martedì, giugno 21, 2005

大いなる欠点

Baghdad Burning更新

一年が廻ったんだなぁと思う。
砂嵐が吹いて、水も電気も不自由する中で
気温が上がる。
一年が過ぎて、状況は変わらないどころか悪化している。

我慢というのは、終わりが見えていれば、まだ希望をもてるけれど
先が見えないまま、一年間という時間を過ごした事を確認する気持ちを考えると
頭が重い。
本来の生活ではない形、暫定的な形での物事の処理を続ける生活があって、
同時に、爆弾や逮捕や死骸の途切れない不安のストレスが蓄積していく。
つい数年前まで、全く違う毎日、蛇口をひねれば水が出て
電化製品を利用し、店舗で必要な商品を選んで購入して消費する生活をしてきた人たちは
ある時期を境に、現実がこうなってしまったことに
信じられない気持ちさえ感じるのではないかと思う。
こんなはずではなく、こんなつもりではなく
描いていた、過去においての未来である今というのがあった筈だと思う。

イラクで起きている事は、世界中に伝えられていて
こうやって日記も綴られ続けていて
それで、この生活がこの人たちに強いられ続けているのは何故なんだろう。
過去起きた事に対してと同じように、
今起きている事を、でっちあげだとか大袈裟だとか
主張する人達がいるのだとして、今現在進行形な以上、
見ればわかる嘘や言い訳や矮小化を信じる人というのはなんなんだろう。

強い人の残酷さというのは
自分であれば、大変であっても耐えられる、
もしくは耐えられるだろうと思ってしまうから
弱い人間にとって、同じ事であっても、その辛さは同じではない
という事が、想像できない、という所にあると思う。
がんばれば、がんばれるものと思ってしまう。
どんな戦場となった地域であっても
戦場になる為にある場所ではないのだから
特に、数年前まで、戦闘地域ではなく生活が営まれていた場所なのだから
頑張れない人も、居るのではないかと思う。
がんばれる人にとってもいらいらがたまりぎりぎりである現在
頑張れない人は、どうしているかと思って
去年もそう思ったけれど
気が滅入る。
今、戦場になった場所に生まれ育って生活しているからといって
戦争に耐える為にできている人間ではない。
勝ち負けにこだわって、戦うことが好きな人々が、戦いたいのなら
せめて、戦いたくない人間を巻き込まないで欲しい。
勝手に新聞紙丸めて殴りあいでもしていればいいのに。
勝ち負けなんて、どうでもいい人間もいるんだけど。
そういう押し付けを、しかたがないですます神経というのが
とても愚かしいと思う。
戦争を利得や都合の為に始める人間も、ひどいと思うけれど
それを支持する人たち、賛同する人たち
なにかしらの、自分の趣味や価値観や、沽券や面子で
関係の無い人間が害を被る事を容認しないで欲しいと思う。

そんな権利は無いのに、強いとできてしまう事がある。
こういうとき、強さというのは、罪であり欠点だと思う。
強いという事を、肯定的にしか捕らえられない価値観が嫌だ。

うまく意味が取れないのだけど、Green Zoneのくだりで
自分達の場所であった海岸を、金網越しに眺めていた
沖縄の子供たちの一節を思い出した。
もう、克服しなければならない憎悪は充分生みすぎていると思う。
力任せの強さにつぶされる、悲しい事も苦しい事も
人間は充分繰り返したと思う。