venerdì, agosto 24, 2007

夏ばて選挙

埼玉県は今や、なんとなく、日本一暑い。
しかも、海が無いし盆地だし
湿気がこもっちゃって
災害は少ないんだけどねぇ・・
蒸し暑い。

かげろうもんもんもんもんもんもんもんもん

日本一蒸しあがっちゃっているわけで

物事を考えていても
どこまで考えたんだったか
忘れちゃうくらいかもしれない。
なにしろ
すごい暑かった日は40度だかんね。
熊谷駅前42度ってニュースで言ってたような気がするかんね。
それがこのごろ時たまひゅっと涼しい日が入るもので
緊張感がバランスを崩して
疲れが噴出 
煮沸して冷ましてふやかした状態かもしれない

そんな時
知事選挙。
現知事さんは、
再出馬はしないって
前の選挙のとき
おっしゃってたんだが
今回出馬なすっている。
でも、埼玉は今とても疲れているので

憲法は変えたがっていることや
教科書のことや
ま、ほとんどの人はいろいろ忘れちゃってるだろうな。
ってことは


図書館が・・資料館が・・美術館が博物館が・・・・
(現知事さんは公的機関の民間経営委託方針を表明していた)

ぷしゅるしゅる
気絶

ーーー覚めて後追記

埼玉県民の多数派の人々が、
普通に冷静によく考えて
現知事さんの方針やら考えを
支持しているというのが
現実であるのかもしれないけれど
そうなのだろうけど

そのように考えるのは
悲しいのだもの。むしょうに、虚しくなるのだもの。
くだものが、美味しい季節だもの(最後の一行ただのだじゃれ)

mercoledì, agosto 15, 2007

終戦記念日

もっと早く終わればよかったのにね
なにより、始まらなければ良かったんだよ。

気温とかで四季を比較すると、
一番キツイ時期で比べると
どうやら夏が一番好きみたい。
なにか突き抜けるでしょう。
暑すぎると
頭が動かなくて
ぶおっとして
なんかこう、真っ白に燃え尽きました
っていう虚脱感になる。
これは、何かに似てるなぁって言うと
飲み過ぎ だ。
なんか、へらへらしてるし
冬とか春とか秋とかの辛さに比べりゃ
冬はねぇ
今から冬が怖い。
冬は嫌いだ。

が、
それは、
真夜中に空襲警報で叩き起こされて
防空壕に避難しなければならないという緊張が
毎晩続いたり
のどが渇いても、すぐ水分が飲めるとは限らなかったり
何か少しでもうっかりしたら
口が滑ったりとか
つい誰かに邪険にしてしまったりとか
何か落としたり無くしたりとかしたら
それがものすごくひどい目にあうことに直結しかねない
ぴりぴりしたいらいらした毎日だったり
いつ家が燃えるかわからなかったり
いつ家族が死にに征くかわからなかったり
いつ拷問されるかわからなかったり

しーなーけーれーばーの 話。
ぼやーっとしてて
やることなすこと全て間が抜けてて
うっかりし続けたままへらへらしてても
まぁなんとか過ごすことは
できそうな状況の中での 話。
この暑さの中で
緊張を強いられ続けていたら
それは、ぎりぎりに張りつめた
ぶちきれる寸前。

明日からは空襲におびえなくて良いという
ぽかっとした感じは
すごかったと思う。
明日からは自分でずーっといつまでも
生きていかなければならない
失われたもの欠けたものの虚しさを抱えたまま
そのつき放たれた感じはすごかったと思う。
開放と絶望

嫌だね。
絶対現実に味わいたくないね。
戦争は嫌だね。
始まったら
始まる前の予兆から
もう、ずーっと嫌だね。

嫌だ って
こんだけ、嫌なことが
なんで始まるかって言えば
やっぱ
その立場に無い人が
はじめるからだろ。
うん。
それっきゃないだろ。

で、誰も止めないからだろ。
もしくは力及ばず・・・

嫌だね
そんな力の及ばなさを痛感するなんて
実感はしたくないね
なんとかならんか
こんどこそ

にほんじんがんばれ

・・・。

イラクの人ごめんなさい
アフガニスタンの人ごめんなさい
北朝鮮の貧乏な人ごめんなさい
世界中の戦地只中の人ごめんなさい

giovedì, agosto 09, 2007

長崎原爆忌

11時2分 長崎原爆投下

黙祷


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B

申し訳が無い
ごめんなさい。
なんで、まだ核兵器があるの

怒っていると思う

まだ世界中で
戦争が止まらなくて
敵意によって放射される放射能を受けている人が
今も今この瞬間も増えている。

繰り返されている。

どうでもいいこと

朝青龍さん、気の毒だな。

まったくもって、なんでこんなことに?

もし万が一たとえ仮病だったんだとしても(あんまりそうは思えない)
本来お相撲が好きで、相撲取りになった人が
仮病使いたくなるのだとしたら
したら
大人たちなら
なんか察するべきなんじゃないかと思う。
好きで選んだ仕事の晴れ舞台の場所を休みたいと思うなら
その理由があるでしょうよ。
それに、チャリティのサッカーで休むわけにいかなくて
もしかしたら、
痛みとかあっても顔に出さず、
隠してたかもしれないじゃない。
モンゴルの騎馬の血筋の人(なの?よくしらないけど)なら
怪我をしてても
それを無理する場合ってのが
けっこうすごい無理をするのかも
しれないじゃない。
若いし。

っていうか、
仕事に出るかどうか決めるのは
本人だと思う。
そのへんの町の人が
ぐちゃぐちゃ言うすじあいは
あんましないような気がする。

休んで損するのは本人だし
損よりももっと何かあるのかもしれないし

ほんと
実際
本人以外にとっては
かなりどうでもいい話だ。
こんだけいじめっぽくなってさえなきゃ。

なんか、ごめんねって思う。
世知辛いときで。
多分時期が違えば
日本人ももっと鷹揚で懐が深い頃も
あるんじゃないかと
思うんだけど。
今、すさんでる、どこも。
時期が悪かったね。

・・こんなこと書いたり考えてる暇があったら・・・
なーんか あるんですよいろいろ
ほんとやだ

lunedì, agosto 06, 2007

広島原爆忌

余談

慰安婦にされた方々についての事を
「だって、許せないでしょ。
だって、そんな目にあったら
許せることじゃないでしょ」
と、いいつのっている夢を見た。
許せない  ようだ。
そのような目にあわされた方々を
そのような目にあわせた事、
もしくは、結局、そのような目にあわせた人々が。
自分じゃなくても。

よく、
「孫に
そんなひどい事をしたじいちゃん嫌いとか言わせて
何が楽しい」みたいな話を読んだりするわけです。
そうかぁと思って頭の中で
理屈で
いろいろ考えて、考えて考えすぎて煮詰まって焦げちゃいましたけど

でも、
私自身は責める立場に無いわけですが

やっぱり
状況がどうあれ


孫は、じいちゃんを自分の祖父と思えば余計
自分の祖父の罪を受け継いでいく身としては
一言くらい言うかも。
言われる辛さより
被害を受けその記憶に苛まれる人生を送らざるを得ない運命を
背負わされた人間の方が
その事を考えたら

例えば、感情の起伏、思考のしかた、体質や性格を
受け継いでいく孫には
その時、嫌いと言われた事は
それをきっかけに、なぜ、そんな事になったのか
どういう中で、どういういきさつで、それができてしまったのか
いったい、その頃何があったのか
話して聞かせる必要があるかもしれない。
そのように歴史を引き継ぐ勇気を示すことで
そのときは無理でも
孫が大人になったとき
嫌い、と、思い続けるかどうかわかんない。

誇りってさ
なによ?

実際のところ、おじいちゃんやおばあちゃんに
嫌いと言う、って、なんか、ちょっと、
びっくりするんだけどね。
まず、そこんとこが
なんかもう違うから
なんかもう、わかんね。

なんで私は考え続けてしまうんだろう。
別に、それが正しいからじゃない。
怖いからだと思う。
怖いからこそ
繰り返されたら嫌だから
繰り返されないにはどうしたらいいのか
考えてしまうんだろうと思う。
無意識に。

世界が平和になりますようにって
優等生的にとか
模範的な
良い子っぽいからとか


そういうことじゃなくて
子供のときから
顔ひきつらせて
真剣に怯えながら
心から
願ってたなぁ・・・
・・しかも毎日

私 変?
そんなんって
やっぱ 変なん?

したら変って
変って、どういうことなんだろ。
(もしそれが変なのなら
変は必要かもしれない)


被害を受けた人が許せないことよりも
許せないような事を
した事の方が
やっぱり
重いんじゃないか。
しかたなくないんじゃないかね。

これを落とすと、こんなことが起きるな、とわかってて
それを落とすこととか
それを落とすことを命令(強要)することとか

これを渡すと、こんなことが起きるな、とわかってて
これを渡すこととか

(人が人の上にも下にもありえない以上
人が人に命令する事なんか
できないと思って
2つの力の方向があって
依頼か強要。

なんかさ、
人が自分の思い通りになること
そのこと自体が好きで
その内容は何であれ、実は本人にとってすら重要ではなく
とにかく、ただひたすら
他人を自分の思い通りに動かす、
動かせるって実感したい、それだけを目的に
人に
強要する人が
いるんだよなぁ
面倒だよなぁ