venerdì, settembre 02, 2005

訂正  (10)

花束を手向けた事はせめてもの謝罪だったのではないか
と思ったけれど
少なくとも、そういう記述は
インターネットを検索しても、今のところ
どこにも自分で見つけられたわけではなかった事がわかったので
訂正します。


「僕はまた、集団自決をひきおこすことになった島を再訪しようとして
拒まれた旧守備隊長に、おまえはなにをしにきたのだ、
と問いかける沖縄の声のひきだした答が、「英霊をとむらいにきました」
というものであったこと、抗議の列をすりぬけて、
星条旗をつけた米民間船に乗った旧守備隊長が、
ついに渡嘉敷島にいたり花束を置いていったという報道をグラフ誌に見い出す。
日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと
自分をかえることはできないか、という暗い内省の渦巻きは、
新しくまた僕をより深い奥底へとまきこみはじめる。
そのような日々を生きつつ、しかも憲法第二二条にいうところの
国籍離脱の自由を僕が知りながらも、なおかつ日本人たりつづける以上、
どのようにして自分の内部の沖縄ノートに、完結の手だてがあろう?
[七十年四月]」(沖縄ノート 228頁 改行は引用者)


以下http://www.jiyuu-shikan.org/frontline/sonota/0506-3.htmlより

『神話の背景』から、赤松隊の第二中隊長であった富野稔元少尉の言葉を引用する。

 「私は防衛召集兵の人たちが、軍人として戦いの場にいながら、
すぐ近くに家族をかかえていたのは大変だったろうと思います。
今の考えの風潮にはないかも知れませんが、あの当時、日本人なら誰でも、
心残りの原因になりそうな、或いは自分の足手まといになりそうな家族を排除して、
軍人として心おきなく雄々しく闘いたいという気持はあったでしょうし、
家族の側にも、そういう気分があったと思うんです。
つまり、あの当時としてはきわめて自然だった愛国心のために、
自らの命を絶った、という面もあると思います。
死ぬのが恐いから死んだなどということがあるでしょうか。

 むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で
死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、
というような言い方をして、その死の清らかさをおとしめてしまうのか。
私にはそのことが理解できません。」

(改行引用者)

私にも、理解できない事があります。
自分の足手まといになりそうな家族を”殺して”
軍人として”雄雄しく”戦いたいという気持ちが
”軍人の足手まといにならないために”という理由で
自分の家族を殺害させられる事が
清らかで、美しい心、と思うことが。
たとえ戦争の準備段階や、戦時中であったとしても
”今の考えの風潮”が無かった”その時の考えの風潮”の中でも
個人のそれまでの生きてきた中には、
一心に小さなものを摘み上げて、首をかしげてながめる
まだ自分の足で立つにも満たない年齢の子供のしぐさとか
親に叱られた時に、「まぁ、私に免じて」とかばってくれるおばあさんとか
「あんたが、食べなさい」と、自分に分けられた僅かばかりの食料を
譲ってくれるおじいさんとか
何か、そういう記憶がなかったわけではないと思う。
他人の家族であっても、そこに差別感情があったのだろうけれどそれでも
自分の家族と重ね合わせて、その自然な価値観を呼び戻す事をせず
殺しあわなければならなかったことを
清らかで美しいと思う事を
例えどんなに、どんなに、殴られながら惰弱とののしられながら
教え込まれた考え方であったとしても、信じてしまった
そして、その考え方によってやってしまった大きすぎる罪がゆえに
それを正当化し続けざるをえないでいる人々の言葉を
ただ聞いただけの人間としてそのまま、信じ込み自分のものとする
新しい”今の考えの風潮”のなかで育ったはずの人達の
気持ちが理解できません。
あらゆる人間が居る以上、
人を、大切に思うための記憶も得られず
想像力を培う事も叶わず
生きざるを得なかったそういう人も居る社会だとは、思いますが
その考え方が主流となることは
やっぱり理解できません。
家族のものでなくてもいい、友達でもすれ違った人でも
思い出が良いものばかりとは限らなくても
ひとつくらい、無いのだろうか。一瞬の事でも、そういう記憶がないのだろうか。
たとえ弱い相手であり、自分への物理的な直接の痛みを伴わないのだとしても
殺したくない人の記憶というものが。
殺されてしまった時に、世間から「死んで偉かった」などと評されたくない、誰かの存在が。

「玉砕命令が出された」という通達をきっかけに
集団で島民が自決を図った島に
当時島に配属されていた軍隊の隊長が
戦争が終わってから再度訪れて英霊を弔ったというのは、
弔った、の意味は、
謝罪ではなかったのだろうか。
「表面だけの謝罪」ですらなく
亡くなった事を
讃える、という事にすぎなかったのだろうか
殺されてえらかった、という事だったのだろうか。
どうも、そうだったようなのかもしれない。
謝罪は、慰霊に訂正せざるを得ない。
それで慰まるかどうかは別として。

私は、この時ではなかったにしても、この後になってからだったとしても
この今は亡くなった隊長だった人も、思うところがあっただろうと、思いたい。
心の中で、口に出せないまま、思うところがあったと、思いたい。
でも、それはあくまで私の想像に過ぎない。
http://amo-ya.blogspot.com/2005/08/blog-post_112502822367941792.html

国の為に死んで偉かった、殺されて偉かった
それを、なぜ、「大切な人の為に命を賭けるか」という
問題にすりかえるんだろう。
国の為に、国の権力者の為に
国の権力者の権力欲を満足させ
国の権力者の金銭的利益や
国の権力者にまつわる、もっと大きい権力を持つかもしれない権力者の
金銭的利益や権限を増大させる為に
亡くなって偉かった、殺害されて偉かった、殺害させられて偉かった、痛みに耐えてよく頑張った。

それは、えらいというのではなくて
痛ましいというのだ。


メモhttp://d.hatena.ne.jp/dempax/20050902#p1

続くhttp://amo-ya.blogspot.com/2005/09/blog-post_04.html