martedì, novembre 29, 2005

シュールリアリズム

このような場合に「経済的である事を追求するのが悪いのか。
それでは、不経済で高いモノを作るようにしろというのか」
という理論展開をする方は、「誠意」という感覚が
欠如しているのであろうし、
そういう人から高額の物件を購入してしまったのは、
運が悪かったな、という気がする。

これを機会に、借金(=ローン)で物を購入するという事に
もう少し慎重になった方が、良いのではないかと思う。
もし、現在あるお金で、現在あるものを購入するという形であれば
不良品なので返品する。支払ったお金は返してもらう。
という事で、話は終わったはず。
このような場合でなくても
人は、いつ何があるかわからないから
事故や病気(三大成人病以外でも)、職場の倒産など
今払える金額が払えなくなるという可能性は、
誰であってもありうることなのに
普通に、高額のものを借金で購入する事が習慣化していることに
以前から違和感を感じている。
今、購入できるだけの金額を持っていないのなら
借りてしまって返せるかどうかは、確実ではない。
余程の事でもない限り、そんな簡単に
借金で自分の生活を縛ってしまうというのはどうなんだろうと
いつも思う。
それで、職を失う事ができなくなり
物を考えて主張する事も、職場で不利になるからできなくなる。
死ぬまで忙しい毎日で、自分で自分を拘束し
わざわざ、利息で総額が高くなる
もっと安く買えるはずのものを高くして購入する。
お金がどうしても必要な時は
質屋さんで、人間以外の物、自由とか時間以外のものを
担保にして借りるのが、後々最悪にならないんでないかと思う。

なんにせよ、
何千万円ものお金を、将来的にだとしても
稼いで払う自信のあった人に対して公的資金で保証するのであれば
広島長崎の被爆者への補償や
慰安婦とされた方々への補償
台湾や、韓国の元ハンセン病の患者の方々への補償が
優先されて欲しいとか
何千万円もする買い物を決断できるだけの
能力や将来性のある人々へ、買い物の失敗のつけを肩代わりしてあげる為に、
障害者や高齢者、生活保護を必要としている方々の
今でさえ充分には程遠い、くもの糸のような支えを
むしりとるような事となってしまったら、
嫌だな、と思う。
鬼かもしれないが
買い物の失敗取引の失敗が
全て補償されるようであれば
破産して首をくくる中小企業経営者なんか居なくてすむんだる。
居なくてすむようになれば、とても良いと思うが。本気で。
そのような所まで追い詰められた場合の
国からの支援という仕組みが
あるのであれば、その部分まできてしまった場合に
今回の住居者も、救われる形になるだろうと思う。

子供が泣くと怒っている住居者を見て
とても気の毒だと思ったが
この人、今までここまで怒ったこと無いだろうな、とも思った。
戦地で泣いている子供を見ても
被災地で泣いている子供を見ても。
怒る事のできる人達だったんだな、と思って。
なんとなくね。

私は、問題の解決としては
問題に関与して、不手際で誠意の無い事をした人々
設計事務所の人も審査する人も、小嶋社長も
個人的財産も全て清算した上で
会社も倒産するまでは
その範囲で、支払われた金額に対する補償をし
それ以上の金額に関しては
金融機関に諦めていただくのが良いと思う。
つまり、住宅ローンの借主を、現在の住居者購入者から
ヒューザーをはじめとする加害側へ名義変換し
(そういう事ができるのかどうか知らないが)
それで払えなかった分は
もともとの、人にお金を貸すことで利潤を得ている事の
リスクとして当然想定内の事として覚悟があるだろう
金融機関の損とするのが、適当と思う。

正直、あまり興味ないです。この話。
皆様の大好きな小泉首相が
声を枯らして叫ぶ「官から民へ」の
当然予想されてた結果が、表出したのだる。
この場合は、審査機関が官から民へ移ったことで
審査する側が審査される側から気に入られるように
市場の競争原理の中で切磋琢磨するようになったんだね。
地震が起きて死傷者が出る前に
欠陥がわかってよかったじゃないか。
と、思っている。
本来なら一人も死傷者が出ないですんだはずが
一人、出てしまった事に
心痛を覚えている。
生きてたって死んだって、
取引先に迷惑がかかるときは、同じように迷惑はかかるよなぁ・・
でも、みんなしてきゃんきゃん吠え付くから
パニックを起こして冷静な判断ができなくなったんだろうと思う。
何十年も生きてきた人が
たったひとりで死に直面していた瞬間の
吹き付けた風の冷たさを想う。

もひとつ思ったのは
このように、崩れるマンションを作る事を
誰も止めようとしなくなった国だから
脳病牛のお肉が混入しているかもしれない
牛肉輸入が再開されれば
商品のシール貼り替え
偽表示は
間違いなく、起きるね、という事で。
毎日が、ロシアンルーレットですよ。
資本至上主義社会、ふー

lunedì, novembre 28, 2005

必要性

戦争の罪は
人間が犯しうる最大の罪である戦争を始めようと決断した罪は
裁かれるべきだと思う。どうしても。
例えば一人の、もしくは数十人数百人の人間に
その責任は、もはや到底、果たしきれるものではない。
今まで繰り返された戦争と同じように。
繰り返すというよりも
毎回、その前よりもひどくなっている。
(本当に、人間は、馬鹿だと思う)

一瞬で、何万人もの人間が同時に被害にあうのと
一人一人順番に、同じ目にあうのと
どっちが、ひどいか、考えたら。
骨まで燃え尽きて、跡形も残らない。
そんな事が60年前にもあったね。
次が自分かもしれないと思いながら
被害状況を見せつけられて
順番を待たされるというのは
結果が同じだった場合

どうなのよ。
時々、頭が、止まるんですよ。
耳鳴りと頭痛

問題は、罪人たちを苦しめる為ではなくて
これは、罪だと、定義する必要がある事だと思う。
苦しめて、その罪に値するだけの、苦しみは
個人には与えきれない。個人が耐えられるような程度の重さの罪じゃない。
だけど、もう、本当にうんざりだ。
なぜいつまでも止めないのか。
いつまでも、理由さえあればという事で、
戦争というものが、正当化され続けてきたから。
戦争で旨みを得る一部の人間の為に。
理由は、いつでも、でっちあげられてきたじゃないか。
(この件に関しては
ちょっと間違っているのはギリアムさんの方じゃないと思うなぁ )

今回のイラク攻撃も
なんだかんだ理由をつけた。
決定的に痛い思いを経験している日本までが
というよりも、そんな日本が、まず真っ先に積極的に
説得され納得し、いまだに支持と支援を続けている。
騙されたのだとしても
子分である事を強要されているのだとしても
日本は日本の判断をしてもよかったじゃないか。
それこそ、国際社会における地位の確保というものじゃないか。
アメリカの武力による攻撃という決断は、まぎれもなく、最悪の罪だ。
罪と定義されなくちゃいけない。
その為に、今すぐにでも
アメリカの大統領を
アメリカの元国防長官を
その他の
アメリカだけじゃなく世界中の
戦争が始まる時、賛同の意を表した
権力者や多くの人に影響力を与えるだけの発言力を持っていた人間全てを
裁かなければいけないと思う。

一生の汚点だ、などと、謝るだけですむと思うな。
何もできないけど
一生許さない。

追い詰めても、自分たちは、リスクを負わない人間に対しては
日本人多数派の人々も、報道も、徹底的に追い詰める。
自殺するまで。
だけど、
人間ができうる、一番ひどい事をした人間に対しては
本当に、一番、責任を問い詰めるべき人間に関しては
何故か常に、VIP対応で
セキュリティ万全で
歓迎。
特別あつらえの貴賓室にてもてなして
その人が地球環境の破壊を先導している為に
あと何十年見られるものかわからない
紅のくすんだ紅葉を見せて
びゅーてふるわんだふる
悪い冗談にも程がある。

亡くなってから
神として祀れば
生きている人間に
何をしても許されると
思われている。

二度と語らない存在であるのをいいことに
死者を利用する。

天国があるのかどうかわからないが
地獄は必要だと思う。
地獄がないと
行き場の無い人々の為に。
地獄がないと
完結しない。



トカトントン


環境破壊って言えば
レジ袋、また話が出てるのね。
同じ減らすなら
捨てる為だけに有料で買わされるゴミ袋を廃止すればいいじゃないか。
同じエコロマスターだか添加の
レジ袋でゴミ捨てさせてよ。
レジ袋より
アメだのガムだのを
あの、やたら丈夫でしっかりしたプラスチック容器に入れて売るのを
やめたらどうか。
ガムだのアメだのは
ガムだのアメだのを食べたくて買うので
容器のデザインで買うような消費者は・・・
いそうだなぁ

なんでもかんでも
人が真面目に考えている事を
自分たちの儲けに利用する。
利用だから、本来の目的の達成は
いまいちぱっとしない。
工場からダイオキシン垂れ流しながら
ばあさんたちの落ち葉焚き禁止して
その効果はどんなもんすかね。
結局
人が真面目に考えていることが
きれい事に転化されてしまうんで。
本当はお金儲けの為なのに
環境の為、って言ってる事になってしまうんで。
そんなのは、あの人たちだけなんだのに。

ああ、つまらん

domenica, novembre 27, 2005

慟哭のような

25日に
BaghdadBurning 更新

いつまで続くんだろう。


何百年も、ずっと昔から、たくさんの思想家や哲学者が
いかに正しくあるべきか、いかに善く生きるかを問い続けてきた。
暴力で、物事を解決しようとするのはいけない、
武力で問題は解決しないと、考えてきた。
傷つけ殺しあう事は、憎悪や怒り、悲しみや恨みを連鎖させ
争いは戦争によって解決をする事はできないと、綴ってきた。
数えきれないほど多くの、卓越した頭脳を授かった人々が
一生をかけて考え続け、
人間は言葉をもち意思の疎通をはかり、お互いに受け入れあい
共生する事のできると、願い信じ続けてきた。
一部分に対して持つ恨みを種族や国籍に拡大して考え
お互いを差別し迫害する事は、悲惨で残虐な人間性を欠いた出来事しか生まないと
そのような事がなくなれば、全ての人が、安心できる。
お互いを尊重しあえる、共に暮らせるようになると考え
その為にまず、ひとりひとりの個人が
暴力を拒否し、服従を拒否しようと、勇気を持ち、武器を捨てようと
訴えてきた。
世界中で、たくさんの個人が、その考えに共鳴し
世界中のあらゆる所に点在する人々が、その想いを胸に決意し
周囲にも説き続けてきた。
世界中のあらゆる所で、あらゆる人が、そう考えている。
イラクでも、この戦争が起きる前から、イラク国民が居て
民族間宗教観に軋轢はあっても、個人として、
クルドの人々を差別するべきではないと主張したり、
権利を制限されている人にも、人権はあり平等に扱われるべきで
みんな友達として生きることができたらどんなにいいかと思ってきただろうし
表現してきただろうと思う。
イラクが攻撃をされ始めた時も、イラクに生まれイラクに住む人は
攻撃を始めたアメリカ兵を、驚きの思いで眺め、話せばわかるはずだと信じ
土地の気候に慣れない若い彼等に対し、同情を覚え
穏やかに帰ってさえくれれば、憎しみを持続させはしないと、綴っていた。
いかに、善くあれるか。いかに誠実にあれるか。いかに正しくあれるか、
私達は、彼等は、自分たちが人としてどうあるべきなのか、それを求め続けてきた。

戦場で無い場所に住む私達は、
非武装である事、対話による問題の解決を望む。
その思想の一端を、それぞれに担っている。
それぞれ各々に担われる事によって、この考え方は、滅することなく息づき続けている。
だから、イラクに居る、この考え方を持つ人も
滅びない息づき続けるこの考えを信じて、この考え方に従い
武器を持たず、寛容を訴え続けている。

頑是無い子供の頃から知っている近所の少年が
今まで、耐えに耐え、ひたすら自制を続け、武装集団に加わらず
何よりも、とにかく家族を守る為に家族と共に居続けてきた子供が
目の前で弟を殺されたり、母親や姉妹を米軍に連行されたりして
とうとう武器を持ち、家を飛び出す。
今まで、彼に対し
「気持ちはわかるが、耐えなければならない。
君が、居なくなってしまったら誰が君の家族を守るのか」と
説得を続けてきた人が
銃を手に怒りに任せて路地を駆け出す少年に追いすがり
止めさせようとする時に、だけど、その人が、何を言えるのか。
「民主主義、平和主義は結構だ。けれども、イラクの明るい未来は
僕の弟を返してくれるのか」と咆哮されて、彼はなんと答えればいいのか?

お互いの宗教を尊重し、お互いに対し寛容である事の大切さを知っていて
自らはイスラム教徒であるけれども
家の近くにある、慎ましく可愛らしい小さな灰色の
キリスト教の教会の前を通る時
私達は皆、敬虔な気持ちになった、と書いていたRiverBendさんは、
今も世界の良心を信じ続け
極限の状態から、イラクの人間の視点から見える戦争を
世界に発信し続けている。
新憲法草案を、なんとか入手し、よく読みこんで
その内容を吟味し、どこの部分が、イラクの未来にどのような影響を及ぼすか
イラク国民として、その草案にどのような判断を下すべきか
誠実に考えている。
そして、隣人にも、草案を読み、内容を考えて選択をするよう話しかけ
目の前で、草案の書かれた書類をやぶかれ、道に落ちた果実を掃き集めるのに使われ
少なくとも、これも全く役に立たなくは無かったね、と言われる。
肯定するにしろ否定するにしろ
新憲法が、イラク新政府が、
明日死ぬかもしれない私達に何をしてくれるのかと、哂われる。
其処此処に、拷問されて殺害された遺体が転がっている。
子供たちは生首に花を飾って遊んでいる。

Riverさんは、普通の人にできる以上の事をしている。
人が一人できる以上の事を、武力によらない、紛争の解決の為に
20代のたった一人の女性に、期待されうる以上の努力をしている。
RiverBendさんの日記は世界中の人々に
イラクの様子を知らせている。イラクの人の気持ちを伝えている。
世界中の何十万という人間がRiverさんのBlogにアクセスし、毎日更新を確かめ
大事にその内容を読み受け止めている。
けれども、Riverさんの隣人は言うかもしれない。
「それが、何だというのか。
blogが世界中の人々に読まれ続けていて
世界中の人々は、それで、何をしてくれるというのか。
私の奪われたものを、世界中の良心ある人々は、いつ返してくれるのか」
Riverさんは、なんと答えたら良いのだろう。

非武装非暴力非服従の、人間の想いの力を信じ
世界の人類の良心を信じ、人が力をあわせて共生する未来を信じ続けようとする彼等を
武器を持った軍隊が、世界からやってくる兵隊たちが
これでもかこれでもかと追い詰めてゆく。
いっそ、武器を持ち、怒りに任せて報復ができたら
どんなに楽だろうかと、思う瞬間は無いだろうか。
今現在、戦争の場所でない此処で、
どうか、武装集団には加わらないで欲しい、どうか武器を取らないで欲しいと
思い続けることは、彼等を苦しめては居ないだろうか。
彼等はいつまで、耐えるのか。
どこまで耐えればいいのか。
武力によって物事は解決しない
憎しみを連鎖させてはいけないと信じ続ける彼等に対して
これでもか、これでもかと
ありとあらゆる苦しみが与えられているのを知らされて
同じように、
人類が武装ではなく話し合いで共生をする事を願い続けている私は
その考えを生かし続けている一人として、申し訳ないいたたまれない気持ちになる。

世界は何をしているのだろうか。
なぜ、彼等を救わないのだろうか。
世界中の平和の祈る人というのは
数十人に過ぎないというわけではないだろう。
何をしているのだろうか。

居ても居なくてもいい非力で無能な一粒であっても
その中の一人として
武力によらない、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する事が
人間一人一人の安全を守る為の最大の方法なのだと、
そう信じ続けている一人として
とても、苦しい。
なぜ、ここまで放置を続けているのか。
知らないわけじゃない。
情報は世界中に伝わっている。
なのに、なぜ、こんな事が続いていて
誰にも救う事ができないのか。
ファルージャの、タルアファルの
拘束され拷問され暴行され続けているイラク中の人々は
世界中の人が、彼等がそのような目にあう事を容認したのだと
思ってしまっては居ないだろうか。
世界中の人から、見捨てられたと感じてしまっては居ないだろうか。
世界中の人々から死んで良いとみなされたと思った人間が
身体に爆発物を巻きつけ人ごみに入っていくのを
世界中の人々は
どのような言葉で、止められるのだろうか。

昨年、バグダッドの大学などで
何人もの学者や教授が、兵士たちによって殺害されたという報を聞き
その経緯を想像して、胸が痛んだ。
何十年も、研究を続け第一人者となり
その研究を誇りに思い、その分野においての世界の中での自分の大きな価値を
慎み深くも、信じていた人たちが
無遠慮に進入してきた兵士に、何のためらいも無くあっけなく銃殺される。
その瞬間の、世界的頭脳を持つ人々の
起きている事を信じられなかっただろう想いを考えて
とても辛かった。
先日、夜中に放送していた映画の中で
価値観を押し付けない事を説き、
隠れ家の中でも穏やかに人々の争いを仲裁していたユダヤ人教授が
他のユダヤの人々と共にドイツ兵に連行される際に
殴られる同胞を見て
殴るくらいなら殺せと叫んだ事で
まるで虫でも払うかのように肘で殴り倒され
泥の中に倒されて
ゆっくりと立ち上がりトラックに積み込まれる所を観て
戦争というのは、このように行われるだろうと思った。
とても耐えられないと思った。

過去の事、映画の中の事だと思って、やっと観る事ができる。
だけど、現実としてはとても耐えられないと思った。
どうしたらいいかわからない。

mercoledì, novembre 23, 2005

諸行無常・・(←大袈裟)

木津上人無事釈放、不起訴処分決定
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200511181300_09.html
との事で、
これは、不当拘束を19日間以上続けることができない程度には
市民的な要求に実行力があったということで
0ではないだけ、まだ良かったけれど

19日間、無実の人を監禁拘束できてしまうという実証であり
良かったね、で終わったら、今後もこういう事は続くだろうな
という事であり
なによりびっくりは、
この件について、少なくとも私は一回もテレビで観なかった。
いまさら、びっくりじゃないかもしれないが
いまさらだろうと刺身皿だろうと
何度でもびっくりする。
よく、平気でいられると思って。

18日BaghdadnBurning更新。
こういう事についても
もう、一年以上
あまりにもあからさまな見てみないふりが続いているわけで。

どこの神様、仏様から見ても
実にバチアタリな日々が続いております。


一度、民主主義的仕組みが定着し
人権という考え方もそれなりに主流となった社会が
もう一度、強権的な独裁政治に戻る可能性はあるものなのかどうか考えてみた。
あるだろうと思った。
”自分が”他人より裕福になれない。
”自分が”他人に指示を下す立場になれない。
”自分が”幸せだと思えない。
事を理由に
安易に、”民主主義社会への幻滅”を思い
人間は平等でないと、悟ったような事を思い
「なんでもいいからとにかく政治が変わればいいのだ」
と主張する事で
なんでもいい、という部分が、なんでもよくない人に巧く利用され
変えてはいけない部分が変えられる起動力として使われるだろうと思った。
平等な権利というのは
どんなに能力が無くても
どんなに個人として不運で、あらゆる災厄に見舞われ続けていても
どんなに悪い事(個人には、感情があるものだけれど
だからこそ、その人が感情によって罪をなす事から守る為に
”社会”は恨みや怒りで動かず、
客観性を保つ必要があると思う。)をしてしまった人でも
雨風をしのぐ住居と、衣服と食事
入浴と排泄に障害の無い状態で生活ができる事
つまり、誰であっても、
社会全体からは、「死んでいい」とみなされない事だろうと思う。
何でもいいから変えろ、と、八つ当たりのためだけに主張する事で
自分の主張が自分たちの首を絞めている事に
気がつかないまま流れを加速させれば
今よりも更に悪く、物事は変わるだろうと思う。

社会の中で、一番弱いのは、子供と老人、病人であるから
弱いものに負担を押し付けて
弱いものが弱いから悪い
弱いものから切ってゆこうという考え方が定着するならば
個人にもそれが、常識として浸透してゆけば
体力として強いものによって
たとえ、家が経済力だの権力を持っていても
家を出ればただの子供である子供が
誰かの自らの思いを優先する事によって
犠牲にされるようになる事も
また、自然の摂理なのであろうと思う。
たとえ、若いときに貯蓄した財力や立場があっても
年齢を経れば、どうしても、誰でも力というものは減ってゆくものであり
誰でも年齢は重ねるものである以上、いつかは、それを思い知り
二度と逆転の可能性が無い弱い人間の位置に立って
犠牲とされる事になるだろうと思う。

いつも、完璧に実現はされなかったが
ある程度までは到達してきていたものを
より完成度を上げる段階にあったものを
今、壊してきていると思う。
自分の意思で他人の権利を奪い
屈辱を与え苦しめた人間よりも
ただ、弱い人間の方が
はるかに人間的でない扱いを受ける社会になってきていると思う。
そして、その事を修正しようとする動きを封じ込め
人間を人間として扱わない社会としての、完成度を高めようと
一生懸命な人たちが居ると思う。
自分も人間なのに。
「自分たちの国が良ければ、他の国のことは知らないというのでいいのか」
とたいそうな事を言って、他の国の人間の苦しみを増加させる為に
あってはいけない軍隊を、派遣してはいけないのに派遣したが
自分たちの国の、それまであった人権に対する尊重と敬意の念を
言葉だけはもっともらしい事を言いながら見事にないがしろにするようなやり方は
結局、他の国も、自分の国の自分以外の他の人間も、知らない、という事だと思う。
言葉だけはもっともらしいことを言う状況を
許容するのは亡くなった人間だけだと思う。
亡くなった人間は、発言ができないから
生きている人間に、いつも利用される。
この国の人達は、どうもいつも亡くなった人間を優先するが
生きている人間を大事にしない人間の、
亡くなった人に対する表現は
亡くなった人に対するもの、亡くなった人の為のものではなく
自分の為のものでしかないと思う。
生きているときに、大事な尊厳ある人間だったから
亡くなっても、尊厳が持続するので
亡くなったから尊厳があるのではない。


自分がされて嫌な事はするべきじゃない、し、
自分が窮地に陥った時に、なされてほしい事は
自分ができる立場にあったときは
最大限にやっておく事は
何も偽善でもきれいごとでもないだろうと思う。

きれいごと、を言わないというのは
がつがつした卑劣な人間である事を恥じる事さえしない、
という意味じゃないだろう。
偽善的では無い、というのは
他人を傷つけて平然としている人間、という意味ではないだろう。
忌憚がないというのは、悪口を言うという意味じゃないだろう。
正直であるというのは
厚顔無恥であるという意味じゃないだろう。



少なくとも、無実の良心の人が
今はともかく寒い冷たい場所に閉じ込められているわけではない
少なくとも、ひとりはそういう状態から解放された
というのは
正直、嬉しい。
一つの事を嬉しいと書くのも、大変である。

他に、おびただしい数の人が
まだ、どこかで苦しんでいるだろう事も

早くなんとかなってほしい、というか、
ちょっと神経が限界。

martedì, novembre 15, 2005

無駄口

札幌の円山動物園の職員がなぜ処分されなくてはいけないのか
理解できない。
人間用に作られた食品を、人間が利用して何が悪い。
人間が消費する為に作られた商品が
たまたま成り行きで動物資料用に寄付された時
その食品の質とかが、人間用であるのに
たまたまのその場合だけにしか、飼料扱いにならないのに
それを、餌として与えてしまって
動物が、普段の餌用の餌を食べなくなったらどうするんだ?

商品価値がなくなってしまったから
無駄になるのが勿体無くて
何らかの利用方法として
動物園に寄付したなら
動物園で、有効に活用したなら
別に構わないじゃないか。

餌は、会議室で摂取されるわけではないのである。
動物にだって多分事情があると思う。
飼育係にだって
事情があると思う。
現場で物事は進むんである。
ニュースにするほどの事ではない。
職務になれている職員が
飼育係だった場合に
処分されて、その人が哀しい思いをしたり休んだり居なくなったりする事のほうが
動物にとって、面倒だと思う。
慣れている飼育係の人に世話されたいと思うだろうと思う。

更に、脱力したのは
道端に生えた大根。
この国は、大根の方が大事なのである。
戦争の事より。
暮らしに困る障害者より。
負担が増えて治療ができなくなり死ぬかもしれない患者より。

道端に生えたのがえらいんなら
たんぽぽだって、おおばこだって生えているではないか。
環境美化運動だとか言って
住人に草むしりをさせる時
抜いた草にいちいち葬式をするのか。
わけがわからん。

回路

憲法の改変を繰り返すことで、
イラクでイラクの人々を殺害していた米軍兵の役割が
日本兵に入れ替わるようになるというのは、妄想ばかりじゃないと思う。
というよりも、他に何の目的があって、現行憲法を変えるのか?
煙に巻くような口車を使って軍隊を作ったことが、犯罪なので
憲法がそれに沿っていないのではなく、
自衛隊が憲法に沿っていないのだから
自衛隊の方が憲法に沿う形の、災害に対応する為の救援隊に
変われば良いと思う。改正すれば良いと思う。隊員の方々の組織力や体力などは、
今頻発している災害に対応するのには実に重宝すると思う。
戦力で、「国」なんか守れないって。
戦力の一素材となるために、もしくは、戦力の行使に付随して起きた様々な事で、
国民が犠牲になった、他国の人々が犠牲になった例はやまほどあると思うが。
国を守れるのは、賢い外交政策しかないと思う。

正直
誰かに言いたい事、なんて、そんなにたくさん無い。
言葉を変えた同じ内容ばっかり繰り返すことになる。

自衛隊は自然災害の為の組織になれば良いと思う。
自然災害のための救援活動なら
国外へもどんどこ出てけば良いと思う。
国家による武力を用いた戦争は
どんな理由があっても悪だと思う。
戦争は、同種動物である人類の共食いであって
戦争を否定しないと、人間同士の共存が否定されると思う。
同国人だって、同一人物じゃないから
国内の共存だって
理屈として否定されちゃうし
子供に人を殺してはいけないと説明できなくなると思う。
だから、今の憲法は変えてはいけないと思う。
結果を考えたら
国民投票法を成立させるのも
止めた方が良いと思う。
戦争はしてはいけないと
アメリカにも国連にも主張し続けることが
日本の国の誇りを守る、最大の方法だと思う。

戦争はしてはいけないと思う。
そこから、そのためにどうしたら良いかを考えるのが
順序だと思う。
戦争をしない為に戦争をするなんて
なんだそりゃ。
「世界平和を守る為の戦争」ってそういう事だよ。
そりゃ正義じゃないよ。
詐欺だよ。

アリさん最高。

lunedì, novembre 14, 2005

Sympathy←→共感覚

Baghdad Burning 更新されてた

個人的に、共感する。
Baghdad Burningを読んでいるのは
つまり、戦争に反対だからだけではなくて
この感覚の為だと思う。
他のイラクからの発信を読む事は
同じだけ努力しようと思っても続かないが、
Riverさんの日記は、今のところ(かろうじて)続いて居る。
物事を書き表す順序とか
何かに対してひきおこされる反応・・か?
何か、ピッと来るもの。
なんだかわからないけど。

日本の中に住んでいる誰であっても
イラクの中で耐えている人の中の
誰か、その内の誰か一人、もしくはそれ以上、と
感覚が似ていたり、共通の感情や経験を持つだろうと思う。
出会っていないだけで。

イラクに限らず
どこの国にも
誰か居ると思う。
自分と、何かが呼応する人が。
その国を攻撃するという事は
その国の中にある
自分の感覚を共有できる誰かを
攻撃されるという事だと思う。

自分の輪の中にあるものを、”国”が攻撃する。
それが、国家の自衛権だと思う。
軍隊や戦力による”自衛手段”だと思う。
アメリカ国家の自衛権
イラン国家の自衛権
日本国家の自衛権
北朝鮮国家の自衛権
中国国家の自衛権
どれも、誰かを傷つけていて
一番弱い個人を守れるものは
一つも無い。

福祉も穏便な外交もできない政府は
誰の為にあるんだろ。

個人が
国家規模の武力を使った自衛に
真っ向から抗えるような
武装による自衛力なんか
あるはずもない(※)。
個人の自衛権は
国家の自衛権を認めたら
霧散すると思う。
(※ それを試してみてるのが
テロリストだと思う。
結果、国ではないが組織になってしまって
結局、単位としての各個人は犠牲になっているんで
団体で、武装した自衛は
各々の個人自らを守ることなんて
絶対できないと
やっぱり私思うんですけど。
自爆する事は、結果自衛になっていないと
私は思うんですけど。)

自衛って
戦力でしか、暴力でしか
考えられないんだろうか?
多少狡猾であっても
誰も殺さない方が、本質的には”良い”んじゃないだろうか。
戦争以外なら、軍備や武力による威嚇以外なら
多少の詭弁だって、適当な受け流しだって
人間の奴隷化や、人殺しよりましだと思う。
弱虫と思われたって
ずるいと思われたって
自分たちが、そうじゃないとわかってりゃ、それでいいじゃないか。
なんで、そう、強くなくちゃいけないんだ。
それこそ、むきむきで、馬鹿みたい。
むかーし、うちの従姉妹が使った「頭、筋肉」という言葉が
実につぼにはまったが、
あれが主流になるのか。
やだな。
日本の開発力や技術力は
戦争で人材を殺さないで来たこの60年間で
飛躍的に進歩したよ。
その強さじゃ、だめなんだろか?
動物みたいな、野蛮な暴力による強さしか、認められないんだろか。
論理の充実による、論客としての外交上での自衛
自給率を高めた、生命線を海外に依存しない自衛
国内の国民を、できるだけ失わない、人を大切にする事で
その一人一人の可能性が生み出すもので経済力を保つ自衛
そういう自衛権なら、ありだと思うのだけど。

どこかの国が攻めてきたらどうする、じゃないんだよ。
どこの国からも攻められない、
攻撃されたとしたら、誰から見ても攻撃した方が悪いと思わせる
攻撃すればすなわち世界の中での評価が「悪」になるというリスクを相手側に与える
そういう自衛をしなくちゃいけないんだよ。
攻められないようにするのが、税金を受け取る政府の
税金を受け取っている代償で
あんだけ、高額の年俸を得ている理由だよ(それにしてもちょっと減らしたいかも)。






にしても、アメリカって国は
どこに行っても同じ事を言うんだな。
“What do you think will happen
if we pull out of Japan- those same radicals(北朝鮮か?中国か?)
you fear will take over.”
沖縄の件に関しても
似たような事を・・・

fearは、誰からのものであれ無くていいので
アメリカ軍が、現在の怖いものそのものである以上
とりあえず、出てってくれ。
で、かつあげもしないでくれ。
イラクの人達は、もう、充分傷つき過ぎたし
貢犬も、もう、貧乏になったから。
お金ないから。
グアムの施設は自分で作ってくれ。
作れないなら作らなきゃいいのに。
みんな家に帰って
脳病をひきおこさない牧草で、牛を育ててれば良いのに。
カウボーイの国、やんなさいよ。
カウボーイのイメージだけで
大統領を選ぶんなら。

sabato, novembre 12, 2005

想定

当たるも八卦 当たらぬも八卦

報道や普通の人々がこのままなら
(多分このままだと思うけど)

来年あたり、憲法改正のための国民投票法が成立する。
共謀罪も刑法に加えられる。
”鷹派色を排除した(そうは思えないが)”憲法改変草案が国会に提出されて、
粛々と議会を通過し、国民投票が行われる。
この時の草案内容の目的は
その先の憲法改正を、簡易にする為のものなので
そこさえ押さえてあれば内容はそれなりに譲歩も妥協もされるでしょう。
だから憲法九条1項は残される。
この件において大事なのは、自衛隊が自衛軍になり
国内の”治安維持の為の活動”ができることだから。
軍が市民を制圧できるようになる。
市民運動が制圧できるようになる。
国民投票法や
共謀罪や
プライバシーや
なんやかやで、
情報を操作しやすく
市民が思った事を言いにくく
手を携えにくくなれば
いいわけです。
今でさえこうなんだから。まぁ、黙らせるのなんか簡単。だったね。
国民投票法が成立すれば
憲法改変草案は
何度でも、国会に提出される。
もし、有権者に多少の理性があり
はじめの国民投票では否決されても
何度でも、可決されるまで草案は提出され
いつかは、改変される。
反対運動を、続け続けるのは、困難です。
変えたい側は、それが飯の種だが
お金も権力も時間もあるが
痛みを押し付けられる事になる側には
借金くらいしかない。
憲法は改変され
新しい憲法草案が再度提出され
また改変される。
鷹の色は、最初は省かれていたっていい。
そのうち、濃ゆくできるから。
九条1項は
後で変えれば良い。
焦る必要は無い。
中曽根さんの復古調も、今はちょっと待っててね。
枡添さんの言うように。
まず、憲法を変えることが肝要です、から。
どうしてもと仰るなら、まぁ、2回目3回目辺りで
加えてあげてもいいですよ。
九条の一項、変更できそうになった時は、
侵略戦争を、禁止にする。
日本国が行うのは侵略戦争ではない(「自衛隊の任地は戦闘地域ではない」と同じ理屈)。
攻撃は最大の防御だ。
国家の自衛権は認められるべきだ。
個人の自衛権をないがしろにしても。
憲法は変えられていく。
どこまでも。

政府の役職が、誰になるかは、たいした問題じゃない。
名前と顔の出ている政治家の人達は、みんな駒だから。
誰かが予想すれば、予想を少し外す事で
有権者を安心させるだろうし
安心は裏切られるだろうし。
要は、殺人をする為の
高価な道具を消費し売買できる事が求められている。
戦争による高額の金銭のやりとり、経済動向が成立すればよい。

自衛軍人は戦闘に参加して消費される。
足りなくなれば、いたしかたない
多少使えない人間でも鍛えていく責任が、軍上層部に託されて
徴兵制が採用される。
倍の期間のボランティアとどちらか選択制・・かな。
一部、議員や高額納税者の家族には免除されるかも。
戦争は急には止められない。
人が居ないからといって
止めるわけにはいかない。
”面子”があるから。

誰かの家族が、戦争に征って帰ってこなくなる。
”普通の国”のように。
ただし、海外の多くの普通の国と、日本の間にはひとつ大きな違いがあって
他の一部を除く普通の国では
戦死者の遺族は嘆き悲しみ、殺されたという事ができるが
きっと、日本国内では、家族が嘆けば、社会から非難されるだろうな。
「喜べ」とか言われる。
最初は多少の報奨金が出て、
それで、納得しちゃう家族もきっと多いだろう。
そのうち、ビール瓶の蓋みたいなものとしか
ひきかえにならなくなるだろうけど。
お国の為に名誉を果たして
靖国神社に祀られた。
あなたの息子は神になりました。
立派な事です。誇りなさい。
素直に誇る母も、きっと、たっくさん出てくるだろう。
今生き残ってらっしゃる方々と同様に。
それが日本の、多数派の特性。

隣国を片っ端から挑発している今の対外政策が
更に直接的に行われるようになり、
キレやすそうな、将軍さんの国辺りを相手に”自衛権”を行使する。
CNNやBBCでは、「極東で紛争勃発」と報道される。
国内では「最後の手段を行使せざるを得なくなった」と伝えられる。
国内のどこかで地上戦が始まると
「汚職」や「違法取引」や「ネット犯罪」や「企業買収」
「振り込め詐欺」や「アスベスト被害」や、「芸能人の離婚と結婚と病気」
くらげやいのししの異常発生、スギ花粉情報
そんなニュースの合間に
「現地からの中継」が、ほんの少しばかり入る。
今の沖縄での、基地反対運動のように
もしくは、地震や噴火の被災地のように。
ドラえもん募金が募られる、かも。
赤い羽根が、取立てのようにやってきて
強制的に”思いやり”を徴収していく。
視聴者は、自分の住んでいるところに
戦闘地域が来なければいいなと思いながら
新聞を斜め読みして、自分がそこに居ない幸運を喜び
家計簿とにらめっこする。
医療費負担が増えるから
病死者も増えるだろうし
戦争すれば、最初はどうあれ、景気は悪くなるから
(だって、普通の人の経済活動が
できなくなるじゃない。
経済活動する人が戦争に連れて行かれて消えてしまうんだから)
自殺者も増えたり、事件も増えたりして
それぞれの抱える個人的問題はどんどん増えるだろうし
今でさえこれなのに
そのうえ、法律でまで発言が規制されたら
アメリカやヨーロッパよりも
もっと反戦運動は起きないだろうから
戦争はいつまでも続く。
続けるために”国民の団結”が必要になるだろうから
国家権力は、問答無用に強くなるし
福祉は名前だけになる。
名前だけやたら立派になる。
「偉大なる慈愛に満ちた恩恵」になる。

モノは高くなるけど
消費税も増えるし
福祉の為に使う消費税が増える事で
今まで福祉に使われていた分の税収は軍事費に回されるし
そのうち、福祉は自己責任の小さな政府になってゆくから
使途なんてのも、もうどうにでもなるでしょうし。
政府の政策に対する一般個人の文句は、
数回目の憲法改正で治安維持の為に、完全に制限されるだろうし
あとは、大企業だけが要求ができるようになれば
法人税でまかなわれている分も
消費税でまかなわれるようになるかも。
それでも、商品を買い続けられる人は、居続ける。
”セレブ”な、一部の潤った人々の為に
グルメ情報は流れて
こだわり逸品が紹介され
ブランド品のバーゲンは行われ
海外ブランドの新店舗もできる。
携帯電話も進化して
低公害車が走り
環境を考えた住宅も建築され
100万円のスーツを着た大人と
10万円の子供服を着た子供の住む
環境を考えた地球に優しい住宅の横で、
戦災孤児が野垂れ死ぬ。
それが誰かは誰にも関心ももたれないし
その誰かが、それまでの間に
どんな哀しい思いをしたか
どんな苦しい思いをしたか
どんな悔しい思いをしたか
語られる事は無く
戦災で亡くなった家族を自分で焼いて
拾った骨を握り締めた遺骸が
ごみとして処分される。

人だったものがごみとして処分されるのが戦争。
慶応幼稚舎出身の少年の遺体も
東大法学部出身の老人の遺体も。
六本木ヒルズに事務所を構えた事のある破産者の遺体も
田園調布に家のあった没落者の遺体も。
場所によっては、処分されないままになるかもしれない。

運が悪けりゃそれまでよ。

そして、最後に
”悪の枢軸国家政府から、日本国民を解放する為に”
アメリカ軍がやってくる。
イラクで、今、起きている事。
日本で、60年前起きた事。
ただし、アメリカをはじめとする多国籍軍は
日本に平和憲法を渡すという”失敗”は二度と繰り返さない。
エンパイアステートビルを、再び買い叩かせるような事はしない。

domenica, novembre 06, 2005

ばちあたり

http://d.hatena.ne.jp/dempax/20051104経由

ジュゴンネットワーク沖縄 暫定ブログ
より転載

http://jaga.way-nifty.com/dugong/2005/11/117_f741.html
11/7(月)午後1時、不当逮捕されたお坊さんの勾留理由を開示する法廷、
那覇地裁沖縄支部にご参集を!直ちに釈放すべし!

 県警(沖縄署)が不当逮捕(10/29)したお坊さんを送検、
検察は10日間の勾留請求、これを那覇地裁沖縄支部は2日、
不当にも認めてしまったので、その勾留理由開示が、
11月7日(月)午後1時から、
那覇地方裁判所沖縄支部法廷で行われる。
K弁護士によると、「勾留および接見禁止決定に対する準抗告」も棄却され、
「接見禁止がされている状況で、木津上人と支援者の方が
顔を合わせることのできるおそらく唯一の手段です。」
1.那覇地方裁判所沖縄支部について:「裁判所」ここからたどれる。
各曜日の担当裁判官名も書かれてます。
2.沖縄支部へのアクセス
住所等 〒904-2194 沖縄県沖縄市知花6-7-7
電話番号等 Tel:098-939-0011 Fax: 098-934-5380
経路・最寄駅など (バス)法務局前バス停から徒歩1分
《注》美里中学校の近く。裁判所のサイトには地図はない。
沖縄地方検察庁沖縄支部・沖縄区検察庁マップが参考になる。
《注2》沖縄平和市民連絡会サイト等も、
勾留理由開示の法廷への参集を呼びかけている。
《注3》沖縄警察署:沖縄市胡屋2-4-3、TEL (098)932-0110
《注4》お坊さんの不当逮捕のときからの取り組みが伝わってくる。
ちゅら海をまもれ!沖縄・辺野古で座り込み中!


(転載終わり)

良心と信念に基づき行動しているお坊さんを
みだりに逮捕拘束するというのは、
バチが当たる見本みたいなのだが。
逮捕する時、頭を掠めなかったんだろうか。
新聞をまたぐより確実にバチが当たりそうだ。
(新聞や本をまたぐとバチが当たると言われて幼少期をすごしました)

僧侶の方であれ一般の方であれ
逮捕拘束される正当な理由と思われるものが
みつかりません。
不当な政府の措置に対して抗議する事を
罪とされるのは、民主主義国家じゃありません。
それが報道されない社会は、自由がありません。
独裁主義であるとか社会主義であるとか
なんだかわからないが、横暴国家というのは
名乗るかどうかではなくて
やっている事が後に評価されて名づけられるだろうと思うので
そう考えると、今現在は
「このように日本は独裁社会になっていきました。」
と客観的に表現される事になるでしょう。
その時代の人々は
ほとんど抵抗もしないまま、「時代の波に呑み込まれていきました」。
で、10歳くらいの子供が歴史を学びつつ
ああ、その頃の人々は、だらしなくてすかたんだったのね
といったように、考えるでしょうね。
私個人で言えば
だらしなくて、すかたんで、あんぽんたんなのが事実でも、
悲しいなぁ。

・・・などと今考えているところが、すかたんなのである。

sabato, novembre 05, 2005

頽廃美

三島由紀夫さんの「憲法草案」は
ひっそりと暗がりで青白く燐光を放ちつつ朽ちていく所に
意味があるのではないだろうか。
結実しない所に、De cadenceな美があるのではないだろうか。

個人的な解釈としては
三島由紀夫さんは
戦時中の軍国主義国家が創りだした思想広報の為の美学を
しかし美学であるがゆえに美しくなってしまったそれを身体中に吸い込み
自らで演出し自らの全てを用いて、滅びゆくその終焉を飾ったのである。
崩れゆく所に、美があったのである。
自己陶酔は共有できるものではなく、鍛え上げた腹筋も
かっさばいたら、たんぱく質と脂質と水分の
びちゃびちゃした肉隗に成り果てると示してみせたのである。
血の聖杯を交わすなんて、言葉で書いたら、陰のある浪漫だが
実際やったら臭いわ気持ち悪いわ不味いわ変に固まるわべとつくわ、
結局、その現実の中での生き血の杯の、
むやみやたらな気持ち悪さが認識できないのが
狂気である。錯乱である。
人間は、清く儚い幻燈ではないのである。
三島さんは、それを示したのである。
物理的身体も、築き上げてきた実績も、誇りも、理想も、
自分に属する全てを滅ぼす事と引換えに。
空中の楼閣と、実際にやってみる事の差
デフォルメして思い描くものと、隅々まで略されない現実の差。

小さくて、過敏で繊細で、可憐で純粋な耽美主義で、あり続けられたら
それが、本来の個性だったはずだろうに。
同世代の人間が、みな戦死した中で
徴兵を逃れて、終戦を迎えてしまった後に
器用に新しい日本の価値観に素早く迎合する事もできなかった人の
巧妙ではない始末のつけ方だと思う。
そんな時代に生れなければ
違う咲かせ方もあっただろうに。

崩れないで、丈夫に
その後35年も生きる事を許容したなら
多少退屈でも、理を認めなくてはダメである。
人を殺してはいけない。
朗らかに民主主義である。
自分は、地道に愚直に鼓動を繰り返し呼吸を繰り返し
生き続けたのだから。

縦だか横だか知らないが
共に血判の契りを結んだのに
思想を同じうすると、誓ったのに、
共に逝かなかった現在は
転向後の現在である。
裏切って転向したのである。
今更のこのこと出てきて
同志面するない。

傾倒し、追慕したにもかかわらず
後に続いて散ることもなく
ダダ漏れで、ながらえた挙句
過日の遺稿を、このように無粋なやり方で白日の下に晒してしまうとは
ある種、冒涜だと思う。

実に興ざめで
白き灰がちになりて、わろし。

光と闇があって、世界が面白いんで。
爽やかに活発に、穏やかに明朗に
健やかにわはわはと笑い額に汗する白い歯のヒトビトによって構築される
陽光のさんざめく基礎があって
はじめて、
闇の暗さに意味が出てくるんで
暗がりにあるものをなんでもかんでもキッパリした照明の下に引きずり出したら
がさがさして白けるばかりである。
情緒ってモンが無い。
なんとかならんのか。

憲法は明るく元気に朗らかに、動かしがたく
どうしようもなく堅実で健全で明白でなくてはいけない。
それでこそ、脱落する事に、それなりの魅力が出るんで。

罪を罪と認める知能も無いまま、罪を実行してしまうのは稚拙だ。
いかにも子供だ。
まともにあるべき多数派大衆の人々が、
みんなしてそろいもそろって中途半端に墜落してみせている。
空想してぞっとしてみるような事を
実際にやってしまうなんてのは
感覚が中途半端だからだ。
空想の完成度が低い。
(だから)コドモが大人のものを見ちゃいけません(って言われちゃうんだよ)。
そういう(年齢ではなくアタマが)子供の
愚かしい露悪趣味のせいで、
本来、暗闇でひらめく天鵝絨をまとった者共が
御天道さんに背かない、
素直な真っすぐの角の四角い正論を、
しょうがなく、しかたなく、述べ立てなければいけない
この、やるせなさを如何にすべきなりや。うんざりや。

なんでもかんでも引っ掻き回したら
のっぺり灰色の藁半紙である。
再生紙のトイレットペーパーである。
プラスチックの機械的な匂いである。
通信簿と朝礼とラジオ体操である。
裏も表も無くひたすら灰色のどこまでも灰色一色の秒針で刻まれる単調な時間である。
光のものは、光の中にあって鮮やかな彩りをもち
暗がりのものは暗がりにあって、輪郭の霞む妖しい彩りを浮かべるのである。

美輪明宏さんは、
現在、薄闇を縫う月光に映える為に
造られているのであって
そのための、あの化粧である。
げしゃげしゃした赤だの黄色だの閃光を当ててはいけない。
・・・ああ、そういう話じゃなかったね。(

この項を送信するかどうか、かなり迷っている。
その時代にあって、書かれたその時代のものが
文学のひとつとして、出版されるという形ではなく
こんなに時間が立って、空気も変わっている中で
誰かが気持ちを入れて書いたものが
あんな不細工な晒し方がされた事は
できれば、無かった事にしたいので。自分の記憶の中で。
別に、特に強い思い入れは無いけれど
なんかねぇ、
頭に血が上った状態で夜中に書いた日記を、
本人以外の人間が(※)、公共に晒すみたいなもので
知らないうちに黒板に貼られた個人的手紙みたいなもので、
なんとなく、いたたまれない。
だから、誰かが思い出すきっかけになりたくない。

まぁ、誰も読まないだろうからいいか。

※本人が、厚顔にも自分でパブリッシュしくさるのは
このblogが、文字通りそのものである以上、あり。


しかし、なんつうか
泥酔して書いたような文章だ。
どちらかというと15年前の自分が書いたモノのような気がする。
そうかも。
いや、そんなはずは。。
泥酔してたのかも。(←御免、言い逃れ。また、削除するかもこの項何度目だ)

mercoledì, novembre 02, 2005

呆然

「久しぶり」って、ご本人のご判断で
情報内容だけを抜粋し掲載されてきたのではないか。
確かに数行しか付けてはいなかったが、
久しぶりじゃないだろう。
あ、おめがねにかなったのが、久しぶりって事か。


荒立てるような事ではないので
ここだけの愚痴にとどめなければいけない。
別に、どうだって、それが、どうという事ではないのだから。


私にだって
感情が無いわけではないのだが。
というより、私ほど感情に抑制のきかない人間は少ないくらいなのだが。

martedì, novembre 01, 2005

うんたらかんたら

「人事を尽くして天命を待つ」ってさ、
あーそうか武部元農林水産大臣さんにとっては
小泉総理大臣は、天なんですね。
・・はは。

天になっちゃったんじゃしょうがねえや。
地ならしもほぼ完了、次の天は安倍さんで
もはや、民主主義じゃないよ。
天主主義だよ。
あっははー。
時代錯誤もはなはだしいが
そういう時代に、日本だけはもどるらしい。

北朝鮮の事を放送する時
怖い事として番組作っているのかと思っていたが
実は羨ましかったんだろうか。
ああいう風になりたくてだったんだろうか。
気づかなんだ。
実に、絶妙だった安倍官房長官の辞令受け取り場面も
誰も食いつかず。おいしかったのに。
実に、食いつきどころ満載のおじさんが
偉大なるうんちゃらとひたすら崇め奉られる某国の状態に近づいていく予感。
おちょくるのは、ひたすら新人議員の挙動ばかり。

香田さんの訃報が届いて一年
だんだん大きい石が転がり落ちてくるようになってきました。

猪口さんて、ハリエット・マイヤーズさんに似てる。見た目が。
文字面は御猪口(おちょこ)に似てる。
素朴に。他意も無く。

私は、ちょっと虚無感にやられてる。
どうせ、数十年先には、一億だか二億だか総懺悔で一絡げに罪人呼ばわりである。
居たくないねぇその時代に。
だから、虚無感にやられてるんだって。