sabato, agosto 13, 2005

沖縄ノート   (2)

沖縄戦・「集団自決記述で大江氏らを提訴 元軍人と遺族」について。続き 

沖縄ノート(1970)より引用抜粋

「慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』
の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の
《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動を
さまたげないために、また食料を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という
命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる
本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の
酷たらしい現場においてはっきりと形をとり、
それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。
生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、
沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が
総合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、
かれが本土の日本人にむかって、
なぜおれひとりが自分を咎めなければならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれは、
かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。
 (「沖縄ノート」69、70頁)」

「創造」を支えているもうひとりの中心人物たる高校教師は、なおも直戴に、
それを聞く本土の人間の胸のうちに血と泥にまみれた手をつっこんでくるような事実を
すなわち一九三五年生れのかれが身をよせていた慶良間列島の渡嘉敷島で
おこなわれた集団自殺を語った。本土からの軍人によって強制された、この集団自殺の現場で、
祖父と共にひそんでいたひとりの幼児が、隣あった防空壕で、子供の胸を踏みつけ、
凶器を、すぐにもかれ自身の自殺のためのそれとなる兇器をふるうひとりの父親を
見てしまい、祖父とともに山に逃げこむ。そのようにして集団自決の強制と、
抗命による日本軍からの射殺と、そして米軍からの砲撃という、三重の死の罠を辛くも
生き延びたところの、まさに慶良間におこった事件の、その核心のところに居あわせた
人間の経験についてかれは篤実に語るのであった。
 しかもなお僕が、かれら自身とその身近なものらの経験を語る口調に、
ある不思議な客観性、無関心(デイタッチメント)の印象をもまた受けとったことについて、
いま僕は、それをいくらかなりと筋みちだてて理解できるようになっているのを感じる。
実際しばしば、僕はこの日に眼と耳にしたものを反芻しつづけてきた。かれらは、その
沖縄戦での体験を、他人の目の前に、まだ血をしたたらせている酷たらしい死体を
ゴロリと放りだしてみせるように、直接的に語ることで、もっとも端的に激しく、本土からの
やわな旅行者をうちのめしえた筈である。しかしかれらは、かれら自身の誇りにおいて
そのような赤裸な自己表白をおこなおうとはしないところの、すなわち通俗的な
沖縄残酷物語めいたものに加担することを、決してかれら自身に許容しないところの、
自恃をそなえた者たちであった。(「沖縄ノート」168 169頁)」

「このような報道とかさねあわせるようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で
沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいっても
すくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、
投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑した事が確実であり
そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことの
はっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく
沖縄におもむいたことを報じた。



僕は自分が、直接かれにインタビューする機会をもたない以上、この異様な経験をした
人間の個人的な資質についてなにごとかを推測しようと思わない。
むしろかれ個人は必要ではない。それはひとりの一般的な壮年の日本人の、
想像力の問題として把握し、その奥底に横たわっているものを
えぐりだすべくつとめるべき課題であろう。その想像力のキッカケは言葉だ。
すなわち、おりがきたらという言葉である。一九七〇年春、
ひとりの男が、二十五年にわたるおりがきたら、という企画のつみかさねのうえにたって、
いまこそ時は来た、と考えた。(「沖縄ノート」208頁 )」

「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえず
くりかえしてきたことだろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の
巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、
歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。
つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、
過去の事実の改変に力をつくす。いや、それは、そのようなものでなかったと、
一九四五年の事実に立って反論する声は、
実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での
市民的日常生活においてかれに届かない。一〇四五年の感情、倫理観に立とうとする声は、
沈黙にむかってしだいに傾斜するのみである。誰もかれもが、一九四五年を自己の内部に
明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいに
ひとり歩きをはじめただろう。(「沖縄ノート」210頁 )」

白色強調と改行は私 引用終わり

こんな読み方でこの本と出会ってしまっている後ろめたさを感じつつ
探しているけど、訴訟を起こした人達の名前、書いてない。
この文章だけで、個人を特定し探し当てて、差別するような人は
この文章を読む前から、差別する意図があったような気がする。
もし、このような文章を根拠に、この訴訟を起こした人達だけが
ひどいやつだと職場にいられなくなるような差別をされたなら
差別した人間を訴えたらいいと思う。
この本のプロローグのタイトルは
「死者の怒りを共有することによって悼む」。
共有しようとしたことが、提訴されるような事なのか・・
結果がいかに出ようと
裁判は、訴えられる側は、その分疲れると思うんだよ。
しかも、それをこぼすことさえ、
許さないんだろう。

個人的には、
その時そこに居たわけじゃないから
間の連絡についてがどうだったのか知らないが
提訴側の記憶が確かだったとしても
自決した人たちの中には、集合がかけられ、自決を促され
家族に殺されたり、自分の子供を手にかけさせられた人々の中には
軍人さんに命令されたのだと、最期まで思っていた人は居ただろうと思う。
とすれば、その人達にとっては、それは事実だったろうと思う。
特攻隊で亡くなった若い兵士達は、「お国の為に死ぬのだ」と教え込まれていたことは
現に、今生き残っている人々も知っているし
そのことをいまだに讃えて祀ってまでいるのだから
お国の為に命を捨てるべき、という考えが、あたりまえとなっていた事は
事実だろう。
軍人さんは、”お国”から派遣された人々であり
疑問を持ったり逆らう事は、お国に逆らう事許されない事だっただろう。
で、軍人さん達の為に自決せねばならない、と
校長先生だの女子青年団長さんだの巡査さんだのに言われたら
それって、軍の命令だと、思ったんじゃないか?
自決した人は。

「そして梅沢隊長の前に出た宮里助役はこう願い出た。
「もはや最期の時がきました。若者たちは軍に協力させ、
老人と子供達は軍の足手纏いにならないよう、忠魂碑前で玉砕させようと思います。
爆弾をください」と。」

http://www5e.biglobe.ne.jp/~tokutake/kyokasho.htm

この内容が、事実だったとして
これを、この助役とかそういう人達から、
死ぬ為の道具を渡された子供が、生き残った場合証言すると
証言というのは、「軍の命令だった」っていう事にはならないだろうか。
渡して告げる側の人達が、”忠魂碑前”でどのように説明するか、
自分達だけの命令で、自分達の考えで、死んでもらうとは
言いそうに無いような気がするが。

この場合、集め”られた”方の人が”自分の経験”を証言したら、その証言は
”偽証”なんだろうか。
”偽証””嘘”と呼称された提訴がなされ、報道記事にまでされた事を
証言した側は、放置するのだろうか。
?????。

本の内容の意図するところは
もっと違う事なのはわかっている。
戦争が人間をどうするのか、
人間は戦争とどう向き合うのか、という事が大事な主題なのだと思う。
ひとつひとつの言葉がどうであったとか
ひとりひとりの個人がどうであったかではなくて
戦争の証言は、戦争の空気、戦争とは何か、が、語り継がれる為に必要なのだと思う。
でも、日本国内全ての人が
日本国内全ての出版物を読むわけには行かないだろうし
そうだとしても、ひとつひとつの事柄に出会えば判断は迫られる。
その、語り継がれた戦争の姿を、嘘だと判断されていいのだろうか。

それにしても、
なんだかね、って思っちゃう。
人って複数になると別のものになるな。
目を逸らすなと繰り返している人間達が
目を逸らさなかった人が、それゆえに置かれた状況から
何故か、目を逸らす。
新聞も中立性を自任するなら
この記事を書くために、
この内容を持って
沖縄の人のところまで、コメントを取りにいくべきなんじゃないか?
行けるのだろうか?
なんだか、同じ性質のものが
この件に関する時系列全ての中に、見えるように思う。

続く