martedì, agosto 29, 2006

他人の不幸

”先進国”は、イラクに何をしたんだろう。
イラクに限った事じゃないのだろうが。

「彼等の自由の為に!」
少しづつ作り出してきていた自由を
ぶっつぶしてしまいました。

何がしたいんだろう。(いや、首謀者はお金か権力か
なんかでっかいことやりたい、という、あいまいな名誉欲なんだろうと
思うけども
そこに付き従わない事もできるのに
何のいいことも無く
悪いことばっかりなのに
付き従っちゃう、人の集団としての”国”って
何がしたいんだろう)

あれかな、
蹴落とす、って事かな。
日常の個人同士と同じく。

いつも自分たちがやっていることの
とてもとても拡大したものなのだから
嘘も、わかりそうなものだ。
「彼らの為を思って」
「あなたの為を思って」
んなわけない。

加害者が、加害者自身の為に、やっている事だよな。
傍観者が、傍観者自身の為に、傍観している事だよな。

嘘だとわかったうえで、目をつぶっているんでした。
他人の不幸が拡大するのをみて
自分じゃなくて良かったと思う愉しみのために。
どっかでは、わかっているんじゃないか?

「今の苦しみは、彼らの未来の為だ。
そのようにして、”近代化”するのだ。
犠牲の上に、新しい未来が。」
犠牲で、失なわれたものは、
もう、無くなったものだから、
その未来は、無いんだが。
自分達が、無くなったわけでも、犠牲になったわけでもないのに
「我々も、被害者になったことがある
我々も歩んできた道である」
正当化して開き直って、
気にしない。

ほんとに、気にならないのかな、気になるのを振り切っているんじゃないかな


自分達の不幸は、”あれに比べれば”些細なことで
自分達の幸せに、感謝して
精神安定して、健康で明るい生活で・・・
なんか、すごーく不健康だっ
本気でそう、思えるものかな

それぞれの、神経を殺している、と思う。
恥ずかしいことだ、情けないことだ
悲しいことだ、愚かな事だ
と、気がつくための、神経を殺している。
神経が死んでいっていることに気がつかないまま
神経を殺すことに慣れると

自分が失いたくない神経まで
いつか、死んでいって
しまう、かもしれない。
楽しいとか、嬉しいという感情も
なくなって
なんだか、つまらない、なぁ、とぼんやりと思いつつ
ニュースを観ながら

ま、あれよりは、ましだよねとか言っているうちに
また、神経が死んでいって
危険だとか、限界だとか察知する感覚も薄れて

なんだか、ぱっとしないなぁつって
ぱっとするために
ぱっとすることが、だんだんえげつなくなっていって
にっちもさっちもいかない事態に陥ったら
急に、
自分らだって
大変なんだよっ
みたいな、また、別な開き直りに
なっちゃったり
するのよね。
うちらだって、戦争だよ、とか
なっちゃったりするのよね。

なんつうか、
自省もこめつつ。

余談ですが、
アレルギーに
かぼちゃとゴマが、少し、効く、ような気がする。
(おいっ↑)


・・・・・・荒れてるなぁ・・・

giovedì, agosto 10, 2006

耐苦

多分、生物としてのヒトは、とても許容量があって
かなりのことに対し、慣れてしまったり耐えてしまうことが
できる、もしくは、できるようになっていくことができる。
でも、許容できるようになって良い事と、良くない事が
あると思う。
良くないことの最もたる事が
そこいら中に、遺体が転がっている事や
自分の身内が、どんどん殺されることや
他人から、悪意によって傷つけられることだと思う。
怒っても悲しんでも苦しんでも、どうにもならないと
ヒトは、耐えてしまうようになるけれど
そうすると、それは、いつまでも続く。
人類初の核兵器投下から61年たった今年も
戦争が、起きていて、みだりにたくさんの人が殺されていて
世界中で、たくさんの人が、その事実を知らされることに
慣れてしまっている。
それを知る事に、耐性ができてしまって
記憶に残すことさえ、しなかったりする。

だから、戦争は、ずーーーっと続くんだなぁ・・

ただし、人間は、どんな人間であっても
本当に完全に死亡することは
一回しかできない。
仮死は繰り返すことができるかもしれないが
全部、死ぬ事は、一回だけであって
だから、慣れる事はできない。
それが、自然の寿命であれば
なだらかに、細くなっていて、無くなるだろうけれど
本来の寿命じゃないと、まだ、勢いのある時だと
逆らいがあるので、方向のぶつかりがあって
要するに、とっても苦しいと思う。
たとえ、それが、あっという間の一瞬の
真っ白の閃光であっても
その瞬間、本来の生物的な寿命では、死ぬはずじゃなかった人は
きっとものすごく暑くて痛くて、その一瞬が、急にものすごく長くて
いつまでも終わらないくらい、耐え難い感じで
耐え難かったので、結果亡くなったのではないかと思う。

そういう亡くなり方をする人々がたくさん居る状況の中で、
運や何かそういう事で
かろうじて生き残った人が、いかにその状況に慣れてしまったとしても、
慣れる前には、慣れていない時があって
その時のショックは、記憶に残る。
それを、どうにかしたいという気持ちは残る。
それは、いろいろな形で出ると思う。

その事は、本人じゃないと、それは、体感的に理解はできないだろうけれど
だからって、そういう事実があるという事に、慣れてしまうのは、
ある種の、だから、罪だよなぁ、という気がする。

つまり、
今、イラクやレバノンや、
世界中の戦地で、
耐えてはいけないこと、慣らされてはいけない事が起きている事に
耐性をつけてしまっている人達が居るという事は
今後、世界貿易センタービルで起きたような事が
再び繰り返された場合
その時は、別にどこぞの誰かが意図し命令したものじゃなかったとしても
実行犯と共に
前回、意図した、どこぞの誰かの、罪でもある。
遺体がたくさん転がっていることに対して
「それが、何か?」
と思ってしまう人間を
作った罪というのが、あるだろうと思う。
つまり
今、世界中の、家庭の中、町の中、組織の中、学校の中で
耐えてはいけない事、慣れてはいけない事に
慣らされてしまっている人達が居るということは
今後、それが繰り返された時には
更に、ひどい事件として、発露したときには
その時は、直接関与していない
誰かにも罪がある。

という事を、常に、意識の中に、置いておきたいと思う。

だからといって、
手を下した、慣れてしまった人間が
免罪されるというわけではない、と思うけど。
どんな場合でも、実行する、と、しない、とを、
考えて、選ぶことができるのが
人間だけが与えられた、人間の価値であると
思うから。
他者を苦しめる事だとわかっている時に、
実行しないことも、できるのが、人間の価値である。と、思う。
他者を苦しめることであるかどうか
実行する前に、想像する事ができるのが
人間の価値であると、思う。


61年間
苦しみに耐えることに、慣れてしまわずに
悲しむことも苦しむことも怒ることも、放棄せず
暴力や、復讐という形ではなく
過ちを繰り返してはいけない、
自分たちの受けさせられた苦しみは
他の人間に対して、繰り返されてはならない事だと
発信することを、止めないで、続けてきた人々の
その想像を絶する努力が
報われてほしいと、報われないと話になんない、と思う。
戦争は、もういいかげん、止めたほうが良いと思う。


前世占いとかいうのがあってさ、
去年、遊びでやってたらさ
(今探したら、もう、その占いは無かったみたいだった)
何回やっても
特攻兵とかって、出ちゃったりしたんですよ。
なぜだかは、よくわからない。
しかし、
前世が特攻兵と出てしまうワタクシとしては
(というか、それはただ話の接ぎ穂だけど)
お参りよりも
特攻兵のような、健気で刹那的な最期を
本来なら寿命はまだ先の人間が
強要されるような事は、
二度と、無いようにしてほしい。
日本だけじゃなく、世界中のどこであっても
そういう人が一人でも少なくなるように、試みてほしい。
”ココロの問題内”だけではなくて
そういう事のできる、もしくは試みるだけの権力を持つ立場にあるのであれば

だからさ、
日本って、そんなに、国際的な場所で
何も言えないの?
何か言っても、絶対、聞いてもらえない?
武力を持つことだけが、発言権を得ることなの?
そんなん、変。
武力で物事を解決するのは、やめましょうという意見を
武力を持たないと、言えないと言うのは
とても、変。

被爆地で、被爆者の方々の前で
ただ、意地っ張りの意地を、張り通す事は、
なんのためらいも無く
できるのにねぇ。

水がないと、身体の中を流れている動いているすべての液体が濃くなるので
人間のあらゆる感情は、それぞれ強くなると思う。
水を飲める環境にある私たちが、考えるよりも
暑い国で、徒に苦しめられている人達の苦しみは
多分、かなり濃い。

どうすりゃ、いいんだ。