mercoledì, settembre 07, 2005

鶏と馬と鹿

フライドチキンになっていたわけでも
焼き鳥になっていたわけでもなく、
ただブロイラー化していただけのようで
まずは、なによりでした。

いやいや。ほんとに。

ここが、まだ、戦場となって現場となっていないから
戦場を伝える人も、戦場から帰って来る事ができる。
戦場で無い家へ帰る事のできない
RiverBendのblogは、いまだ更新されない。
・・・ひとつの項に纏めてはいけないような気もするけど。
ここパソコンの前から、存在を知る事のできる、
戦場で耐えている私達と同じ一般人は
戦場で、今、どうしているのか。何を見ているのか、何を聞いているのか
一体、其処の状況にいつまで、耐え続けなければいけないのか。
それでも、まだとにかくも耐えて、未来に希望を繋ぐ事ができているのか。

要するに、無事なのか?

ただのへたれの私でも、考えていて、気持ちが痛い。
なんで、こんな、誰がどんな目にあっても、
それが日常で当たり前となっているような状態に
人を置くのか。
なんで、置かれたままなのか。
地球上の人間が、全て戦場に押しかけるわけには行かないが
地球上の人間が全て、憤る事は、理屈として可能だ。
いいかげんに、やめてくれ、と思えば
いいかげんに、止めさせる事が、理屈としては
できるかもしれないなら
現場にいけない人間も、考えたり
考えを表したりする必要が、やっぱり、あるんじゃなかろうかと思う。
無責任に、戦争は仕方が無い必要悪だ、などと述べる人々は
とりあえず、まず一般人として現場で暮らして
戦場に置かれる方の側の立場になってから
そういう発言をして欲しいと思うが。

もうひとつ、勝手に気がかりになっている事。
ペシャワール会の
中村哲さんは、9月4日大阪で講演会の予定があったようなので、
そう考えてはいけないかもしれないが
そこまでは、ひとまず安心、だった。
けれども、中学校の先生が2人、また犠牲になった事で
地図を調べたら、多少場所は違うようにも思えるのだけれども
アフガニスタンも、イラクへの攻撃に日本が賛同している為に
日本人が安全ではなくなってきた、という話が
現場を知らないテレビを観てるだけの鈍い私にも、
動かしがたい事実として叩きつけられたようで
ううううううっとする。
心配とかいうより、何か怖い。悲しい。痛い。
たとえ、どんな所での、救援活動に当たる人であっても
それまで、確保できていた安全は
確保され続けて欲しかった。
どんな国へもどんな紛争地域へも
個人として丸腰で友達として駆けつける事が可能な
誰にも敵だという先入観を与えず、
友人になるかもしれない人間
商売相手になるかもしれない人間として
まずは、受け入れてもらえる国籍が、
そういう人々を輩出できる国が
存在するというのは、世界の日本以外のどこの国の人にとっても
貴重だったのではないだろうか?
今からでも、日本人が日本人である事の信用を
取り戻す事は、できないものなのか。
それは、”したり顔でくすぶっている一般人”が
今の事としては、11日の選挙でどういう投票をするか
日常的にも、どういう考え方をするか、に、かかっているかもしれないと
思う今日この頃。

だって、呑気で自分勝手だから、こいつらだめだわかんない、って諦めたら
まず、現場に行けない、その人々に、
伝えている意味が無くなってしまわないか。
馬鹿だと思うなら、馬鹿さを指摘する必要はあるかもしれないが
いつかは、馬鹿だという事を自覚するかもしれないという希望は
なんとかして捨てないでいただきたい。
ジャーナリストなら。
まぁ、捨てて捨てられるものでもないだろうが。
馬鹿は、馬鹿なりに、これでも、あがいている。
馬鹿の馬鹿さというのは、自覚しても自覚しても
まだ自覚し足りなかった事に
いっつも、何度でも、気がつかされるのですよ。
・・・悪かったね。

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