sabato, giugno 17, 2006

天与

面白きことも無き世を面白く、
住みなすものは、心なりけり

深っ

天才ってのは
発信も受信も
それを、あほ(←私)にでもわかるように再発信することも

想像を絶するほどに
巧い。

ふかっ!ふかっ!ふかっ!

sabato, giugno 10, 2006

異世界

私は、日本生まれ日本育ちの生粋の日本人であるが、あるはずだが
どうも、日本語が、
日本語じゃなくても同じだと思うけれど
比較できるほど堪能に他の言語を習得していないので
とりあえず、日本語が、
どうも通じていないような気がしてならない。
長い間、通じていると信じていたのだけれども
通じていないと仮定してみると
思い当たる事が、・・・・・そんなぁ・・・落涙。

ちなみに、落涙は、体内のストレスにより発生する物質を外に出すので
身体の機能を適切に保つために必要であるらしい。
しかし、悲しいとか怒りなどで泣いている場合
そこに至っているという時点でストレスが発生して
ストレスにより発生する物質が体内に増えていることを考えると
わけがわからん。マッチポンプだ。ぴよぴよ。
泣くほどに感動するようなことは
悲しみや苦しみに比べると、少ない。
泣いている人を見て、ストレスが解消されているな
と判断するのは、さびしい。

数日前、普段よりどうもうまくいかない誰かに、
うっかりはちあわせてしまい
とやかくいんねんをつけてきたので
「ありがとうございました」と答えると、
相対する誰かは、満足げにして去って行った。
いつも、どうにもなにかうまくいかなかったのが
気抜けするほどのあっさり具合であった。
ような気がする。
もはや、自分の見ていることに対する判断に自信が無い。

子供の頃の、稚拙な(と今までは思っていた)怯えが
思い出されてしかたない。
つまり、私の見ているもののようには
私の見ているものは
私の周辺の人間には見えておらず
私の言うことは、私の思う意味として他の人間に伝わっていない。
だから、たとえば、私がりんごが赤いですね、
と言った場合
相手には、もひゃひゃがへろりですね、と聞こえている。
で、相手は、もひゃひゃをみていて?へろりですね、と思っているので?
どぶてさら、と答える。
と、そのどぶてさら、が、私には、
そうですね、と聞こえる。
りんごが赤いですね、と言ったら、そうですね、と答えが返ってきたので
それでよいのだと思えるが
良くないのである。
で、実は私の見ているものは
私の見えているようではなく
もひゃひゃがへろりとしている?んであろうが、
もひゃひゃがへろり、って何だよっ、
・・・・・・・

とりあえず、りんごは、りんごであるようだし、
それが、赤いかどうかについては、微妙な
つまり、私の見えている赤と他の人の赤が同じものであるかどうかには
多少の疑問があるものの
まぁ、なんとかなるのだけれど
これが、もう少し複雑なことになると

子供の頃の感覚は、あながち稚拙ではなかったかもしれないと。
思い描いていたような、べろべろ星人が闊歩する、
ぐにゃぐにゃしたSF世界ではないものの
どうも、もう少し
えーっと・・・
結果おおまかに当たり、みたいな。
四捨五入すると、当たり、みたいな。

鬱か?
鬱か?
しかしだすね、鬱というものについてですね・・・
(以下脳内物質のバランス云々について略)

いんや、理解できているよ
と思ってくださる人もいる(ような気がする)のだが、
その理解された内容が
私の発出している内容と
つまり、意味と、
違うかもしれない。
理解していると思って
理解されていると思っていると
案外、理解がされておらず、あとで、結果が
おりょお、という事になる。
やたらめったらに、物事が混乱していく。
私の言いたい事を、かなり忠実に言葉によって再現できた場合ほど
「よくわからない」といわれる事が多い。

ところで、
私が理解しやすいと思う、共感できる度の高い文章ほど
まわりくどいと評されていることがあります。
え、だって、この意味を説明するために、この文章が必要でしょ。
で、この文章が前に無かったら、次のこの文章の意味が伝わらないでしょ。
だから、この順序にならざるを得ないでしょ、
と、言い出すと
でしょでしょうるさい。でしょくない、とか言われてですね
・・・だって、わかんないっていうからさぁ、
珍しく私にはわかんなくなかったからさぁ
ほいとか
無意味な言葉の羅列が前衛的、
じゃないけれども、まぁ、
難しい、と評されていたりすることがありますが
なぜ、無意味、と受け取られるのかがわからねい。
で、そうかと思うとこんだ、誰にでも楽しめるはずの事の意味も
まったく、何が面白いんだかちっともわかんない
あまりにもわからないので、
いらっとする、
ということが、ままあるのですが、
いらっとしたからといって、
それは、別に我慢できるし我慢しますが
でも、みんなが、きゃらきゃらして喜べていることについて
我慢しているっていうのは、
少し、あれですよね、寂しいですよね。
同意を求めても無駄か。

いや、無駄ではない、かもしれない。
なぜならば、私には実に理解しやすく
他の人には理解しにくい文章を
発し続けている人が、何百年も前から居た、
今もたまに居るということは。
発する人が居て、受け取る人が居るということで・・・

でもさぁ、その人々のずれ具合も
私と周囲とのずれ具合とはまた、
違うかもしれないよねぇ。

(多くの人が難しいと評しており
 私にも難しくってわかりまひぇん、というものも、勿論多いです。
 基本的には、そっちの方が多いです。
 私の脳機能は、十分に普通以上に悪いです。じゃかしいわ。)



だめだ。どつぼはまった。
あ、ちなみに、アスペルガーじゃないと
断言されましたから。
そうじゃないらしいですよ。
じゃ、なんやねん。
ていうか、
標準的配合バランス、平均的傾向と違うとすぐ、
そうやって病気にしてからに、
そいで、その病気群と違うと
また、違うと分別してからに
違っちゃいけませんかー?
いけないのです。
なぜなら人は、お金がないと、生活できないから。
人間に生まれた場合、人間社会の中でしか、生きていくわけには行かず
(変にその辺りの雑木林で野生生活を送ろうとすると
逮捕されたりしますから、気をつけましょう。
猫だったら、
いや、昨今は猫であったらなおのこと、
保健所などで死刑にされますから
さらに大変ですね。)
人間社会の中で生きるにはお金が必要で
周囲と、あまりにも違いが大きい人が、生活するためのお金を得ることは
とても困難だから。
死ね、と。
死なないなら標準に順応せよと
お前じゃなくなれと、

・・・
数が多いだけで、えらい傲慢なんじゃないですか?
しかし、寛容であるためには
傲慢な多数派の方々の傲慢も寛容に受け止めることが肝要であるが
寛容であることは
じっつにむっつかしいなっ。
むかつくしな。
つかれるしな。
辛そうにされると悲しいから
迷惑かけたくないが
何が迷惑なんだか、わかんないしな。
微妙に、そこはかとなく、
私の考える迷惑と、一般的な迷惑というものがずれている
と仮定すると、理解しやすい気がする、どうよ?


しかし、私のしている理解は
私が理解したと思っているだけで
実はぜんぜん違う意味であるかも知れず
したがって、その結論も違っているのかも知れず
再どつぼ。




おまけ、ちなみに。
どうでもいいけど、迷惑メール純粋に完全に迷惑です。
・・って書くとまた増えるのかも。
でも、ウェルカムですって書いても
増えると思う。減るかな。
あれ?(ただ意味を真逆にすりゃあ、いいってもんじゃないんだよねぇ。経験上)
ひたすらまとめて削除してるだけだから
送信している手間は無駄ですよ。
って書いても無駄だと思うし。
たいした手間じゃないのかな。無駄になってかまわないくらい。
だいたい、ここから得た情報によって
送信しているわけじゃないかもしれないし。
一日145通は、多すぎである。
3年間我慢を重ねたが
メールの送受信をしたくない。
しなくちゃいけないんだが。


もうひとつちなみに。
例え、それが正しい、と
場合によっては確信まで抱いたとしても
他人を傷つけたり殺生はしない方が良いんですよ。
なぜかというと、
自分の確信が、自分以外の人に
同じような説得力や確信を持たせるとは限らず
そして、殺生する相手は
自分以外の人だからです。
間違っている、とか、正しいとかは、
人によって違うし
だからといって、統一しようとすれば
それを徹底すれば
自分とまったく同じ人間は存在しないわけで
(クローンだって経験過程が違えば、いろいろ違ってくると思う)
残るのは自分だけになってしまい
そして、自分には絶対に太刀打ちできない
もっと絶対的な事によって
(地震とか噴火とか津波とか蚊とかゴキブリとかエイズとか)
自分は、正しいとか間違っているとか言う理屈をこねるまもなく
抹消されてしまうからです。
そうすると、
誰も居なくなりますが
そうなった場合
正しいとか間違った、とか考える人は
誰も居ないわけですから
結局、
正しいと思ったからという理由で
他人を殺傷した、行動者の”正しさ”には
意味が無いんですよ。
相手を殺さなきゃ、生き残れない状況になる前に
今、そのような状況に無いうちに
そのような状況にならない方法を
あらん限り考えるべきであろうと思われる。

とか、考えているうちに
殺害されてしまった
学者の先生とか
肩書きに限らずたくさんの人が
居たかも知れず、



ただ、他人を殺してまで生き残ろうというその気力は
どっから出るんだろうと
思う。
”大切な人を守る”事を口実に殺傷を正当化する人々は
多分、その大切な人が
自分を脅かす存在になったら
大切な人であっても、大切に感じなくなり
殺すだろう。と思われる。
自分の考えで動いているならね。
命令されて従わされているだけである場合は
命令されなければ
”命令に従ってではない能動的な殺傷”をしない人であるから
他人を殺してまで生き残ろうと思って殺傷するわけではないから
命令する人に反逆せず、命令に従って他人を殺傷しているという事になる。
”殺すか殺されるか”という選択であるなら
まず、他人から殺傷される危険を冒してまで
もしくは、大切な人を危険にさらすかもしれないほどの
恨みを、第三者に抱かせるような危険を冒してまで
他人を殺傷せよという命令に従うよりも、
そのような命令をする人に反逆するはずだから。
命令をする人の、あたまん中が知りたい。
どうしたら、その人らしくあるままで、
でも、そういう無茶な命令をしなくなるか?

命令する人は
”守るため”が本心ならば
いつも誰かに危害を加えられるかもしれないとおびえており
そりゃ、みんな、それなりにおびえているけど
なんとかこなしているものが
こなせないほどにおびえているわけであり
気の毒である。
気の毒であるが、とりあえず、そんな気の毒で
何をするかわからん人に、
権力は預けないほうがよかないですか?
権力により実現する
そのおびえによる武装が、別の人のおびえを誘ってしまうではないか。
”お金のため”であれば、
そのお金の価値が、いったい、なぜ
それほどまでに、
他人をないがしろにするほどまでに
つまり、他人をないがしろにしても平気であるようなところにまで
自分を貶めるほどに、
高い価値として感じるかということで
そのお金で、可能になることに価値があるんだろうが、
正直、そのお金の為の犠牲は、実にはた迷惑極まりないので
どうしても必要ならば
同じだけのお金を儲ける
人に敵を殺傷する事を命令する、
誰かが命令するように仕向ける、以外の方法を
選択していただきたいのだが
自分ひとりの生活費を稼ぐこともなかなかままならん人間失格者には
そういった素晴らしい方法を考え出し教えて差し上げるわけにもいかず
この世は、あいかわらず、地獄でありました。