この事よりも
表現者としての、命である
表現の自由が法律によって規制されそうになっている事などについて
表現されたものを享受する方、知る権利を持つ側と一体になって
反発する為に、そこに注意を向けるために
発言する勇気を持って欲しいなと思う。
自分の表現する事を法律で規制されてしまうようになったら
ひとつの放送局で、自分の思う番組が作れなくなる、
チームワークが築けなくなる、だけじゃすまない。
法律で規制されたら、日本国内全部で思ったことを喋れなくなる。
思ったような番組が作れなくなる。

その方が大事で大変な事なんじゃないのか?