venerdì, agosto 26, 2005

太平洋戦争  (7)

文庫の版ではないのだけど、内容はだいたい同じようなので。参考に。

家永三郎 著 「太平洋戦争」第二版 1986年

228頁から229頁

 沖縄の慶良間列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺身隊の隊長(原告の実兄の実名)は、
米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、
また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民三二九名が恩納河原でカミソリ・
斧・鎌などを使い凄惨な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは
考えられない。座間味島の(原告の実名苗字)隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよ
と命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺ということに
なり、このため三〇名が生命を失った。久米島では、海軍通信隊の指揮官曹長+++のために、
米軍の宣撫員となって島民が無用の犠牲となるのを防止するよう努力した仲村渠明勇や
朝鮮人谷川昇一家など、婦人・幼児をふくむ二〇人の島民が、スパイ等の名目で虐殺された。
 沖縄本島でも、多くの住民がスパイ嫌疑で殺されたばかりでなく、住民が壕に避難していると、
「作戦のためだ。壕を立ち退くように」と強制して彼らを壕から敵弾雨飛の中に追い出し、
最期に島の南岸の洞穴に軍民ともに逃げこんでかくれる段階に入ってから、幼児が泣き出すと、
その声によって米軍に所在を発見されるのを恐れた兵士が、
母親の手から幼児をひったくり大勢の目の前で絞め殺したり、
壕内の婦人や子どもらまでをも軍刀で斬り殺したりするような惨劇が
いたるところで生じている(18)

367ページ(著者注部分)

(18)
沖縄タイムス社・上地一史・浦崎純・古川成美各前引(第八章注(37))書
(補足→上地一史『沖縄戦史』、浦崎純『消えた沖縄県』、古川成美『沖縄の最期』)
松本克美「日本兵が沖縄人を殺した」(『現代の目』一九六四年十一月号)、
『沖縄県史9 沖縄戦記録1』『同10、同2』、
+++「私の信念はお国のためであった」(『サンデー毎日』一九七一年四月二十三日号)、
石川竜一「沖縄・++兵曹長事件の真相」(『新評』一九七一年八月号)、
「わたしは悪くない 平然と語る++元隊長」(『琉球新報』一九七二年三月二五日号)、
「凶暴性を発揮した++」(同同年同月三一日号)、
大田昌秀「沖縄戦と戦後二五年」(「朝日新聞」昭和四五年八月三一日号・九月一日号)、
安仁屋政昭「沖縄における日本軍の残虐行為」(『潮流詩派』七三号)、
「沖縄は日本兵に何をされたかー生き残った沖縄県民100人の証言」
(『潮』昭和四六年一一月号)、
嶋津与志「沖縄戦」(『ドキュメント太平洋戦争 1』)、
大島幸夫『沖縄の日本軍 久米島虐殺の記録』、
嶋津与志「慶良間諸島の惨劇」(『沖縄の郷土月刊青い海』一九七七年五月号)、
石原昌家『虐殺の島』、
那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会『忘れられぬ体験 
市民の戦時・戦後記録』第一集・第二集・第三集、
渡嘉敷唯正『戦火の中の沖縄刑務所』、
神谷すみ子「戦火に追はれて<沖縄の一三〇日>」
(別冊中央公論2 親が子に残す戦争の記録』)、
真尾悦子『いくさ世(ゆう)を生きて 沖縄戦の女たち』、
「史料保存者吉浜厳さんが明かす『皇軍による沖縄久米島住民20人虐殺』の知られざる暗部」
(『週刊朝日』一九八二年一〇月八日号)など、数えきれぬほど多くの文献がある。
曽野綾子『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』は、
沖縄タイムス社前引書の史料批判としてのみ採る。

引用終わり

各元兵士の人々の実名は引用者によりぼかしました。
改行も引用者による。

メモ
http://agata.ciao.jp/blog/archives/000116.html

「中野好夫、新崎盛輝 著 『沖縄問題20年』」は、確認が無理そう。


まだ続く