sabato, giugno 11, 2005

羊も効かない

「参拝は他人に言われてするものではない。」
((この場合)うっそだろ・・・)

言われたからどうこうというものではないなら
自分で、お止めになったらよろしいと思う。
この際その体裁はどうでもよろしいと思う。
戦争で死ぬ事が素晴らしい勇ましい潔い良い事だ
と思っていないなら
戦争に参加して亡くなった、が、ゆえに
その事を尊いとして、それを理由に本尊にして崇め奉る所に
参拝するのはおかしいような気がするし
戦争をしない為に、あらゆる努力を重ねる事を仕事にしている方が
戦争を鼓舞し肯定(しかたない、避けられないも含めて)する方針を持った神社にお参りしていれば
状況によっては再度、しかたない、でおっぱじめるのではないか、と
思われても、しかたないのではなかろうか?
その際に、おっぱじめる相手にされそうな
近くに居て、外交問題を抱え、最近では政府間の関係が
冷えてきていると言われて久しい近隣諸国が
怖いから、やめてくれ、と言うのだとしても
それは、”他国に口を出す”というよりは
自国の事を思えばこそ感じる不安から出る依頼
と思えるのですが。
だからこそ、この神社が奉る所の考え方によって起きた出来事が
それぞれの国の人たちにもたらした状況を
思い出してくださいと、繰り返すのではないだろうか?
反省の要求という形で、本尊としてお参りしているその概念が
どのような結果に繋がるものだったか、もう一度再認識して欲しいと
願っているのではないかなと思うのですが。

言われて止めるのが嫌なら
国民の代表としての首相という立場を鑑みた
自発的な考え、によってやめる決断をすればいいのに。
どっちにしたって、人間はあらゆる考えに影響を受けて
その中でTPOとやら、適宜適当なよりよいものを選ぶわけなのだから
選んだ決断が周辺各国の願いでもあり
国内の、それなりの数の人間の願いと同じであったとしても、
良いのではなかろか。
意見があったね、気があったね、というのは、そう悪い事じゃなかろ。

「顔色を伺って言いなりになる」のと、
「検討を重ねて、的確に状況を判断し、沽券や面子に縛られずより良い選択をする」
というのは、違う。
「信念を貫く」というのと、「石頭」も違う。

しかたなければ、戦争もあり、という考えを拝んでいると
空っぽの”大儀”を振り回されて「しかたないので、戦争します」と言われた時に、
人を苦しめる為の資金だって払えてしまうのではなかろうか。赤字国債抱えてても。
血税ですまないなら、血も汗もブーツも旗も蛙も。あ、蛙は違うか。
こういうのが、言いなりって言うんだと思うんだけどなぁ。
なんでここでこの言葉が適応されない。

類稀なる偶然で総理就任直前に、たまったま宗教が変わったから
個人として本気でどおおおおしてもお参りしたいというなら
せめて引退してからにすればいいのに。

何も私みたいなのが書かなくてもいいことかもしれないが
私みたいなのも、末尾のけばで書いてもいいかもしれないと思って。