venerdì, agosto 26, 2005

棄損   (8)

あの戦争の犠牲者の方々のお陰で
今の私達の平和で豊かな生活がある
という考え方を、否定はしない。
それはそれで、追悼であろうし、真摯なものだろうと思う。
他人の頭の中に入る気は無い。

ただ、私は
後の世代の為だろうと何だろうと
どんな事のためであっても
人間が、このような目にあわされる事は
許されないと思う。

歴史の流れの中で、
一つの事がおき、それが次に繋がり、その連続で、その順序で今があるのだとしても
その中で起きるべきではなかった事は
起きなければ、やはりそれに越した事はなかったと思う。
このようなひどい目にあわないで
人々がそれぞれに、生きることができていたなら
その方が良かったと思う。

アメリカや日本や、イラクに対する侵略戦争に参加している国々の
戦争の被害を直接受けずに暮らしている一般人が
今、イラクの人達に
「あなた方がそのような悲惨な目にあっているお陰で
私達は平和に暮らしています。ありがたいことです」
と、述べる事が、許されるだろうか。

BaghdadBurningは更新されない。
どこかに疎開している可能性もあるだろう。
避難している可能性もあるだろう。
電気が来ない、パソコンの具合の可能性もあるだろう。
ブログを発信する事が危険なのかもしれない。
気力が、持続できなくて当然の状態だろう。
でも、その他の可能性もあると思うから
それが、とても当たり前になっているだろうと思うから
そうではないという事を確かめて
安心したい、と、ちりちりするように思う。
自己満足なら、自己満足でも何でも構わない。
偽善なら、偽善でも構わない。
何の為にならなくても
何の為になるから考えたり心配するわけじゃない。

更新されたら、
やはりその厳しい現状を知らされることになるのだろう。
だけど、
世界中の一人一人が
それぞれに、遠く離れた全く見知らない誰かを
じりじりするほど心配できれば、
その国に、起きているひどい事を
「おかげさまでこっちが安全」と、思えるだろうか。
理屈としては、インターネットやその他メディアの存在によって
被害を受けている場所の様々な角度からの情報を得る事が可能になったのに、
それでも、見猿を決め込むなら
この時代に、パソコンの前に座れる、テレビを観ることのできる立場であるのに
考えてみる事もしないなら、
それは、ヒトラー並みの残酷さだと、思う。
残酷な決断をした、歴史上の数々の指導者達の中には
直接手を汚さなかった人も、居ただろう。多分。

考えて何にもならない、
そうなのだとしても、だからって
考えなくていいものなの?

ユーセーミンエイカーだの、コーゾーカイカクーだのって
そこまでして、優先的にやらなければいけない事?

過去の人が、今の時代の人の為に
それだけの犠牲を払ったのだと思って、感謝するなら
今の人は、未来の人に、どれだけの事をできると思うんだろう。
私達を含めた彼等が
その次の世代の為に、またひどい目にあう状態を提供する?
戦争を生き残って、働きずくめで、とりあえずここまでの国際的地位まで確保した
現在、高齢となったその人達の中から、今、多くの人が
そのうえ、まだ、震える思いを堪えて
証言を残している。
直視した自分の加害、自分のトラウマ、
全て、戦争の記憶だから。
二度とやるべき事ではないから。
何故、やってはいけないのか、証明する為に血を吐く思いで語るのだろうと思う。
ここで、私が書くと安っぽい描写になるけど
それぞれの方々には、きっと実感だろうと想像する。

憲法九条まで、せっかく、60年間、守ってきたのに、
それさえ、壊そうとするから。

私ねぇ、少なくとも、1人の原告の実兄の方が
口をつぐんだまま亡くなった想いは
”敗残の身だから”だけでは無いと思う。
考えた事があったのだと思う。
25歳で、はじめての島に配属されて、責任をまかされて
上からは、島民がいつスパイになるかわからないと
命令が来て、上陸決戦も予想されていて。
それまで、教えられていた事もあっただろう。
沖縄の人についての誤った認識。
”敵”の人々に対する、強烈な印象。
国の為に死ぬ人間こそ尊いという価値観。
食料も物資も不足して、ひっ迫した人間関係によっても、いろいろな事が
起きたと思う。人間なんてそんな簡単に集団で全員がお互いを信用しあい
まなじり決して団結なんてしないと思う。なかなか。
(それができたなら、まず、その島は軍隊を受け入れなかっただろう。
そういう島もあるそうですね。その為に、米軍からの攻撃を免れたそうですね。)
その時、その時の状況と常識と感覚で、残酷な事に麻痺して
本来の自然からの素朴な倫理観や良心に対しても、無痛になって
できてしまった事があっただろうと思う。
その時はできたのに
状況が変わって、時がたつと、徐々に感覚への束縛が外れ
おこなった事が、本来の意味を持って
記憶として人に襲いかかることはあるのではないだろうか。

あまりにも、扱いが混乱した自分の過去について、死ぬまで口をつぐむ事、
教育や社会に様々な考え方を植えつけられる以前の
自分の人格、自分の人間性に、戻って考えての行動こそが
この人の名誉を守る、この人なりの方法だったのではないか。
それを、60年後にほじくりだして、特に個人の事として
新聞にまで実名と共に晒すのが
彼の名誉の為になるだろうか。
歴史の再検討の機会としても
少なくとも、裁判で「名誉」というもので争うのはどうなのか。
実際にやってしまったのだろう事の罪で、実名が史料に残っている人々は
他にもたくさん存在する。
曽野綾子さんが、別の視点からの検証をした本を出したり
宮城晴美さんが、お母さんの証言を綴った本を出したなら
それで、いいじゃないか。
様々な角度から見た、歴史上の一つの事を、読んだ人間が比較してそれぞれに判断すれば。
何故、別の方向からの視点を抹消しようとするのか。
一つの見解に統一しようとするのか。
教科書なら、その両方を掲載すればいいんじゃないのと思うが
この裁判は、選択権が使う生徒に与えられない教科書の事ですらなく
出版される数多くの本の一つの事だから、
余計、変な不安をそそるのですよ。

その人個人の問題とするのか
「日本人の、想像力の問題として把握し、その奥底に横たわっているものを
えぐりだすべくつとめるべき課題(沖縄ノート)」として取り組むのか
それは読む人間の読み方かもしれない。

個人の問題として一点に集中するなら
黙る事で、少しだけ、直接、島民の為に何かできると思ったからかもしれないし
戦争を、ひどいものと、認識させる史料の一部となり
戦争を繰り返さないことの為に一石を投じられると思ったのかもしれないし、
勿論、想像だから、全くちがう理由かもしれないけれど、
細かい弁解をせず、亡くなる時を迎えたことが
この人の、個人の資質としての、時間をかけ直視した
してしまった事についての罪の雪ぎ方だったのではないか。
そうだったとしたら、その場合の、その気持ちへの名誉はどうなるのか。
あくまで、私の想像だけれども。「思うに」だけども。
本当は、戦争さえなければ
残酷な事をしたり、その記憶に苛まれたり
するはずの一生ではなかったかもしれない。
今、残る兵士として様々な事をさせられた、してしまった人々も
(兵士だけではないだろう)
本来は、戦争さえなければ、特に、とんでもない人徳があって聖人な人間ではなくても
そこまでの事をするはずの人ではなかったかもしれないのに。
(これだけの裁判を起こす人達が
集団自決の命令についての部分ただ一点だけを挙げているという事に、
逆に、沖縄の島々で、何が疑いようのない事実として起きたのかを
突きつけられている。と思う。)

戦時の価値観を、今もくつがえせない人、個人についても
その教え込まれた価値観によって
取り返しのつかない事を自らの手でしてしまったのだとしたら、
その価値観をくつがえしてしまったら、
直視できない人がいるという、その事実も、
戦争の歴史としても、また、その人の一生にとっても悲劇だ。
それだけ重い罪を、人間の人間であるからこそもっていたのだろう
なんらかの弱点につけこむ形で、背負わされたのだろうから。
戦争が、人をどうするか、という、現実だと思う。
たくさんの人を苛み続けている、目に見える傷や、病症としての後遺症と同じように。
そのような人が居ても、なお、
そのような人の価値観が再び主流となってしまわないよう
その悲劇を、その時代に生きなかった第三者として直視する事が、
判断する事が、必要だろうと思う。

自分を失わないようでありたいとは、思う。
だけど、私にとっては、それは、今ここに居るから書ける事だと思う。
(現在進行形でも、かなりの試練を受けても、自分を失わない事を示している人も、
たくさん居るけれど。尊敬するけれど。)
戦争の中で、人々が直面したような、
そこまでの厳しい局面に立たされて、個人の人格を試されないでも、
ほんの少しのできる事をすれば、
なんとか、自分を損なわないで生涯を終える事のできそうな、今のうちに
なんとかしておいた方が良いのではないか。

彼等の名誉は、そこで
戦争、
徐々に仕組みが形作られ、
集団心理が誘導され
権力の集中が起こり
抗うものが排除され
教育という洗脳が施され
莫大な犠牲者が出る事となる
そのような戦争というものによって棄損されたのだと思う。
先導した人と、ついて行った人と
それぞれにそれぞれの罪があるだろうけど。

戦争は、誰にとっても、ろくなもんじゃないよ。
その事に地球上で真っ先に”国”として気が付いた国の国民という名誉を
棄損しますか?


(書き直し多数回。)

まだ、続く