mercoledì, agosto 24, 2005

軍命  (6)

中央公論社新書 
名嘉正八郎 谷川健一 編
沖縄の証言(上)庶民が語る戦争体験
昭和46年初版

引用 154頁
第五章 離島の悲劇 
集団自決 座間味村座間味 宮里美恵子 農業組合保健部 二十九歳
(凡例(2頁) 体験者の住所は、現住所を示してあるが、
体験時の住所と同じである。職業・年齢は体験時のものである)

(中略)

そして夜十時ごろ、玉砕命令が下っているから・・・という言い伝えがありました。
農業組合に勤めていた宮平という青年が言い伝えていました。それはアメリカ軍が上陸する
前日なんですよ。みんな玉砕するから、忠魂碑の前に集合してください、と宮平ケイタツという
十九歳の青年がどなるようにいったんですよ。そして彼はあっちこっちの壕にも、同じことを
ふれまわって歩いていたそうです。だれからの命令ともいいませんでした。その伝令を聞いたとき、
予想していたことが現実になったという気持ちでした。彼は肋膜をわずらって
兵隊には行けませんでしたけれど、
青年団員として軍にも協力していろんな雑用を引き受けていました。
あとで、彼は集団自決に加わって亡くなっています。

(引用終わり 後略 改行amo)

この後、少なくとも農業組合の壕の中で
亡くなった人達は、軍命、と思ったんじゃないでしょうか?

(引用)
同書 165頁
日本軍の民間人銃殺
伊江村東江上 与那城彦興 十六歳

(略)
 それから、アメリカ軍から、山の中の日本軍に投降を勧告しに行く勇気の
あるものがいたら、許可するという話があったとき、伊江島の青年男女四名(一説には六名)は、
すすんで申し出たんです。若い女性が三名加わっていました。彼らは、伊江島でこんなふうにして
捕虜になった……と、自分たちの経験を生かすつもりだったんですね。
 ぼくは安里おばさんの娘さんのことをよく覚えています。ところが、彼らは投降勧告に
出かけたまま、もどって来ませんでした。山に閉じこもっている渡嘉敷の部落の人たちの中には、
夜になってから、一人か二人、ときには数人、山からおりて来て、収容所の中にはいってくる人たち
がおりました。最初のころ山からおりて来た人々は、
山でやっかい者扱いされた子持ちや老人でした。
その中の一人が、伊江島の青年男女が日本軍の赤松隊長に殺されたという話をしていましたね。
(後略)

同書 編者 谷川健一さんのあとがき「証言の意味するもの」から引用
200頁 
(略)
赤松の命令で処刑される寸前、日本刀を抜きはなった下士官が、「いい残すことはないか」と聞いた。
そのうちの女三人が歌をうたわせてくれ、といった。「よし、うたえ」といいおわらぬうちに、
女たちは荘重な「海ゆかば」をうたったといわれる。赤松の指揮する日本軍の手で殺されたのは
渡嘉敷島だけで十名にのぼる。
(後略)
(引用終わり)

引用の意図として
「殺害の命令をした事実の摘示」ではなくて、
「殺害の命令をしたとされる証言があるという事実の摘示」
である事を付け加えておきます。

まだ続く