venerdì, agosto 12, 2005

・・・   (1)

大阪府在住の元軍人と遺族が5日、「沖縄ノート」の著者で作家の大江健三郎氏と
出版元の岩波書店(東京)を相手取り、総額2000万円の慰謝料と
出版差し止めなどを求める訴訟を大阪地裁に起こした。

梅沢さんらは、集団自決は住民の意思によるもので、
生存者らが戦後、遺族年金を得るために「軍の命令だった」と証言したのが真相と主張。
同書店発行の「太平洋戦争」(家永三郎著)など2冊についても同様の理由で差し止めを求めた。

大江氏は家族を通じ、「訴状が届いていないので詳しいことが分からない」、
岩波書店は「見解は裁判で明らかにする」などと談話を出した。

(概要引用)

http://64.233.179.104/search?q=cache:EmkyCSPHQt4J:www.asahi.com/national/update/0805/OSK200508050099.html+%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6%E3%83%BB%E9%9B%86%E5%9B%A3%E8%87%AA%E6%B1%BA%E8%A8%98%E8%BF%B0%E3%81%A7%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E6%B0%8F%E3%82%89%E3%82%92%E6%8F%90%E8%A8%B4+%E5%85%83%E8%BB%8D%E4%BA%BA%E3%81%A8%E9%81%BA%E6%97%8F&hl=ja


南京大虐殺に続いて
今度は、こういう事を”全くなかった事”にしようとするわけですか。

南京大虐殺については
無かった、という事を示そうとして
当時の兵士の方々に投稿を呼びかけたところ
それが、あった、事実であるという証言の方が多く集まり
結局、偕行社側も認めざるを得なくなったという話があったけれど。

にしても、取材した結果、
住民に・・と記憶されている人物だと知ったから
その事を「住民に・・と記憶されている人物」と表現したらだめなんだろうか。

「昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』から、
沖縄県史や渡嘉敷島(渡嘉敷村)の村史など多くの沖縄戦記に引用されている
http://news.goo.ne.jp/news/sankei/shakai/20050724/m20050724001.html」事柄を
「そのように、記憶されている事柄である」として書いたらだめなんだろうか。
しかも、1970年(昭和45年)出版の本の中で。
この時って、沖縄ってまだ本土復帰してなかったんじゃなかったでしたっけか?
(本土復帰1972年5月15日だそうな)
この提訴の根拠になっているらしい
島民は、保証金をもらう為に偽証をしたという告白、が掲載されている
曽野綾子さんの本、2002年出版だよ?
未来においてそれまであった証言が
同じようにその場所に居た証言する側の者から
どこかの本の中で撤回や否定されるかもしれないなんて、
わかるかそんなもん。
ほいじゃ、歴史なんか語り伝わらないじゃないか。
(『ある神話の背景』(昭和四十八年(1973年)、文芸春秋)
座間味島の集団自決について、生存者の女性が
「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、
偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが証言した『母の遺したもの』
(平成十三年(2000年)、高文研)

こういう裁判が起こされる事を、当然のように認めるなら
報道関係の人達、この先実名報道なんかできなくなるよ。
逆転判決の可能性は常にある、事件逮捕の報道はどうするの?
長い年月、結論の出ない裁判の報道はどうするの?
それに、経験者の証言の言葉を信じて、
より多くの読者に伝えようと代弁した人がこのような提訴を受ける事を、
証言した側が自分達が提訴されたわけではないと黙ってそのままにするなら
証言を、代弁する人も、継承しようとする人も、
この先出てこなくなってしまうかもしれない。
証言というものが、証言する側本人達が
後で、偽証した、とされた時に、されたままにしておいたりするようなものなら
どうして、知る側は真剣に受け止めて信じようとできるだろう。
本当の事、苦しみの中から語られている、信じる価値のあることだと思うから
辛くても知るし、リスクを覚悟して、代弁する役割を引き受けようとするんじゃないか?
本人がもうおられないのでも、
その人を直接知っていた子供等の家族は
”お金の為に偽証した”、と言われている事を、そのままにしていていいのだろうか。
そちらは、名誉を傷つけられた、とは考えないのだろうか。
”偽証”を認めるなら、信じた人間が、それを理由に訴えられても
歴史の後継者として誠実であろうとして、戦争の傷を受けた人々の言葉を
まともに信じようとした方が悪いと嘯くんだろうか。沈黙するのだろうか。

メモ
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~hirofumi/study411.htm
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/334.htm
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4053/1999-after-1b.html
http://www.okinawainfo.net/oba.htm
http://www.geocities.jp/gakuchan_nif/page179.html
http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/
okinawasennositsumontokaitou/sensouhigai.htm

なるほど、全て証言だ。
その時代にその場所で、食べるものも無い人々が
写真機や録音機器を持って歩くわけがないから。
名誉棄損を理由に今回の提訴をおこした人達は、
この証言の全てを、否定するのだろうか。
何もしなかったのだろうか。
例えば軍からの「「軍人軍属ヲ問ハス標準語以外ノ使用ヲ禁ス
沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜(スパイ)トシテ処分ス」。という命令にも、
逆らったわけなのだろうか。
思い出して、罪の意識を覚える事は、何も無いのだろうか。
本来人が持っていた名誉は、その時代の、その場所で、
人を殺す事を強制する戦争によって、自ら棄損させられる事はなかったのだろうか。
しなかった事を探すのではなく、した事を認め雪ぐことで、
回復される名誉なのではないだろうか。
「他の兵士の人たちと違って
自分だけは、何もしなかった、」とすることが
この人達の棄損されたとする名誉なのだろうか。
その時代にも関わらず、一人聖人だったそんなすごい人が、何故、島民に、
自決しろと命令した人間と思われてしまったのだろう。
金銭の為としても、そのような人に
島民達が、罪を着せるものなのだろうか。
この守備隊長だった人達は、何もしなかったのだろうか。
それであれば、居なくなった人は、何故居なくなったのだろう。
提訴側の根拠の証言も
第三者にとっては、他に残っているものと同等の証言の一つなのだけれども。
別の証言が、”偽”なのだとすれば、
提訴した側の証言も、”偽”である可能性は同等になるのだけれども。

信じて、自分を賭けて、本に記した人間だけが独り、
信じた証言内容を、このような証言があると記した責任を問われるなら、
証言を聞く、という意味は、損なわれるだろう。
非戦闘員の住民達の証言も、元軍人の人々の証言も。

背負わされる方は、背負うかもしれない。
だけど、そのまま矢面に立たされたその人だけを
その場に残していいものなの?

検索して、この件について産経新聞や共同通信や毎日新聞の記事も読んだけど
中心に置かれるべき存在が、不在だ。
どちらも、渡嘉敷島や座間味島の人の証言を根拠にしているのに
証言した側の人間や、せめてその方と共に生活して話を聞いただろう家族からの
この件に対する直接のコメントが無い。
後で裁判がどう進展しようとも
この今の報道記事だけ読んだ人の記憶に残るだろう印象を、どうするんだ。
(7日間遅れで記事を見つけたから、今、じゃなくなったかもしれないけど
7日前に、に、なっちゃったけど)

わりきれない。


付 検索で出てきたページ。該当の両方の本の引用が出てる
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050803#p3

もし、書かれている事柄を、自分の判断で信じるかどうか決めて
信じたというその事が、後から提訴されるようになるなら
伝えられている事を、信じる事が、提訴される理由になるなら
人は、伝えられる事を信じなくなる。
何故、大江健三郎さんの名前を、
自分の意見の説得力としてきたいろいろな方面の人達は
今、黙っているんだろう。
何故、沖縄の心を広めたいとしてきた人達は
負う物を共有しようとした人が、このような立場に立たされたとき、黙るのだろう。
黙ってたら、事実はどうあれ、その黙っている間に、黙っていない側からもたらされる
情報が及ぼす影響というのが、あると思うのに。
つまり、あなた達の問題でもあると思うんだよ。

(次項に続いてしまってます)