mercoledì, luglio 06, 2005

おみこし

戦争に反対しながら、戦争を止められなかった、歴史にも残らないでいる人達のうち
想像するにかなり多かっただろう人々の過ちは
自分の頭で考えず、「だれそれがこう言ったから」という理由で動き
これは、だれそれの言葉なんだけれども、と、だれそれの威を借りながら、主張をし
無責任に、「だれそれは素晴らしい。みんなだれそれの言葉を聞け」と、祀り上げることで、
戦争に反対しているという、自分への免罪をしながら、その反対する事で生まれる
痛みの部分は、だれそれに押し付けた事にあるのだろうと思う。
誰か、ひとりもしくは数人が、その正しい主張をする中で祀り上げられれば
この動きを止めたい側の存在が、止める為に誰を見せしめの標的にするかは、
考えたらわかるはずなのに。
考えなかったんですね。
私もうっかりその轍を踏みかねない。踏んだ?踏んだな。ごめんなさーいよー

右や左や、だれそれや何某にへんばりつくんじゃなくて、
自前の脳みそで、自前の足で、なんとか歩く事が、本当に大事なんだと思う。
協力はしても、狂信はしない。

だれそれの、過ちは、もしかしたら
他の人の平和を望みながら、
自分の平和は犠牲にされることを引き受けてあげてしまった優しさかもしれない。
今後、世の中が、更に嫌な方向に進んでいってしまった時に、
誰か、本気でいる人が、浮き上がってしまって
もし、自分の主張の為に、本当に、やばーい感じがしたら、怖くなったら
自説を翻す事で、身が守れそうであるなら
まず、身を守ることをしてほしいと思う。
ぎりぎりの見極めが、必要なわけだけれども。
貫く勇気と翻す勇気との。

自分が仰ぎ見ている人間が、急に違う意見になったからって
その中に間違いがあるなら、そこに気が付かず
間違っていようとなんであろうと
自分の頭で考えた判断をせずについていくような人は、愚かで行動に意味が無いし
このような場合に主張を変えた人を、
その事を理由に責め立てるような人間は、残酷で非道だと思う。

うーん。。。気をつけよう。
まず、自分がみこしかつぎにならないように。私だよ。ほんとに。