martedì, agosto 23, 2005

鈍麻  (4)

亡くなった人の、亡くなる時の苦しみそのものを
記憶する事はできない。
ひどい方法で人を殺した人の
悪夢として蘇らせて、夜中に叫びながら目を覚ます、その苦しみを
別個人の私の脳みそが記憶する事はできない。
生き延びた人々の触覚や視覚や聴覚や嗅覚に
隙あらば蘇るだろう感覚を、全く完全に自分のものとはできない。

ただ、苦しみを与えられた人が
存在した事は、記憶できるだろうと思う。
それが、一体、どのような過程を経て至ったのかを
読んだり聞いたりして、
その文章を、言葉を、受け取りながら伴われた自分の気持ちを
記憶する事はできるだろうと思う。
誰かに伝える事もできるだろうと思う。

後の世代の人間は
「人間として決して受忍できない苦しみ」
を記憶することが不可能でも
「人間として決して受忍できない苦しみを、人間がこうむったこと。」
は、記憶し伝える事ができると思う。

さまたげられなければ。


訴状(http://blog.zaq.ne.jp/osjes/)を読んでいる。

「・・との記述が、渡嘉敷島の守備隊長であった赤松大尉に関するものことであることは、
日本の現代史を研究するもの及び赤松大尉を知るものにとっては明らかであり、」

という文章、もしくは同じ意味の文章が頻繁に出てくるが
地名を読んだだけで、そこに派遣されていた軍隊の統率者がわかるような
「日本の現代史を研究するもの及び赤松大尉を知るもの」であれば
沖縄ノートが出版された後に
出版された反証する内容の本や、新聞報道も
読むのではないだろうか。
「日本の現代史を研究するもの」なのであれば
それこそ情報を多角的に捉え、研究してそれぞれの判断を下すべきなのではないだろうか。
研究者として、戦争の中で起きた事によって、そこに関与した個人を差別していいのだろうか。

「・・・しかもそれが高名なノーベル賞作家である被告大江が著述したものであることから、
今日でも広く社会に影響を及ぼしており、・・・」

ノーベル賞というのは
数十年前から、誰が受賞するのかわかっているものなのだろうか。
自分が、そのような影響力を持つようになるから
このような記述をして、この人の名誉を棄損しようと考えて
数年後に偽証であると証言される、ひとつの事柄について
記述するというのは、可能なものなのだろうか。

沖縄ノートは集団自決の事だけを書いた本ではなくて
「戦争があってひどい目にあったのに
戦後もまた、ひどい目にあっている沖縄の人々が
ひどい目にあわされ続けている事について
自らが沖縄の人ではない、その他の日本人
ひどい目にあう事を、押し付けている人々が、
加害者としてあまりに鈍感でありはしないか?
その鈍感さは、どこに繋がるだろうか?」
という内容の本であると思う。
(こうやってかいつまむのは、好きじゃないけど)
その、多くの部分は
書かれた当時の現在についてである。

原告の方々の「筆舌に尽くしがたい精神的苦痛」は
日本の軍人の人々が、非戦闘員である
いろいろな人(沖縄の件に止まらない)に与えた苦痛と同じく
戦争が無ければ、与えられなかったものであると思う。
たくさんの人々が
戦争によってこうむった苦痛に対するなんらかの
慰謝を受ける為(それだけが理由じゃないかもしれない)
国に対し裁判を起こし
それがゆえに、更に、苦痛をこうむって、しかも報われないで亡くなった人も多い。
もし、どうしても、自分が直接命令をしなかった集団自決を
命令したとされた、その一点からのみ、自分の名誉が損なわれたとするなら
”この原告側の当事者個人が、”直接命令を下した”と証言されるに至った
おおもとの原因である、
「軍からの直接の命令があって自決した場合のみ、補償の対象となる」
とした国に責任があるだろう”という意見(http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050820)にも、
賛成したい。私の理解が正しければ。(他から命令される”自決”って一体何・・)

「原告赤松が実兄・赤松大尉に対して抱いていた人間らしい敬愛追慕の情を内容とする
人格的利益を回復不能なまでに侵害」させられたのではなくて
原告の方が、実兄の個人の人間性や人格と、
戦前、戦時中の教育の成果や、軍隊に属する人間に強いられる役割を混同したのが、
因なのではないかと思う。

原告側には、訴状に書かれていない大前提として
「苦痛の原因は”戦争”ではあり得ない」
という固定観念があるように思う。
だから、それとは正反対の考え方の本を読んで
意味の取り方がねじれるのだろうと思う。
戦争中に、残酷な事をするのは
残酷な事をする個人の生まれながらの資質が、残酷だから、が理由では
ないのではないか?
このように従わされる個人に、残酷になる事を強いる状況を作って
自分は、中央の都市の安全で清潔なところに居た人は、
多少、個人の資質としても残酷さを持つ気もするけれど。
でも、その地位に、その人が就くことがなければ
この現場から遠く離れた所から残酷な事を命令できる資質を持った個人本人だけでは、
やはり残酷な事は起きなかったのではないか?

「沖縄ノート」から、私の着地するのは
この、安全で清潔な所に居て
残酷な決定を下す資質を持っているように思える人々が、
そのような権限を、再び手にしつつある現在を
放置して大丈夫だろうか?
沖縄に、基地という問題、苦しみが押し付けられている事に
沖縄以外に居る人は、無関心でいて、
困っているのは自分じゃないから、あの人達だから、と思っていて大丈夫だろうか?
沖縄の事だけでなく、いろいろな事柄について
苦痛を被っているのは、自分ではないから、
あの人(達)だから、と、関与する事を避けている残酷さを
自覚しなくて大丈夫だろうか?

”あの人達”は、いつでも、他者にとっての、自分となり得る。
それを、そうならないと錯覚させるのが、差別だと思う。

私だったら、誰か個人を差別しようというのではなく、そう結論する。

訴訟に言及する大江健三郎さんの「伝える言葉」の感想を
いくつか見かけた。
犠牲となった、特に子供に対する想いが多かった、ように思う。
受け取ろうとする人に伝わる言葉は
本質だけが純化されている。のか?な?

相手の本当の意図が何であるかではなく
相手の主張が何であるかという方向から話を進めた方が
相手の視点側に立つ第三者の納得も、得られる可能性があるかもしれない
という事は思いつつ
それも、やっぱり、この訴訟の直接の具体的な当事者ではない人間(私)だから書ける
鈍感な感想だろう。
そうしなかった事により、危機感が伝わった人も、いるようだし。
この訴訟で原告側の代理人をつとめている人物が
選挙に出馬するそうだ。
http://gontango.exblog.jp/2187604