mercoledì, ottobre 11, 2006

利益を望んでではなく
理の通ったことをするために
きちんと筋を通したために
もしくは、通しているために
標的にされる人がいると

この、自分の罪悪感をもてあます。

あげくが、わけわからないところを
どうどうめぐりするが

なんだか、
だめだわ。

申し訳が無い。
申す、なにか、言い訳が、ない。

いろいろ考えても
軽薄にしかならない。
変ないい子ぶりっ子になってしまったので
考えてて、消した

多分
悲しいのだと思う。

どうしよう。

なんで、こんな、なんだろ。

martedì, ottobre 10, 2006

でしょでしょ

(11月27日 少しかっこつけてるように見えるなって
思ったので削除していましたが
どう見えるつうのを考えてるほうが
よっぽどかっこつけてる気もするので
なんとなくやっぱり、出しておくことにしました。
あんまり好きじゃないけど、他にどう書いたらいいかもわからない。
確かに、たまには自分と違う意見の人を
うるさいなとか、嫌だな、とか、腹が立つことは
ありますよ、あー、ありますよ、ありますけど
そう思っている自分を自覚したときに
その自分のほうが、もっとうるさくて(自分の中でうるさい)
嫌だし腹が立つ。嫌い。間違ってるし良くないと思う。
気合入れて開き直らないと、そう思ったって認めたくないくらい)


自分と違う意見を持っている人が居たとき
その人が居なくなればいいと
思わない。・・思えない。
答えている暇が無いとか
答えが出るまでに考える時間がかかるというので、今、答えが無いのはわかる。
でもそれは、違う意見の相手を
抹消する、という、事にはつながらないよなぁ。

意見に対する意見は
意見対意見であって
人対人では、ない、という区別が頭の中にあって
つまり、その意見を持っているその人を消しても
その意見は、究極的には記憶として、自分の頭の中に残る。
人を消しても、考えは残る。
人が消されれば、それによって、余計、強調される。

討論番組とかで
一人の人が話しているとき
さえぎって次の意見を述べる人が出てくる事が多いが
前の意見が、もうだいたい、どんなものか、どういう風に結ぶのかわかっていれば
もう、それはいいので、気にならないが
そうじゃない時は、
ああ・ちょっと待ってよ、と、まぁ、思うし、これって、観てる人の多くが
思うことだと思う。
特に、自分の考えと違うとき
自分の意見と違うのか同じなのかまだ確認できないが
なにか、引っかかるときは
自分が何に引っかかっているのか
確かめたい、はっきり見たいので
最後まで、聞きたかったなぁ、と思う。
さえぎってはじめられた次の意見が
その時点の自分の考えと同じもので賛成できるとしても
やっぱり、
うー、でも、ちょっと待ってくれても良かったのに
と、なんとなくこっそり思う。
ただ、まぁ、自分より頭が良いから
多分、先が見通せてしまって
聞いていることに飽きちゃったのかも、と、思う時もある
これを、いわゆる、あばたもえくぼとか、いう・・・違うか?

でも、このうるせえ、黙れという感情は
知ってる。
つまり、あれが、ここに来たな、というのを理解することはできる。
私が、へたくそな落書きをしてるとき
そばでぐちゃぐちゃ言われると
なんでもいいから、黙れ、と、思う。
あれでしょ?あの感情っぽくない?

こないだ、盗作うんぬんで、騒ぎがあったけど
賞とか名誉とかにこだわるなら
そりゃ、値するとかしないとかで
大事なんか知らないが
描く事自体が好きで描いていたとしたら
その模写しているのが
模写しつつ、なんとなく自分の違いをほのめかしたりしながら
よくわからないが、筆を運ぶこの瞬間が楽しかったなら
かまわないじゃないかと思う。
実際には、模写が楽しい、というのが
まず、あまり理解できないのだが。
それは、理解できないことが特に良いこととしてではない。
事実として。
何かものがあって
それが、きれいだと
きれいだなぁって見ているのが楽しい。
もう、きれいにそこにあるから、
それ以上、こっちで、へたくそなもん描きたいと思わない。
その為に、写生とかデッサンとか
好きになれなくて
ぜんぜんやらないし、
それが、良いと思わない人もいるだろうし
勝手にそう思ってりゃ良いと思う。
私には関係ない。

見て、きれいだなと思ってると
こっちの中に残って
それが分解されて
細かくなって
なにか、吸収される。いらないもんは、排泄される。
で、自分が何か描いているとき
その中に、そのきれいの要素があるといいなぁと思って
というか、
思ってさえいないからなぁ
だから、後で見て
ああ、あれがここにきたのか
と思うときがあって
ちょっと面白い。
桜の花なんか、ああ、私、よっぽど好きだな、と思ったりするし
五角形が、好きみたいだな、と思ったりするし、
で、嫌いなものは、描かない。

こおろぎのお腹とかきらい。
だから描かない。
こおろぎのお腹は
私が描くためにあるわけではないので
私が描かなくても
何も困らない。
問題は無い。
無駄にもならない。
でも、誰か、そこにぴんとくる、好きな人は
描くこともあるだろうし
そのときに、その絵を私が好きになることもあるかもしれない。
その絵はいいなぁと思ってみるけど
でも、絵でそれがよくてそこにあるから
模写はしたいって気にならない。
こおろぎのお腹でも、モナリザでも。
もうあるんだから、いいじゃん。

写生とかだと
嫌いな部分も描かないと、それを描いた、という
まとまりに、ならない。
それっぽくならない。
でも、描きたくないものは描きたくないので
それで、写生は好きではないんだと思う。
好きな部分は覚えておくから
その場で写し描きしなくても別にかまわない。
忘れちゃったんもんは
いらなかったんだよ。

だからね、
模写していることが楽しかった人が
模写した事に、罪を思わない。
でも、何を描いたのか
りんごの絵だったら
「りんご」そのものを描いたのか
「りんごが描かれている絵」を、更にそれを見て描いたのか
何を描いたのか誰かに説明しなきゃいけないなら
まぁ、本当の事を言うのが
本当のことを言った、と、いうことになるだろうなぁ
と、思うが
それが本当だろうとうそだろうと
さして重要と


・・・思わないことを問題とする人は
問題にすればいいし
問題と思わないけど
問題なら
問題でも良いよ
みたいな。
なんか、そういうような。

だから、
絵について、ごちゃごちゃ言われたら
うるせえ、黙れ、と思う。
どうでもいいことだから。
絵とか音楽とか写真とか小説とか演劇とか舞踏とかは
いいと思う人がいいと思えばいいので
本人だけが良いと思っているのだとしても
それでも、本人ひとり良いと思ってれば
そのひとりにとって良い。
そういうことは、別に、どうでも、いいこと。
耳障りならうるさい。
こういうことは、主観がメインで主観に価値がある。
ここをこうしたほうがいいと思うなら
自分で、こうした方のを描いたら良い。それだけ。

・・・そうじゃない人には
そうじゃなくてまたそれはそれで、そうじゃないことにつなげたらいいし
私自身以前は、こう考えてなかったし、この後もまた変わるかもしれない
でも、それで、変わっても、たいしたことじゃないんだよねぇ。
しょせん、個人の主観。
だから、逆に、ひとつしかない
好きになったとき換えもきかない
議論とか意見とかと、違う次元の物事だと思う。
戦闘機のシルエットが、曲線美がたまんない、という人に
反対なんかできないよ。
曲線美になっちゃったら
他人の及ぶ問題じゃない。
戦闘機の曲線美を眺め続けてください。
自分ちで。

でも、議論ってのは
意見がどこに至るか、未来が主でしょ。
意見を作ったり磨いたりして
それが募っていって次の人々の住む状況を作ることでしょ
したら、この場合は
相手の意見
面白くてしょうがない
自分の頭では出せなかった、
出なかった
出る要素の無い意見が
相手の頭の中で
どういう経過をたどって
どうして、それをそこまで正しいと思えるか
その説得力が、相手の中で
どういう風に育ったのか
っていうのは、
興味ある。

うるさい、黙れ
生意気だから黙れ
言う資格が無いから黙れ

というのは、もう、何回も聞いたから
飽きたな。
つまり、自分以外の意見がどうでもいいってことでしょ。
興味ないって事でしょ。
まぁ、じゃあ、いいよ。
だけど、こっちの運命が
そういう自分の意見にしか興味ない人間に握られるようには
握られるためには
動きたいと思わない。
名前一個書く手間も。かけたくない。
そういう人には従いたくないし。
自分の意見にしか興味の無い人は
私だけじゃなくて、本人以外の誰か別の人のことについてだって
興味が無くて
誰か別の人が死んでしまうようなことも
平気でするかもしれない。
(現実として、死んでしまうようなことが平気でなされた事実を
戦争という)
そこに加担したくない。
だから従いたくない。

聞きたいのは
その時点でのある結論があるならば
その結論に至る経過と、
経過の中で、何が一番、濃いか、・・・表現が変だな
どれが一番純粋で、残ったか、ということだと思う。

その点について、それが恥だと自覚していると
その点を隠すだろう。
本人が恥だと思うくらいなら
あまり良いことじゃないんじゃないの
と、とりあえずは判断するかなぁ・・

たとえば
自分がお金を得るためには
この考えをつぶさなくちゃいけないの、
と、思っている人は、
多くの場合、よほど厚顔無恥でもない限り
そのようには、言わない。
自分の、ナマの欲は、本人にとっては強い説得力を持つだろうが
周囲には、納得させるのは難しい。

自分と違う意見の人が死んだらいいとか
いなければいいのに、とか、
思わないよなぁ・・・
どうして、そう思うんだろ?どうしてそう思うんだろ。

弾圧って
どうして、するの?

弾圧をされたら嫌だって言うのは
誰だってわかる。
でも、弾圧をしたいって方の気持ちは
少しむつかしい。

あけたら、自分だけがお金がほしいだけだった
もしくは、自分が立派だとほめられたいだけだった
なんていう、結末は
やめてほしいが
そうなのかなぁ。

そんなことを実行することを
どうやって自分に対して正当化しているんだろう。

domenica, ottobre 08, 2006

アンナ・ポリトコフスカヤさんについて検索していたら
”日本の、安全圏にいて役にもたたねぇことばっかしやっている
平和主義者”が大嫌いな人を
少なくとも2人はみかけた。
役に立つことをできる人にとっては
確かにいらつく存在なのだろう。

彼らのその苛立ちという反応は
これは、甘い誘いではある。
役にもたたねえ、自分でもわけのわからない
感情の無駄に大きい起伏による疲労は
本人にとっても、無いほうが楽である。
自然に素直に自分の興味が向かうこと
調べて知ることが楽しいこと
自分が面白いことだけを考えた方が
ずっと、楽だし楽しいし、精神も安定すると思う。
少なくとも、その意味にとって
本人に、”役に立つ”。

で、それで、いいんかいね?
真剣に、
困窮している人々の為に
自分の人生すべてを賭けている
偽善的でない人々にとって
それが本当に
人生のすべてを賭けてまで
得たい結果であるなら
困窮している人々にとっての
困窮をせめて軽減したい、良い結末に届きたい
というのが、本当の目的なんだとしたら
役にたたねぇ惰弱なおばかさんたちが
知ることも考えることも
放棄して
楽に暮らすことのほうが
本当に、自分のやっている行動の、その目的にとって
望ましいんだろうか。

結論は、今、私には、本気で
出ていないんですが。
そうかも、と思ったり
でもわだかまる

地獄の中にある人々の悲惨な状況を目の当たりにして
それが放置され、世界中の人の無関心の中で
どんどんどんどん進んでいくことを
怒りに震えるほどに思って動いている人たちが
命がけで入手して発する情報を
「役に立つことができる状況にありませんから
悲しいものは知らないほうがいいですから
お互いの為にね、」
という理由で
たくさんの役立たずの”おばかさん”が
選択して完全に遮断することが
情報の発信者から
望まれている事なんだろうか?

変なの。

普通一般の惰弱で
自分が生きることもおぼつかないだらしない人間は
そりゃ、脅しに屈するし
屈するしかないだろう。
脅しが実行されると
脅しに屈しないだけの、脅しに対する対効力が無い人間は
抹消されるわけで、抹消されて
居なくなったほうがいいのかもしれないが
それは、脅かしに屈しない、行動力と
行動できる環境を兼ね備えた人達の
立場からの価値判断なんじゃないか?
自分の目指す理想のように動けない他者は
居なくてかまわない

したら、自分たちの望まない行動をする人たちを
死んだほうがいいと思って
暗殺する人たちと
変わらないじゃないか。

役にもたたねぇ
その他大勢の人たちが
もし
普通に一般常識として
よそで何が起きているか理解していたら
今みたいなことにはなっていないんじゃないか?
安全圏にある惰弱な平和主義者たちが
平和でない場所で何が起きているのか、意識の隅においていることは
知っているということは
大事なんじゃないか?
いつか、他の場所で起きている不幸が
いつまでたっても、意識の隅で続いていることに
我慢できなくなるかもしれないじゃないか。

だから、知られることが
妨げられるんでしょ?

誰かに動けるだけの条件がそろったとき
条件がそろったことを自覚していても
何が起きているか知らなかったら
その動く方向は、違うことに向かうんじゃないか?
実際そういうわけで、
元気あふれる人たちが
自分の楽しい事を楽しくやっている結果が
今現在の、世界なのでは、ないんかな。

もやしみたいにふにゃふにゃした平和主義者が
折っても折ってもキリ無くたくさん居る方が
鋼鉄みたいに意志の強い攻撃的な人がたくさん居るより
少なくとも、流される血は少ないと思う。

ふにゃふにゃしていても
役に立たなくても
平和主義者である以上
平和主義者である事をやめないなら
少なくとも他人の血は流さないだろうと思う。

問題は
平和主義者ってのが
その場3分の平和の為に
平和主義者であることを
放棄する場合だと思う。
何も脅しとか無くても
「そうだよね」と言ってその場の空気を和やかにするために
相手を喜ばすために
「役に立たない平和運動なんかやめちまえ」
「そうだよね」
「相手が言葉が通じないんだから、武力に訴えてでも
通じさせるしかないだろう」
「そうだよね」
「愛する人の為に、命を捨てることこそが、
勇気だろう」
「そうだよね」
「馬鹿が多いから、こんななっちゃうんだから
馬鹿はみんななんとかしないといけない」
「そうだよね」
「調教するか廃絶しなければいけない」
「そうだよね」

この、そうだよね、が、いっちゃん怖いんじゃないか。
で、屈託無く
そうだよね、と言う為には
知らない、考えない
っていうのが、一番、役に立つんだよ。
安全圏にある人達が
英雄好きで、暴力的な勇敢さに憧れている状況が
現場の、戦闘する人たちを祀り上げると思う。

                         (余談。個人的には主義者という言葉は嫌い)

それを望んでいるわけなのか?

相手との争いが目的ではなく
でも、自分が自分であるために
自分が疑問に思う内容に対して
「そうかなぁ?」
と、言える程度のもやしになら
その他大勢がなれる可能性は、まだ、高い気がする。

そこいらじゅうの人がみんな
役に立つ取材者たちのように
戦闘地域に行くようになったら
行けるような条件を兼ね備えた人ばかりになったら
条件を兼ね備えることが、義務となる世の中になったら
それって、
・・・

それは、戦時中、と、あんまり変わんない。

役に立たないことは
止めたほうがましという誘いはものすごく魅力的で甘いのだけれども

むちゃむちゃ美味しそうだけど

つまり、どうにも、乗れない。
意味とか役立つとかを”正”として考え出したら
生きていては、いけない、というところに
たどり着いてしまう





”私”は、
周囲や
インターネット上に公開されている
他人の言葉の中の意見や気持ちに、
反応しすぎている。
あまりにも、過剰だと思う。

ラマダン

自分はイスラム教徒ではないが
世界の、貧しい人々の苦しみを共有する
というのどっかで読んで
宗教の教えとして従っているとはいえ、すごいなぁ、と思った。
そういう理由で、断食をせよ
とされたときに
納得して良いことだと思って断食するところが、すごい。
夜食べるから、結構なんとかなるんじゃないの、みたいな話を
いつだったか誰かが言っているのを聞いたが
宗教と関係なく、
いっぺん、やってみたらいいと思う。
頭で考えるのと、ぜんぜん違うから。

私の場合、たまにであれば
水以外のものを断つことは、
現在だと、
13時間目までは、気にならないが
そこでお腹が減ってくる。
その場の事情で、なんとかできなかったりすると
あとは時間を増すごとに
だんだん物事がごちゃごちゃになってくる。
水は、もっと短時間で無理になる。
高校生くらいのときは
もすこし長いこと我慢できたけど
最近は、だめですわ。

月っていうからには、一ヶ月くらい続くんだろうが
一ヶ月、昼間、水も飲めず唾液も飲めず
ふ・・・わぁ・・・

こういう事を毎年繰り返して
毎年、自分以外の、飢えている人の感覚に思いをはせるような人々を
今みたいな目に合わすのは
だめだと思うんですよねぇ。
しかも、個人の保身のためだったりするのかもと思うと

宗教だけで、人間って、・・どうなんだろう。
狂信者、というものは存在するが
すべての人が狂信者になる可能性を備えているかというと
そうではない、と、思う。
宗教に定められていても
信者であっても
納得できないことは、しない人もいると思う。
とくに、イスラム教くらい大きければ。
で、断食は、納得して、行うわけだ。
日本に生まれ育っていると
信者じゃなくても、仏教のお寺とか身近だし
よく考えてみれば、断食はイスラムの専売でもない
日本の風土って、こういう色、強い気がする。
それが良いか悪いかはよくわからないが
両面あると思うが
こういう感覚ってのは
結構身近で理解しやすかったんじゃないだろうか。
他人の貧しさや不幸を、自らで思い知ってみる事の意味とか。
そういう風習や考えを持つ相手に対する
尊重?敬意?うまい言葉が出てこない


改めて思い出すわけだが
よく、空爆に賛同できてしまったものだ。



他人の苦しみを共感する云々だけじゃなくてもさ、
・・・あと30分で解禁、
水ー!!!
というときに
殺されてごらん。
どんな宗教の信者であれ
みんながみんな悟りきったりしてないから。

生の身であれば
恨みは倍じゃすまないと思うなぁ


と同時に、

宗教でもなんでもなく
夜も昼も無く
ただ、経済的な理由から
何日も、
いつが終わりとも予想もつかず
なんにも食べられない人が
日本に結構増えてきてるらしいと聞くと
この国って、どうなっているんだろうと。
彼らの苦しみを、遠い戦場の人が共有していて
地理的な隣人は、「自業自得」と心の中で切り捨てている。

信念とかじゃなく、なりゆきとして
食べられないという状況がしばらく続くと
どうやって手に入れたらいいかとか
考えなくなってきちゃうんだよねぇ。
どうでもいいかぁ、って。
いつでも死んだらぁ、っていうような

空腹も何も感じなくなると
なにもかも美しく見えてくるが
そういう美しさも
美しさのひとつだが

美しいってのは
政治家の仕事じゃない。と、思う。

メモ

チェチェン紛争問題でプーチン政権の弾圧策を批判してきた著名な女性記者、
アンナ・ポリトコフスカヤさんが7日、
モスクワ市内の自宅アパートで射殺体となって見つかった。

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061008k0000m030123000c.html