lunedì, giugno 20, 2005

訂正文

私は、教科書に歴史的事実を掲載するべきだと思っているし
子供の頃から、戦争の悲惨さを教える必要はあると思っている。
メディアは、戦争で何が起きているかという情報を、
得られる限り最大限伝える必要があるし、
過去の戦争を経験した方々の証言は
少しでも広く、たくさんの人に伝えられる必要があると思う。
戦争で起きる事は何か、理解してこそ、
戦争を避ける努力というものも、なされるだろうと思うから。

子供の頃、夏になって
原爆写真展のポスターが、あらゆる場所に掲示されると
そのポスターを見るのが怖くて、
あちこちを目をつぶって走り抜けなければならなかった。
それでも、知らなくてはいけないと思ったので
戦争の話の書かれた本を読んだり、映画を観たりしたわけだけど、
その為に、とてもうなされたし、1人で外出できない時期もあったし
いまだにうなされて、自分の悲鳴で目が覚めることがある。

自分で書いたとおり、実際の戦渦に巻き込まれた人々の経験した辛苦は
そんなものではなく、また、現在戦争被害を受けている人々の苦しみも
そんなものではないと思う。
ただ、今、戦争にならない為と思って、私ができている事を、
私自身が自らの意志で選んだ見た結果だから良いけれど、それにしたって、
ここまでの状態になっていなかったとしても、
私はやっていたのではないかとも思う。
そんなものでないからこそ、そんなものにさえ耐えられない人間として
そんなものではなくひどい状態が、誰に強要される事も、許すわけにはいかないから
私は、戦争にも、そこに向けての流れにも反対する。

死体となった被害者の映像を見て、衝撃を受けないと、
戦争の悲惨さを理解できない子供も、居る。
そうではない子供もいる。
子供であっても、人間であり、それぞれに違う。
青山学院高等学校試験問題の文章中に、
I wasn't ready for such a scene
and I couldn't keep watching it,
so I turned the channel to another program.
という部分がある。
心の準備もできていなかったので、あまりにもショッキングな映像に、観続ける事ができず
チャンネルを変えた、
という意味だと思うけれど
この人の場合、防空壕として使われた洞窟を見学する際に
すべる石などに笑ったりする事ができ、
また、ひめゆりの塔の祈念資料館で、展示物や証言者の方の話を聞いていながらも
その話し方の方に注意が向いてしまうほどであるから、
戦争報道の映像を見て、観続ける事ができない、という事は、無いような気がする。
が、確かに、実は、私自身も、チャンネルを変える事は無くても
大騒ぎにはなる。詳しくは書かないが。大変よ。
それでも、ここまで伝えないと、戦争の事実、戦争で何が起きるかという事を
理解できない人も居るから、このような番組は放送されなくてはいけないと思う。
テレビ番組は、どうしても耐えられない人がチャンネルを変える事ができる。
知らなかった人、斜に構えて観始めた人が、事実をありのまま伝える映像によって
考え方の変わる場合もある以上、その意味はとても大きい。

ただ、考えてしまうのは、
極端な話、それを観る事によって、白目をむいて泡を吹く子供が居た場合に
そうであっても、嫌がるその子供に、その映像を観る事を強要しなければいけないだろうか?
それによって、その子供は、本当に確実に戦争にならないよう努力する人間になれるのだろうか。
強要する人、強要する立場の側に対する、反発や抵抗を覚えてしまう可能性が
あるかもしれないという事を、私は、頭では否定したいが感覚として否定できない。
目指すもの、傾倒するものを仰ぎ見すぎて、
目の前の子供の状態が見えなくなっていては、いけないと思う。
嘲笑や、ふざけによる拒否と、そうでない拒絶の区別がつけられる位には
生徒個人の個性を認識していて欲しいと思う。
だからといって、勿論、その恨みだけで物事を判断しているというのも、理の通る事ではない。
憎むべきなのは、そこまでの恐怖と衝撃を与える事実をもたらす戦争だと思う。
それと、あえて書くけれど、子供がそこまで嫌がっているのを見ながら
「正しい事だから」という自分の価値観を、
相手の状態、気持ちよりも優先して強要する、先生なり、
その他の大人のやり方なのではないか。
判断の難しい所だとは思う。
許容できる限界の所までは、教える必要があるだろう。
だけど、自分がしている事によって、相手にもたらされている苦しみを
無視、もしくは、見ないフリをしてしまったら
たとえ、正しい事のためであっても、
つまり、しつけの為という理由で殴るのに似てはしまわないか?

戦争というものについて教えるとき
子供が、本能的な拒絶反応、その子供の限界を超えている事を示していたら
その子供に対して、そこまで残酷なものを観る事を強要するよりも、
その子の許容範囲に応じた程度のものから始めても、いいような気がする。
お魚でも、いきなり超強火で煮たら、外は真っ黒に焦げて中は火が通らない
という事にもなる。
まず、何故戦争について知らなくてはいけないのか理解してもらう必要があると思う。
過去起きた、いろんな戦争の戦争に向かう過程、
どのように物事が進んだのか、文化、経済、政治の流れ、その為に歴史年表もあるわけだし。
過程があって、その結果として、戦争の惨劇がある。
知らなかった人々が、それゆえに易々と統制されていったという歴史を知って
何故、戦争について知らなくてはいけないかが理解できれば
自分の能力に応じて我慢できるところを自分で確認しながら
少しづつ、本人の意志で学んでいく事ができるかもしれない。
戦争と聞いただけで、耳を塞ぎ悲鳴を上げるようになってしまったら
それ以上、戦争について情報を得る事ができにくくなる。
嫌だと訴えている事を、無理やりやらせれば
話してもわからない相手が居る、という事を実感として刻み付ける事になってしまうだろう。
相手にダメージを与える事なのだと知っている内容については
見る、と決めた時に、知る事を決断した人間に、教える、という形であって欲しいと思う。
本人が選択して見ることではじめて、意味を持つものだと思う。
インターネットのサイトでも、テレビでも
「心臓の悪い方は」などの警告文はあるでしょ。

無理強いをすれば、戦争について知らないまま成長してしまううえに、
残酷なものに動じてはいけない、弱虫になってはいけない、
恐怖感は常に克服するべきなのだ、強くならなくてはいけない、
という考え方が根付いてしまったり
必要で正しい事のためであれば、
どんな犠牲を払っても、人を傷つけても苦しめてもいいのだ
と思ってしまう事もあるかもしれない。

「戦争が怖いのはわかるが、それが何故軍隊を持ってはいけないことに繋がるのかわからない
どこぞが攻撃してきたらどうするのか、」といった疑問をもった子供が居たとき
その疑問は発声されなければいけないだろうし、
「屁理屈いうんじゃない。」とか、「生意気言うんじゃない」と切り捨てずに
なぜ、攻撃されると考えるのか、どこが攻撃すると思うのか
その国の攻撃する動機は何か、攻撃される前にそれを回避する為の交渉はできないのか
相手が子供だとなめてかかったり、子供にはどうせわからないと思わずに
難しい話になっても難しい話をするべきなんだろうと思う。
それが無理なら、少なくとも閉鎖された教室や家庭という空間の中で
相手に屈辱感を与えるような”やっつけ方”をして、つぶしてしまう事くらいは避けて欲しい。
今の意見がどうあれ、戦争や平和という事について考え始めたという事を評価して、
意見を持とうとしている人間の、その芽を育てるのが育てる人の役目だと思う。

現在の学校の仕組みの中で
そこまで個々の特性に沿った教育はできない
のかもしれない。
ここまで、裕福になった国で
個人の個性を尊重して育てることさえできないなんて、
情けない事だけれど。
一人一人の教師が、一人一人の生徒の個性に合わせられないなら
生徒の方が自分にあった教師を選択できるようになったらいいのに。

・・・今の問題について、遠い夢を語ってもしかたないので
とりあえず、先生が嫌がる子供に無理やり何か強要するのは
逆効果に働く可能性もあるという事に気が付いて欲しいとだけ思う。
どんな信念があるのでも、手段というものも選ぶ必要はある。
尊重するべきものもあると思う。
どうしても怖くて今はまだ耐え難いという部分がある個人については、
耳を塞ぐ自由くらいは許してあげられないものか。
そのかわり、同じ事象について扱った
もう少し表現方法の受け入れやすいものを読む事を勧めるとか。

けれども、どのような成長過程や理由があるにしろ、
自分が準備をしなければ観続ける事に耐えられず
チャンネルを変える程の恐怖を覚える戦争によってもたらされる被害
というものがあるのを知りながら
にも関わらず、反日感情、を例にとり、その原因として
そのような被害を受けさせられたアジアの人々、大人たちが、子供に対して
”正確な歴史的事実を、適切な方法で教えているのだろうか?”
という疑問を持ってそれを試験問題文にまでするというのは、やっぱりとても矛盾している。
普通に考えて、情報として目にするのも耐え難いひどい事を
実際にされた、という歴史的事実がある以上
ひどい事をした側に対して、手放しの好意を感じる筈は無いと思うけど。
それでも、その被害国の人々の中に、歴史として割り切ってくれようとする人々もいて、
現在において、交流が進んでいる、という寛容さについても、認めるべきだと思うし。
やっぱり、見ないできた何かが欠けている。

相手が攻撃してきた時に反撃する為に、軍隊を持ち戦力を充実させておくべきだ
と考えるのも矛盾している。
攻撃をされて反撃をして戦争となったら
自分がたった数分の映像を観るにも耐えられない事が、
避けようも無く毎日延々と続く現実となるのである。

他人から問答無用で無理やり価値観を押し付けられた事に
嫌悪感を持ち、反発した人間が
相手に対して問答無用で価値観を押し付ける最たるもの
本人の意志に関わらず人を殺す事さえ命令し、それに逆らわせない軍隊機構に対して
憧れを持つのも、よくわからない。

私が学校で出遭った先生の、ほとんどを好きではなかった。
片手に満たないくらいにだけ、例外の人が数人居るけれど
基本的に、嫌な思い出が多い。
こう書いたときに安易に想像されるような感じの”先生”だけでなく
やたら”民主主義教育”的な熱意に燃えた正義感の強い先生も、ここに含まれている。
(あれは、本当の意味での民主主義教育ではなかったと、今の私は思う。)
おかげさまで、私は今、自分が尊敬するような人に対しては
なるべく先生という敬称は使わない。
なんとなく「先生と呼ばれるほどの・・・」という慣用句も浮かんでしまって、
そういう人達と一緒にしたくない気持ちになってしまうので。
先生と呼ばれる事で、培われてしまった部分もあるかもと思って。
(しかし、この世には先生と呼ばれる事が好きな人は多いですね。)
だけど、嫌いなのはその先生個人なわけであって、
だからといって、その人間がくみしていた大きな単位、考え方とか方向性とか
そういうものまで全部否定しようとは思わなかった。
なにしろ、嫌いな人は多いのだから
それでいちいちその周辺まで嫌いになっていたら、何もかも嫌いになってしまう。

妙に具体例を出して申し訳ないが
どこかのサイトに対する感想として、
「押し付けているつもりはありません、と書きながら、
一番、押し付けているんだよ」
というような文章を見た。(ありがたい事に、私とも、こういった内容とも
まったく関係のない所でだけれど。
でも、私がこのようにいわれても仕方ない気は、ときたまする。)
押し付けられるのが不愉快なら、
「押し付けるつもりはありません」と書いてあるわけだし
読まなきゃいいし従わなければいいのに、
無意識に、書いている人の本意の望む所をくんで、それに沿おうとしてしまうから
自分の気持ちと違う事になり、不快感を覚え、怒りを感じるのではないかと思う。
自動的に、相手の気持ちに沿おうとしてしまっている時点で
既にこの人は、”素直で優しい”。過剰なほど。
命令や要望があったとき、まず、それに従おうとする、
なんだか、けなげだ。
自分が内容に納得できなければ、自分本人の方も尊重して良い筈なのに。

大人に価値観を押し付けられたから反発したのは、もっともだ。
ただ、反発の方向がなにか間違っている気がする。
自分の価値観を、相手を説得する、納得してもらうという手順を踏まず
力関係を利用して、無理やり強要する事に対して、反発するのが、順当だと思う。
戦争を拒否する人々のイメージや性格の傾向が、好きになれなくても
別にひとつの考え方を持っていたら、それに似た考えを持つ人の群れに属するべき、
完全に同一化するべき、というものじゃないだろうと思う。
自分の意志の方向とたまたま同じだという部分にだけ、自分の重みを加えれば良いと思う。
他人にいわれて従うのが嫌い
納得できない事を強いられるのが嫌だと思うのならば
一握りの世襲制的な権力者の人間ではない以上
本来、持っているはずの意見はどちらかといえば、どちらか方向だと思うのだけど、
・・・・思うんだけどねぇ。
誰か気に入らない個人への反発で方向を変えてしまうなら、結局は自分が認めない相手に
自分の考えをねじ曲げられた事に変わりないような気がする。
影響受けさせられたという事になる。不自由ではないか。

で、これのどこが訂正文なのかというと、
試験文章を書いた人や、この文章のどこが問題なのかわからなかった人が
このような考え方だからといって、想像力が欠落しているわけではなくて
想像力の働く方向が、違うのだと思う。
そこに至る経緯というものがそれなりにあったのだろうと
考えを広げる事のできなかった自分の方が
想像力が足りなかったし、自分が理解しやすい人の気持ちを思いやる事はしても
自分と逆の考え方を持つ立場の人間の気持ちになってみようとは、
しないできたのだろうと思ったんですよ。まぁそういう事ですよ。

それにしても、沖縄の証言者の方々というのは、
さすがに、格が違う。
私だったら、あやまってすむもんじゃないっ
と啖呵きりかねない(だめだめじゃん)

なにもかも受け入れてきたのだろうと思う。
自分の受けた苦しみを、他の人が受けないでほしいと
ただただ祈っておられるのだと思う。
だから、思い出したくない事を語り続けているのだろう。
表面だけ強く焼き付けるのではなく、中まで染み入るように
語っておられるのだと思う。
like a bedside story told by a mother to a baby.
この凄味が、いつかこの文章を綴った「先生」にも理解される事を祈る。
理解されていないなら。

問答無用で”侵しがたく崇高”なのではなく
この理由があって、やっぱり崇高だと思う。

ちなみに、ひめゆり平和祈念資料館は、
私は修学旅行ではないけれど個人の旅行で訪れた事があります。
あの場所で、退屈という印象を持つ感覚の人も居るというのは
本当に、人間というのは千差万別でその差はあまりにも大きいと
思いますですよ。絶望はしないまでも。