mercoledì, agosto 24, 2005

でいごの花が散る  (5)

BOOMの「島唄」という歌。

以前、沖縄出身の同級生だった人に、
でいごの花って、どんなの?って、訊いたら
「真っ赤な花」だと答えた。
ふーん、つうて。
それから、ずっと後に、
とにかく、なにかっていうと歌ってるほど好きな歌なので
また、でいごの花ってどんなんだろと思って
検索したら、
赤く細長い花が、まとまってついている
ちょっとサルビアのような花。
ふーん、つうて。

何か戦争の事だろうとは、思っていた。
沖縄から、まるで見世物のような扱いで参勤交代をさせられた
そういう頃からの、ずっとを唄っていると思ってた。
でも、ぼんやりと。

昨晩、集団自決を検索していたらば
「島唄」は、沖縄の集団自決を想って描いた唄だと、
宮沢和史さん自ら、そう語っているそうだ

パズルの最後の1ピースが、
かちっとはまったようだった。
脂汗が出て、鳥肌が立った。

もうずっと前、BOOMという沖縄出身でない人達が、受け止めた沖縄が
島唄として、沖縄の人たちに受け入れられた
(サンシンの教室でも今これを習うという内容になっていたと思う)という番組を見て
そうなのかぁ、よかったなぁとただ思ってた。
知らないというのは、こういう事だ。

軍命令が、長期間かけてのほのめかされ
誘導されるものであったか
直接言葉として述べられたものだったか
その違いが、責任者の名誉を左右する事かどうか
私には疑問だ。
集団自決についての記述がある本が
ひとつひとつ出版停止にされる事の意味の方を考える。

教科書に、数文字の記載をするかどうか、
記載する事を阻止する動きの方が強い今の状況を考える。
実は、今までの教科書だって掲載されていない事が多すぎるし
教科書なんてそんなもんと思っているが
それまで掲載されていた事を、能動的に意識的に
削除する試みが力を得ている事を考える。

真っ赤なでいごの花びらが、視界をおおうくらい
風に吹かれて散り舞う所を思い浮かべながら。
八千代の別れ。
今、映像となっているイラクの
どうしても直視できない写真を重ねながら。
花に喩える事のできる現実も、ないではない。
つぶれて、黒ずんだ花の残骸も、
伝える事があるかもしれない。
それは、とても薄められたものだけれど
だから、感覚の麻痺をさせないかもしれない。

唄はすごい。
でも
添付される、最低限の知識は隠されてはいけないと思う。

沖縄ノートの集団自決に関する記述をめぐっての提訴は
原告側に、とてもたくさんの弁護士が、参加しているそうだ。
日本の弁護士の人全てが、そのような人ばかりだとは思わない。
語り継がれた記憶を継承する人や
実際にその場に居た人の気持ちの側に立って考える事のできる弁護士が
存在しないとは考えたくない。
沖縄ノートだけを考えると
何故、これが訴えられる対象になるのか、そこからわからなくなるけれど
(察しはするけど、ワカリマセン)
改めて、一に戻って実名表記も含まれるその他の2冊を含めて考えると
証言された証言が記載された事に対する抗議であると思える。
訴えられているのは、記憶だと思う。
原告側を支持しない弁護士も居ると思う。
何もしていないとは考えたくない。
やり方があるのだろうと信じている。

語り継がれた記憶を継承する人や
実際にその場に居た人は、この件についてどうするだろう。
このところ、納得できない裁判の判決を多く聞くので
司法の良心を、過信ができない。

まだ続く