mercoledì, giugno 08, 2005

大愚痴

「平和であってほしい、戦争には反対だと、
どんな手段でも表現できるそれによって得られる満足感、歓びを
否定してはいけないと、なんだか思ったのでした。」
「平和を望むひとりであり続けることを、
ちゃんと嬉しく思おうと思います。」

結論から書けば、これはウワゴトだ。
嬉しいと思おうと思って、嬉しく思えれば世話は無いんで
こういうの、自分ではものすごい嫌いな筈なんでした。
自己満足だの自己顕示欲だのという言葉を、あまりたくさん見過ぎて
血迷ってしまったと見える。
他の人にとって、それほどでないのかあるのか
力量の低い私にとっては、かなりきつかったのでうわごとでもこじつけないと
やってらんなかったんだと思う。
だけど、こういう事をうめくから、”きれいごと”とか言われちゃうんだわ。
楽しくないものは、どう楽しく思おうと思ったって
楽しいものじゃないわ。
喜ばしさなんて喜ぼうと思って喜ぶものじゃない。

その中に、楽しさや嬉しさを見つけられる人は
それを否定するべきじゃないと思う。
自己満足でも、満足も得られるなら幸運(と、才能)。幸運は大事にしないと。
ただ、私個人で言えば、たいした事しているわけじゃないのに、
やたらきつい。
正直、自己主張、あまり得意ではない。
大概、人が機嫌悪くなったり、怒った顔しているの見るだけで、
胃が喉元にせりあがるような
本当のところの、吐き気に襲われる。
けれども、だからっつって、大事な所で
自分の考えに逆らって迎合して顔色伺って卑屈になるのも
嫌だよ。嫌ではないですか?嫌ですよ。他人でも、そういう人見たくないし。

正直、人間としてやらなければならない
最低限の事だと思って、最低限くらいはなんとかしようと思い、
自分の意見として、戦争に反対という気持ちだけは表明しないといけない
と思うから、せめてできることとして書いている。
戦争へ進む方向へ導くのも
戦争へ進んでいる動きに追随するのも
最悪だと思う。
これだけの知能を持った人間を使って戦争をすれば
それだけの結果が出てしまうから
そこへ向かおうとする存在は本当の意味で地球上に存在する唯一の有害生物だと思う。
戦争は、どんな理由があってもやってはいけない。
やってはいけない事は、やらないのだから、準備も道具も必要ない。
そういう方向へ進む事に対しては、微力であっても無力であっても
自前の乏しい脳みそで考えつく、可能な限りの方法で逆らわないといけない。
って思うから、書くんだし言うんだし、有り金もはたくんで
(そんな額に見えなくてもそうなの。名古屋地裁、きちんと審議してください)、
まぁ、たのしかないわな。
疲れるし、時間も削られるし
買いたいものも我慢しなくちゃならなくなるし
しかも、なんだか知らないが、やたら人の悪意とぶつかる事にもなる。
妙に、浮き上がって標的になる。
目立ちたい人は、目立てばいいんだよ。自分で。
絵で喜ばれたりすれば
喜ばれる事を目的として描いている場合、
目的が成功したわけなので嬉しい事も無いではないが
(実際には、数ヶ月かけても香典袋みたいとばっさり斬られてへこむばっかしだが)
自分で巧くない事がわかっている文章誉められても
厚意は嬉しいが、誉められた事自体については、
なんというか、ああ、わかりましたっていうか、さぁ、
やらなきゃいけないのはわかってますよ、やりますよっていうか。
でも、他人のことは誉めたりしちゃうけど。
だって、私みたいなひねくれもんばかりじゃないとは思うから。

たまにちょびっと楽しい事があるとすれば
私の考えていて訴えたいと思う事を
私が頭の中でこねくっているよりもずっと鋭くて巧い表現で
表しているものを見たとき。巧く、じゃなくても、それまで黙っていた人が
口を開いたとき。それを見ると、嬉しい。それくらいのもんだ。
それは、私が何もしてなくても、あれば見れるものだしなぁ。
ただ、完全に自分がなんにもしてない、という焦燥感は少なくてすむかも。
そんなもんだわ。

世の中が平和であっても、嫌な事は多い。
だけど、戦争中の場所に居る人の嫌な事はそれどころじゃない。
戦場で、生き生きした人が多い、のは、
生き生きしてない人は、まず真っ先に死んじゃったからなんじゃないか?
いつ失うかわからないと切実に感じているから家族同士人同士が
大事にしあう為に、それぞれの大事さを実感できるのかもしれない。
でも、いくら大事にしていても、壊されてしまう
世界のいくつもの場所に居る人々が、その事を知っていて
壊しているのが、誰か何故かも薄々、もしくは明らかに知っていて
なのに、続いている、終わらない
その状況が、良いとは言えない。
生き生きし続けているっていうのは、
いつ何が起きるかわからなくて緊張し続けているわけで、普通の人には疲れるわ。
自分が何しようとしまいと、自分の住む場所が平和であったら
今現在は平和の中にいる事ができるけれど
平和にしておこうとしなければ、平和ではなくなるという事もあるんだし、
自分の居る所が平和でも
どこかの国に住む人が戦争の被害を被っている
その戦争に自分の属する国が加担しているのだとしたら
それを見てみぬふりは、やっぱりできないよ。
何の力にならなくても。
加害者がやめれば、被害者は被害者でなくなるのだから。惨事は加害者にしか止められない。
でも、基本的には、平和である事のほうが普通の最低限の基盤なんだから
いちいち空気の成分が、こういうのでよかったなぁとか
呼吸するたびに嬉しくてたまらないわけじゃないのと一緒で
自分が平和な国に住んでいる事も、
どこかの平和な国に住んでいる人が
平和な国に住めているという事も
いちいち、わー、うれしい、楽しい、と、いうものではない。
戦争をしている国の戦争が終わったら、そんときは嬉しいだろうけど
なかなかそうもいかないし。

戦争を止める事、戦争にならないようにする事は
言葉を持っていて、表現できる以上、やらなくちゃいけないんで、
楽しかろうと苦しかろうと嬉しかろうと虚しかろうと
やれる限りはやらなくちゃいけない。
人間に生まれちゃったから、仕方ない。
人間って難儀だ。