martedì, maggio 17, 2005

寒い

この国の国民の大多数が
自分のみを守りたい一身で、
自らの人間性まで殺して黙っているから
たまたま、それどころの立場じゃなくなった人が
人間的な言葉を発した事が目立ってしまい
集中砲火の標的になったんじゃないか。

家族が政治的発言をすることで
人質の立場が更に危険になる、などという状態が
一般に受け入れられていることが怖いのに。

人質事件のときに限らず
現在はそれが、悪化していると思う。
発言をする人が少ないから、
発言しようとする人も、余計発言しにくくなる。

それぞれの視点からの考え方を
個人同士の、相手に対しての感情を交えながら、という会話や議論の状態からのもの
ではなく人から、放たれた意見、考えの純粋な塊として、知りたい。
と、書いたことがある。

これは、ネットの掲示板などを見ていて、つくづく思った事で。
けれども、顔を合わせないネットにおいての、
文章のみの対話、議論だからというだけではないかもしれない。

勿論、実際に、顔を合わせる事による意志の通達ができれば、
言葉の行き違いは少なくなるだろうし、
また、お互いへの理解もより深くなるという事は、
間違いないとは、思う。
昨年の長崎の小学生による犯行の際、
掲示板などのWEB上のやりとりによる
特に幼年者の意志のすれ違いが、
このような惨事を招いた一因ともいえる、という説は
確かに、全てではなくとも一理はあると思う。正直。
でも、直接会話においても、
言葉のやり取りの中で感情的になってしまう事が
無くなりはしないだしょ?
結局、会話の中で自分の政治的見解なんか、気楽には言えないだしょ?

日本特有な事?それも、よくわからないけれど、
例えば、憲法九条は変えるか否か、
という論点に始まる意見のやり取りがなされているのを
ずっとたどりつつ読んでいると疑問を感じてしまう。
相手個人に対する”○○なくせに”であるとか、
”自分は○○であるのに、えらそうに”とか
”以前はこう書いていたのに、””あなたに、そのような事を述べる資格は無い”
といったものがとても多い気がする。
これが、理解できかねる。
これは、議論、なのかどうか。
権力的な立場、公の実行力を持った立場からではなく、
ひとつの意見を主張する一個人がいて、その人の”○×▲□◎”が、
国の方針について、どう関係があるのだろう。
権力的な立場の人のほうが逆に
「個人的には」と注釈すれば、何を言っても許されていそうだ。
だいたい、「意見を言う」資格ってなんじゃらほいな。
というか、巧くかけているのかどうかわかりませんけれど。(書けてないよ)

要するに、対話、議論という形になったとき
その意見自体でなく、何故か、
主張している人の品行方正さが、問題になっちゃう。
多分、意見のやり取りの目的が
良い結論を探し出す、見つけ出す、お互いの意見を理解しあう、というよりは、
いかに相手をやっつけるか、に変わってしまうせいだと思う。
これが、ネット上特有なものなのかどうかは、これまた、わからない。
現実においての人間関係でも
まずどんなものであれ、
意見がぶつかることを、とても恐れている空気を感じる。
例えば今観た映画が好きか嫌いかでさえ、
相手の顔色を見ながらでないと表明しにくい。
意見がぶつかると、そこに意見のぶつかりあいではなくて
相手に対する、悪感情の増幅だけが起きてしまう、
陰湿な仕返しを受ける事にも繋がる
という経験を、積んで来ている人が多かったのかもしれない。
ぶつかったら、ありとあらゆる方法を使って、とにかく相手をつぶす。
相手が孤立するよう画策するといった、
意見がどうこうとは全く違う話に発展したりする。
わけがわからん。
孤立させられるだけならまだしも、
場合によっては、失うものが多すぎる。
就職に不利になるらしい、とかね。なんでかね。
どこぞにおもねるのではない
自分の意見を発する人が少なければ少ないほど
叩きやすくなり、そういう仕打ちをされやすくなるわけだけれども。

結果、そういった事態に陥ることが怖くて
いっそ自分の意見を持つこと自体をやめてしまっている人たちも、
多いかもしれない。

これは、”教育のせい”かもしれないそうな。
個の意見を持つものを排除する事で制御しやすい人間を育てて、
支配しやすい社会を作るため、そのような教育方針というものを
この国はめだたないように少しづつ進めている、のかもしれないと。
そうかもしれない。

私としては、そのような現状の中での
直での”闊達な意見のぶつけあい”、には、多少懸念を感じる。
確かに、顔を合わせない中での誤解もあるけれど、
それだけでない、難しさを感じる。
こんな意気地なしにもかかわらず、
数年前、何度かこの”議論”にまともにはまりこみ、
これは、まず、体力が持たない。と思った。
個人攻撃の応酬は、意味が無い、と感じる事もあった。
更にそれが余所であれば、何より、その場の管理者に迷惑がかかる。
大事なのは、方向性としてどうしたら良いか、であって、
意見を主張する人の態度、であるとか、
返事をすぐに返さないのは失礼であり、失礼さをなんとかすべきだ、とか
そういう事ではないように思うのだけど。
ましてや、議論として個人が個人としての意見を発している所に
年齢や学歴や職業は何であるかとか、
”そんな人に”に何がわかるか、といったことになると
あー、という、気になる。
誰であろうと、考える必要はあるし、どんな人間から発せられたものであれ
良いものは良いし、悪い事は悪いであろうよ。
また、その判断もひとそれぞれだけどね。
大事なのは、その意見がどうかだと
私は思うのだけど、どうもそうはいかない。

議論を苦手とするのは
日本の国民性かもしれないと思うときもある。
議論とけんかの境がどうも、とてもあやふやに感じるときがある。
農耕によって、つまり地面に固定した状態を基本にする生活をしてきた先祖からの
山に囲まれた村のような所で、
周囲といさかいを起こすと、生きていけない時代もあっただろう中で
育て上げられた特性かもしれない。
環境の中で培われた様々な特性は
他面から見れば、悪いばかりでもないわけだし、
そうであるなら、また、その性質があっても可能な意見の交換のしかたを
工夫する必要があるだろうと思う。
放り投げて、意見を純粋にその意見だけでみるという方法は
私なりに考えた、方法だったのかもしれない。

それにしたって

物言えば唇寒し 春なのに。 

駄句。



読み直してみた。
我ながら混乱している。
しかも、これは、以前に書いたものの焼き直しなのに。
ちなみに、以前書いたときも混乱していた かも。