domenica, agosto 28, 2005

罪の帰属

(この時点で8月31日)

稚拙な、私の解釈 

各個人が、自分の罪について主体的に考える。
=自分が実際に直接行った事の罪を、自分から見て自分の物として
それをそのもの自体のみで、他と比較せずに考える。
(必要な事であるが、個人によっては、
成り行きなども含め、それが全くできない人も存在する。)

各個人が、他人の罪について主体的に考える。
=他人が行った事の罪を、自分から見て他人のものとして
自分との、関連性を無いもの、もしくは実際にある関連性のみがあると考える。
罪をおかした他人に、償わせさえすれば、
あるいは、免罪させれば、責任は終わると思ってしまう、かもしれない。
その個人の資質によって、その個人が行った罪は、
同じ状況下においても、その個人さえ居なければ起きなかったと考える事に
繋がりかねない。つまり、なんとかさんや、アドルフ・ヒトラーさんさえ居なければ、
独裁政治も侵略戦争も起きない、という所に至りかねない。と思う。

各個人が、自分の罪について、相対的に考える。
=自分の罪を、他人の罪(自分の罪よりひどいものであることが多いと思う)
に比較してそれに準じて評価し、考える。

各個人が、他人の罪について、相対的に考える。
=他人の罪を、別の他人の罪と比較して考える。

各個人が、他人の罪について客観的に考える。
=Aが行った事の罪は、Aの罪であると考える。
BがAの状況下にあった場合にはBのものであった可能性もある。
(B=客観的に見た自分を含めた第三者)

集合体がまとまって罪を負っているように考える事により
各個人がそれぞれ異なった仕方で、異なった重さで負っているはずの罪の
具体的な中身を曖昧なものに考える。
=Aの罪もBの罪も、AとBとその他を含めた集合体の背負った罪である。いわゆる割り勘。

=集合体に、その時点と、それ以降に加わる個人は全てその罪を背負っている
かもしれないしそうじゃないかもしれないし、責任の所在も、特定しようとすれば
もにゃもにゃしているが、確実に重たい。

=だから、せめて、この重たいものをそれ以上増やすのはやめないか、と。
罪が集合体というひとつの存在によって
繰り返されているものと考えて、
痛い思いをしながらなお繰り返しているという
その愚かさを認識する

ことに繋がるといいな、みたいなー。わー。
(言葉の罠に、”主体的に=自分から”かかった気がする)


個人の意志がある程度尊重される中で行われる犯罪については
個人に帰属する罪と考えた方が妥当なように思うが
お互いがお互いに、個人である事を無視してひとつの価値観を強制しあっている状況下では、
個人の意思も無視されたまま、物事が進んでしまうので
罪は、集合体にのしかかる塊としてしか、捉えられなくなるような気がする。
本当は、”国”を越え、”人類”のものとしてもいいのではないかと思う(※)。
自分は、そんな事をしないと思っても
自分以外の人、全ての人間の中には
同じ状況下にあって、ひどい事をしてしまう人間もある。
その状況が特殊な、個人の意思を圧殺し、
かつ、お互いに対して残酷になる事を鼓舞する、許す、強いるというものであれば
自分がいかに強くて、それに逆らえると思うのであっても、
誰かがとても残酷な事をしてしまうかもしれないのだから
その状況になる事を許した、もしくは、この先許しかねない自分の上にも、
やはり罪がかぶさってくるのだと思う。
(※日本人特有の傾向が、結果に関わっていない、と言い切っていいかどうか
わからないけれど、
他の国と同じように、日本人にも日本人らし、くない人も居る。
日本に居る時は、この社会の中で、日本人らしくなっていても、
海外に行くと、また、変わる人も居る。
日本で暮らしている事の特性としての、日本人の個性と
遺伝子的な傾向と、両方から考えなくてはいけなくて
正直、(日本人の罪なのか、人間の罪なのかは)どっちでもいいよ、という気もする。)

もし、どうしても、現在に生きる一個人として背負わないとするなら
自分で、その状況になる事を、実際に、許さない、
状況に進みつつある流れを
実際に、自分で止める、という事でしか、
自分が罪を背負わない人間であると
証明できないのではないか。
一個人に、一個人だけで、それができるだろうか?
イラク戦争は始まった。
日本という集合体は、そこに加担した。
結果が出た。
http://peaceonyatch.way-nifty.com/peace_on_iraq/2005/08/post_4a58.html
http://teanotwar.blogtribe.org/
私(達)が、できなかった以上、
できなかった”日本人”の罪を
同じようにできなかった、過去から全て
やはり背負っていると
証明したと思う。
具体的な罪の内容は、あいまいになる。
具体的に、どうすれば、止められたのか
何が悪くて止められなかったのか、あいまいだから。
個人一人一人の、その人に可能で、するべきで、しなかった事が
わからないから。あいまいだから。
こういう事をする、”人間”。
こういう事を許す、”日本人”として
こういう事を許してきた”日本人”として罪を負っているんだと思う。
一人を糾弾して、その個人を葬っても
状況は葬れない。し、考え方、も、葬れないし、
葬らない過去から未来の
個人個々の一人一人が共有し内包する、そのそれぞれ一人が持っている分は、
具体的に表せないほどに小さい罪と罪の可能性、それが元凶であって、
それに責を負わせることでしか、
厳密な、断罪はできないのだと思う。
それを、断罪する為には、
集めて、合わせて、目に見えるものとした上で
断罪するしかない。
罪が、”これ以上!!!”繰り返されない為の断罪として
自分を含む、集合体を、個々の持つ罪の集合体として糾弾し償うしかないのだと思う。

戦後責任に言及するならば
戦争という起きてはいけない事の被害にあい、
現在もその為に苦しんでいる(記憶に苦しめられる事も含め)人間が居るから
直接の加害者個人に、その慰謝をする能力が無くても
苦しんでいる人間は、その軽減の為の努力が、
誰からであれ、なされなければいけないと思う。
集合体の、多数個人各々が、
みんながやっていることを、自分もやって何が悪い、という
集団心理、責任を擦り付け合えると思うことによって、
個人一人であればできなかったようなひどい事をやってしまった場合には、
その責任は、集合体が背負う事によって
集団心理の責任の擦り付け合いをしても、
やはり、結局は代償は払わなければならないものになるという
罪をなす事のリスクが、確定するのだと思う。
自分が、腹を切って自決してお詫びして、居なくなって(逃げて)しまっても
自分達の子孫に罪が受け継がれると思ったら
そういうひどい事は、あらかじめ、しないようにしようと思う理由のひとつになると思う。

個人はどうしても、どんなに長くても150年(念のため長めにしておいた)
もすれば確実に居なくなってしまうが
属する人間が入れ替わっていく集合体は、属する人間が全滅しない限り消滅しない。
世界的に”国”と認められなくなっても
そこに属すると思う人は、そこに属すると思い続ける。
属する集合体は、国じゃなくても、だから、人類、でもいいんだって。
なくならないこの集合体が、罪を背負う存在であるという形にする事で
罪の責任の所在を、消えてなくなるものから、
一度してしまった事の責任、罪は、消滅しないものとする事ができるようになるのだと思う。
消滅しないものにする事で
繰り返せば、増えて、その重みが増すものになり
繰り返さない事の必要性が、より明確になると思う。

必要性は明確になっているのに
繰り返されているが。

「自分は直接手を下してないから悪くない」
と思っている人間がたくさん居る為に
「自分は直接手を下している」人間と
「自分は手を下している人に、命令をしている」人間と
「自分は、それによって、生じる利益を、少人数で山分けする」人間が
存在し続けるんだろうと
私は、思う。

少なくとも、完全に無罪じゃない かも。
それを、それぞれ本人に、裁くままにさせるのが
「各個人が、自分の罪について主体的に考える。」という事だと思う。
誰も罪を自覚せず、責任も取らないという事になる。

という、私の考えに対する私の反発。
http://amo-ya.blogspot.com/2005/06/blog-post_08.html
そして、この時のひとまずの結論が
それで、個人がひとりだけ免れたとして
免れる事に
何の意味があるのか、という事。
直接手を下した個人
もしくは、具体的に決断した人間のみに、罪があるとした時
その個人が背負いきれなかった場合に、
それでも、被害者は、存在する。
個人が個人の特性として、
背負わない、背負えないからといって
この被害者に、対峙する存在が、
空白になってしまっていいのだろうか、
空白にして、被害者を独り放置した時点で
放置した存在は、その点において有罪になるのではないか。

結局
それぞれが、それぞれの罪があるかないか、
それをどうするかどう考えるかは
それぞれが、それぞれに考えるしかないと思う。
罪があるにしても無いにしても
個人にできる事は、限界があるし。
罪の意識などというものは
他者から押し付けられれば、まず拒否されるものであろうし
拒否させてしまう形の糾弾は、無意味だと思う。
国は、政府として、他国、自国の個人を、尊重しようとすれば
しなければいけないことは、おのずと見えてくると思う。
自分の籍する国に、そうであってほしいやり方をしてくれるように
求める事は、自由だと思う。
私は、自分の属する国が、過去にその集合体として行った戦争で被害にあった人たちの犠牲を
「しかたないこと」と、みなして放置して欲しくない。
そう求めるのは、自由だと思う。
集合体の上にかぶさる形で
属する個人それぞれの自由意志に託して課せられた責任だと思う。

0.5+0.5+1+1+67+12+18が100になるのは、
67のせいだけじゃないし
0.5だけのせいでもない。
それら全てが、お互いに背負っている分を直視せず
そのひとつだけが罪を背負うべきだ押し付けてしまったら
結果の100には、いつまでも及ばない。
67が欠けても、0.5が欠けても100にはならない。
個人一人ではできなかった残酷な事だし
一般人にとっては、一人では止められなかった残酷な事だ。
としたら、罪は、一人個人に背負えるものじゃない。
一人個人に背負いきれるものじゃない。
一人が決断すれば、止める事のできたその一人は、背負っている罪がかなり、重い。
が、その個人が、個人の能力で背負いきれない時
残酷な結果が出た犠牲者に対して、それで良いと思える残酷さをもつのに、
自分のやった事の罪を背負いきれない人間に
決断すれば止められるだけの権力が集中することを託した人間は
結局、その責任を背負わなければならないだろうと、私は思う。
戦争で起きた事の被害は
どんな人間であれ、一人で背負いきる事のできるものじゃない。
とすれば、そんな事をした、させた、許して見過ごした人間と
同じ事をしかねない人間全てが
償いきれない所を、それでもなんとか償おうとするべきだと思う。
一人では償いきれないからといって
被害からの視点で考えれば、償わなくて良いというものじゃないから。

こうやってべきべきと言っていると
それぞれの人間が、自らの罪を対峙することを
逆に阻んでしまうので
書くべきではないが、ここまできちゃったのでしかたない。
自分だけは関係ないと思ってください、

と書いたら
自分だけは関係が無いと思えるのかどうかは
読む人間の資質の問題だ。
関係ないと思う事が可能な資質の個人によって
集合体が享受している事、支えられている部分も、また、あると思う。多分。別な形で。

罪の意識からでも、責任感からでも
正義感からでも、義侠心からでも
友情でも、同情でも、偽善でも、自己満足でも
起きてはいけない事を、阻止するなら、
その理由が何であっても、私は構わないと思う。
起きてはいけない事は、誰の手によってであろうと、起きてはいけない。
沖縄であったような事は、広島で長崎で東京で長慶で南京でフィリピンで
イラクでアフガニスタンでチェチェンでスーダンでドイツで(あと、思う所、足してください)
起きたような事は、もう、起きてはいけない。
その後のどんな文明の為であっても、どんな豊かさの為であっても
やってはいけない事はやってはいけない。
こんなひどい目にあわされる、理由になるような事は、何も無い。
こんな事をするに匹敵する大義名分正当性が、存在できるわけがない。
もう、たくさんです。