domenica, novembre 27, 2005

慟哭のような

25日に
BaghdadBurning 更新

いつまで続くんだろう。


何百年も、ずっと昔から、たくさんの思想家や哲学者が
いかに正しくあるべきか、いかに善く生きるかを問い続けてきた。
暴力で、物事を解決しようとするのはいけない、
武力で問題は解決しないと、考えてきた。
傷つけ殺しあう事は、憎悪や怒り、悲しみや恨みを連鎖させ
争いは戦争によって解決をする事はできないと、綴ってきた。
数えきれないほど多くの、卓越した頭脳を授かった人々が
一生をかけて考え続け、
人間は言葉をもち意思の疎通をはかり、お互いに受け入れあい
共生する事のできると、願い信じ続けてきた。
一部分に対して持つ恨みを種族や国籍に拡大して考え
お互いを差別し迫害する事は、悲惨で残虐な人間性を欠いた出来事しか生まないと
そのような事がなくなれば、全ての人が、安心できる。
お互いを尊重しあえる、共に暮らせるようになると考え
その為にまず、ひとりひとりの個人が
暴力を拒否し、服従を拒否しようと、勇気を持ち、武器を捨てようと
訴えてきた。
世界中で、たくさんの個人が、その考えに共鳴し
世界中のあらゆる所に点在する人々が、その想いを胸に決意し
周囲にも説き続けてきた。
世界中のあらゆる所で、あらゆる人が、そう考えている。
イラクでも、この戦争が起きる前から、イラク国民が居て
民族間宗教観に軋轢はあっても、個人として、
クルドの人々を差別するべきではないと主張したり、
権利を制限されている人にも、人権はあり平等に扱われるべきで
みんな友達として生きることができたらどんなにいいかと思ってきただろうし
表現してきただろうと思う。
イラクが攻撃をされ始めた時も、イラクに生まれイラクに住む人は
攻撃を始めたアメリカ兵を、驚きの思いで眺め、話せばわかるはずだと信じ
土地の気候に慣れない若い彼等に対し、同情を覚え
穏やかに帰ってさえくれれば、憎しみを持続させはしないと、綴っていた。
いかに、善くあれるか。いかに誠実にあれるか。いかに正しくあれるか、
私達は、彼等は、自分たちが人としてどうあるべきなのか、それを求め続けてきた。

戦場で無い場所に住む私達は、
非武装である事、対話による問題の解決を望む。
その思想の一端を、それぞれに担っている。
それぞれ各々に担われる事によって、この考え方は、滅することなく息づき続けている。
だから、イラクに居る、この考え方を持つ人も
滅びない息づき続けるこの考えを信じて、この考え方に従い
武器を持たず、寛容を訴え続けている。

頑是無い子供の頃から知っている近所の少年が
今まで、耐えに耐え、ひたすら自制を続け、武装集団に加わらず
何よりも、とにかく家族を守る為に家族と共に居続けてきた子供が
目の前で弟を殺されたり、母親や姉妹を米軍に連行されたりして
とうとう武器を持ち、家を飛び出す。
今まで、彼に対し
「気持ちはわかるが、耐えなければならない。
君が、居なくなってしまったら誰が君の家族を守るのか」と
説得を続けてきた人が
銃を手に怒りに任せて路地を駆け出す少年に追いすがり
止めさせようとする時に、だけど、その人が、何を言えるのか。
「民主主義、平和主義は結構だ。けれども、イラクの明るい未来は
僕の弟を返してくれるのか」と咆哮されて、彼はなんと答えればいいのか?

お互いの宗教を尊重し、お互いに対し寛容である事の大切さを知っていて
自らはイスラム教徒であるけれども
家の近くにある、慎ましく可愛らしい小さな灰色の
キリスト教の教会の前を通る時
私達は皆、敬虔な気持ちになった、と書いていたRiverBendさんは、
今も世界の良心を信じ続け
極限の状態から、イラクの人間の視点から見える戦争を
世界に発信し続けている。
新憲法草案を、なんとか入手し、よく読みこんで
その内容を吟味し、どこの部分が、イラクの未来にどのような影響を及ぼすか
イラク国民として、その草案にどのような判断を下すべきか
誠実に考えている。
そして、隣人にも、草案を読み、内容を考えて選択をするよう話しかけ
目の前で、草案の書かれた書類をやぶかれ、道に落ちた果実を掃き集めるのに使われ
少なくとも、これも全く役に立たなくは無かったね、と言われる。
肯定するにしろ否定するにしろ
新憲法が、イラク新政府が、
明日死ぬかもしれない私達に何をしてくれるのかと、哂われる。
其処此処に、拷問されて殺害された遺体が転がっている。
子供たちは生首に花を飾って遊んでいる。

Riverさんは、普通の人にできる以上の事をしている。
人が一人できる以上の事を、武力によらない、紛争の解決の為に
20代のたった一人の女性に、期待されうる以上の努力をしている。
RiverBendさんの日記は世界中の人々に
イラクの様子を知らせている。イラクの人の気持ちを伝えている。
世界中の何十万という人間がRiverさんのBlogにアクセスし、毎日更新を確かめ
大事にその内容を読み受け止めている。
けれども、Riverさんの隣人は言うかもしれない。
「それが、何だというのか。
blogが世界中の人々に読まれ続けていて
世界中の人々は、それで、何をしてくれるというのか。
私の奪われたものを、世界中の良心ある人々は、いつ返してくれるのか」
Riverさんは、なんと答えたら良いのだろう。

非武装非暴力非服従の、人間の想いの力を信じ
世界の人類の良心を信じ、人が力をあわせて共生する未来を信じ続けようとする彼等を
武器を持った軍隊が、世界からやってくる兵隊たちが
これでもかこれでもかと追い詰めてゆく。
いっそ、武器を持ち、怒りに任せて報復ができたら
どんなに楽だろうかと、思う瞬間は無いだろうか。
今現在、戦争の場所でない此処で、
どうか、武装集団には加わらないで欲しい、どうか武器を取らないで欲しいと
思い続けることは、彼等を苦しめては居ないだろうか。
彼等はいつまで、耐えるのか。
どこまで耐えればいいのか。
武力によって物事は解決しない
憎しみを連鎖させてはいけないと信じ続ける彼等に対して
これでもか、これでもかと
ありとあらゆる苦しみが与えられているのを知らされて
同じように、
人類が武装ではなく話し合いで共生をする事を願い続けている私は
その考えを生かし続けている一人として、申し訳ないいたたまれない気持ちになる。

世界は何をしているのだろうか。
なぜ、彼等を救わないのだろうか。
世界中の平和の祈る人というのは
数十人に過ぎないというわけではないだろう。
何をしているのだろうか。

居ても居なくてもいい非力で無能な一粒であっても
その中の一人として
武力によらない、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する事が
人間一人一人の安全を守る為の最大の方法なのだと、
そう信じ続けている一人として
とても、苦しい。
なぜ、ここまで放置を続けているのか。
知らないわけじゃない。
情報は世界中に伝わっている。
なのに、なぜ、こんな事が続いていて
誰にも救う事ができないのか。
ファルージャの、タルアファルの
拘束され拷問され暴行され続けているイラク中の人々は
世界中の人が、彼等がそのような目にあう事を容認したのだと
思ってしまっては居ないだろうか。
世界中の人から、見捨てられたと感じてしまっては居ないだろうか。
世界中の人々から死んで良いとみなされたと思った人間が
身体に爆発物を巻きつけ人ごみに入っていくのを
世界中の人々は
どのような言葉で、止められるのだろうか。

昨年、バグダッドの大学などで
何人もの学者や教授が、兵士たちによって殺害されたという報を聞き
その経緯を想像して、胸が痛んだ。
何十年も、研究を続け第一人者となり
その研究を誇りに思い、その分野においての世界の中での自分の大きな価値を
慎み深くも、信じていた人たちが
無遠慮に進入してきた兵士に、何のためらいも無くあっけなく銃殺される。
その瞬間の、世界的頭脳を持つ人々の
起きている事を信じられなかっただろう想いを考えて
とても辛かった。
先日、夜中に放送していた映画の中で
価値観を押し付けない事を説き、
隠れ家の中でも穏やかに人々の争いを仲裁していたユダヤ人教授が
他のユダヤの人々と共にドイツ兵に連行される際に
殴られる同胞を見て
殴るくらいなら殺せと叫んだ事で
まるで虫でも払うかのように肘で殴り倒され
泥の中に倒されて
ゆっくりと立ち上がりトラックに積み込まれる所を観て
戦争というのは、このように行われるだろうと思った。
とても耐えられないと思った。

過去の事、映画の中の事だと思って、やっと観る事ができる。
だけど、現実としてはとても耐えられないと思った。
どうしたらいいかわからない。