mercoledì, giugno 29, 2005

まにあってます

サマワ中心部で、28日に失業者のデモ隊に警官が発砲して死傷者が出た。
29日には砲撃も発生。


わざわざ、こんな東の島国から武装してまで工事の為の人手を派遣しなくても
働きたい人は現地にいっぱい居るとみた。

適材適所

それとも、
戦争を好きではないから、戦争にならないための働きの一環として
どこの部分で納得がいかないのかという疑問点を示す事で、反証がされてゆき、
考え方の組み立てとして層が厚くなるから、良いのだろうか。
そうなのかも(煮詰まってます煮詰まってます)。
よく考えてみたら、せっかく今興味を持ったのに、それを捨てて
徳川埋蔵金やレッサーパンダにかまけてもらっても、それはそれで多分良くない。
遊びでも何でも、考えない人よりは考えている分、取り付く島があると思った以上
それは、長所であり、やめれと思うのは、間違っている。
しかし、そうなのであれば、
やっぱり、その分野(劣化ウラン弾なら核についての科学的研究)を専門としている
自分の疑問を、解決できそうな人に質問し
その答えを自分が理解できた方法で、足りない所へ補う、というのが、順当なんじゃないだろうか。
(焦げてきています)。
しつこく一定箇所、一定個人に食い下がるっていうのは、
どちらかというと、自分の疑問を解決したいというよりは
相手個人に対する執着のようにも見えてしまう。
疑問があるなら自分の疑問を、解決できる相手かどうか、判断して取捨選択すればいいのに。
必要な情報を、情報が提供されている場所で得る方が早い。
自分が解決できたら、情報としてわかりやすく二次提供する側にもなってほしい。




なんだかどうでもいい事になってきちゃった。

テスト勉強しなくちゃいけないんだけど・・・
しないね。

martedì, giugno 28, 2005

mottainai

戦争が好きなわけではない、と明言していて
健康被害が、ある”かもしれない”ことは認めながら
「健康被害が、絶対にあるという科学的立証ができていないのに
劣化ウラン弾を使うべきではないと主張するのはおかしい」
という内容について延々と書き連ねるのは
何故なんだろう。
遺伝子への悪影響や癌の発生がある”かもしれない”し
被爆というものは、レントゲン写真でさえ状態によっては
撮影しない方が良いという事になっている以上、
無条件にその場所を被爆させるような兵器を使えば
それが、核汚染を直接目的とするものであろうと
目的は破壊だけれど、副作用として核汚染もさせるものだろうと
そこに居る人にも、その土地にも核汚染がもたらされる事に違いはないと思うんだけど。
で、結論として、どっちにしろ劣化ウラン弾は使わない方が良いという自論を持っているなら
その、かもしれない、と、である、の違いにそこまでこだわって、
論文や技術面での議論をする専門家、研究者や科学者でもない人間に
説明を求めたり、話し相手になることを強要するのは
何故なんだろう。

戦争は好きではないが
口げんか、というか、ネットでのけんかが、好き。
なのであれば、
このような、人間の命や、生まれてくる人の状態に
大きな悪影響を及ぼすしゃれにならない主題においての
言葉の使い方という主題ではなくて
もう少し、どうでもいい事で遊んでいたらいいのになぁと思う。
なんか、あるじゃん、
つちのこは居るのかどうかとか
徳川埋蔵金はどこにあるのかないのかとか、
小難しげにもできそうで、罪の無い話題が。

で、結局、
要するに、なんらかの偏見でくくったくくりの中の一員であると決めた人に対する
反感から、けんかふっかけているだけなんかなぁ
って思ってしまう。
濃度が何ミリグラムだの
実験結果の報告に絶対的な信頼性があるかどうかだの
そういう話ばかりがされていれば
そりゃ、うひゃあ、もうどうでもいいです、難しい話はわかりません。
という人間が増えるのも道理ですから、
戦力による防衛が必要か否か
イラクに対する武力攻撃というアメリカ政府の決断は正しかったかどうか
それが正義の戦いである、という主張に従った事は
正しかったかどうか
戦力を保持する事、軍事による防衛や攻撃
イラク戦争はして良かったかどうか、
今後、戦争に参加できる可能性を作る事は良いかどうか
そういった事について、考える人が減るのも、道理ですし
で、考える人が減った為に、考える人の全体量の中での、
戦争や武力の充実を行う事によって得をする人間の、割合が増えたのも道理でなわけで
得をする以上、いけいけどんどんになっちゃったのも
道理で、と思うわけです。
戦争が好きではないという言葉が、本当で、
戦争を望まないのであれば
戦争にならない方法を考えるはずだろうし
戦争にならない為の行動(書き込むとか主張するとかも含め)をすればいいのに。
戦争が嫌なら
わざわざ戦争にならない為に何かしている人の邪魔をしなくてもいいじゃないか。
意味があるとかないとかは、後にならないとわからないよ。
それぞれが、それぞれなりに、それぞれの方法を必死で考えているんだよ。

劣化ウラン弾を使用しなくても
代替の兵器を使って、結局攻撃目標の場所に
ひどい被害をもたらすのであれば、
ひどい被害をもたらす事は、同じだと思う。
その被害内容、生まれてきた子供に指が無かったのは
劣化ウラン弾によるものか、それ以外の要因によるものか
劣化ウラン弾というものがもたらす被害の、正確な詳細が
科学的な所の関心により、とにかく知りたくてたまらないなら、
ドラコビッチさんとかに、直接訊けばいいのに。
英語も堪能そうな人が多いし。

大事なのは
戦争が起きてから、核による影響と思われる被害が増えた、という事実だと思う。
戦争によって起きた事は、何か、だと思う。
その映像は信じたくない悲しいものだけれども、
残念ながら、現在の特殊映像技術は、
まだあのような悲しい事を創り上げられないと思う。
全部嘘だったら、どんなに良いかと思うけれど
被害者と伝えられる人々が、本当は、そんな目にあっていないのだとしたら
どんなに良いかと思うけれど。
そうでは、ない、よなぁ・・・。
もし、被害を受けたとする彼ら彼女等の存在と証言が信じられないのであれば
イラクは今、普通の人が直接行って確かめるわけに行かないから
アメリカへ行って、兵隊としてイラクへ赴いた為に
このような結果を招いた、と主張する人に会うのが良いと思う。
他人が取材したものである事を理由に、
信じる事ができないなら、しょうがない、自分で見るしかない。
経済的な問題であれなんであれ、個人の事情でも
それが不可能であるのなら、
「そうかもしれない可能性はあるけれど
科学的立証ができないから、そうではないかもしれない」というこんぐらがった主張は、
しない方が良いと思う。
もし万が一劣化ウラン弾による被害が
そこまで大きくないものだったとして、過大評価していた場合と
実際の劣化ウラン弾がもたらすものは、そこが戦場である為に、情報が集めにくいわけだし
今伝えられているものより、更にひどいものだった場合を比較して
リスクが大きいのは、どちらよ。
もし、少なくとも伝えられている情報程度の事実だった時でも、
「そうではない”かもしれない”から伝えるべきじゃない、」と主張しちゃった人は、
結果の責任を負いきれない。1人の人間が背負いきれるものじゃない。

意見だの価値観だのを押し付けられる事が、苦痛で
嫌な思い出があって、嫌な思い出を与えた加害者と
似ている考え方を持っている人なら誰でも
攻撃対象にするまでに忘れられないような傷をつけられたのだとしたら、
大人に対して、大人であるという理由だけで
子供への対応の完璧さを求めて(まぁ、大人も完璧とは行かずとも
子供に相対するときは気をつける必要が多少あるだろ、と思う)
それが裏切られた時の気持ちに固執せざるを得ないのだとしたら、
少なくとも、自分が大人になった今
価値観の押し付けどころではない、
戦争による被害が、今戦場にいる子供に押し付けられている事を
容認するような大人にならないでほしいよ。

悪い印象を刻み付けられたのが、子供の頃じゃなく大人になってからなのだとしたら
大人なんだから、主張とそれを主張する人間との間を区別するくらいできてほしい。
理性的で思考力がある場合、だけでなく、
私みたいなすっとこどっこいでも、わかる事なのである以上
どんな人であっても、その主張をする可能性は、ある。
雪を触って冷たい、という人間が、全員、
優しさと知性と正義にあふれる真実一路で性格の良い人間であるとは限らない。
どんな人でも、冷たいから冷たいと言うんだと思う。
それを、その中の誰かが気に入らないからって
同じ意見になるのが嫌で、意地でも冷たいと言えない人ってのは・・・・
面白いけどね。話が雪の冷たさについてなら。

それにしても、つくづく思うのは
「むつかしいことは、わかんない、かんがえたくない、多い方についとく」
という人に、考えるきっかけを得てもらおうとするのは、本当にとっても難しいが
ここまでの専門知識や、情報を集めようという気力
自分の理屈を組み立てようとする興味や関心を持った人達が
「意地でも、この系統には、賛成したくない。」
という思いを、与えられてしまったことで
本来なら、自然に持っていたはずの
個人を尊重し、自由である事が認められる社会を求める気持ちが、
はからずも奪われてしまった事は
かなり、もったいなかったかもしれない。
この人たちが、本気で、武力によって人が被害を受けないですむ為に
戦力や、軍事力による相互抑止ではない、平和を保つ為の方法を考え出す為に
その脳みそを使ってくれたなら、
もうちょっと事態はましな方向にあるのじゃなかろうか。

ああ、脳みそが勿体無い。

venerdì, giugno 24, 2005

撤退祈願

あーあ。
自衛隊、標的にされてしまいました。
どうすんだ。
本人達に覚悟ができているなら
本人達の覚悟は結構だが
本当に、家族もみんな覚悟はできているのか。
涙をこらえて旗振っていた、あの小さい子も我慢する覚悟ができているのか。
だいたい、あんな映像を、まさか現在の事として観なくてはならなくなるとは、
と思った事を今思い出した。

そして、
人道支援が為に伺った建前になっている派遣ですが
少なくともあの爆発物が破裂したのは
自衛隊が、あの場所に駐屯しているからと思いますが。
サマワが安定していたのだとしたら
安定が、続かなくなりそうな要素を、もたらさない方が
人道支援になっていたかもしれないと思うのですが。

もし、今後、このような攻撃が、自爆に進んだ場合
報道にもよるだろうが、まぁ、報道がそれのみそればかり気になって仕方ない
自衛隊への被害が、運良く免れられたとしても
自爆した人間は亡くなってしまう。

どう考えたらいいのかわからないんだよ。
どっちかのうちのどっちかについて、亡くならないで欲しいと願ったら
別の片方が亡くなってしまうなら、
別の片方も亡くならないでほしいと思ったとき
どう考えたら良いかわからなくなるじゃないか。
捕虜として投降すると見せかけて急に発砲してきたので
って、絶対ありえない話、とも思えなかったし
そうしたら、どちらかの無事はどちらかの死じゃないか。
どっちの無事を祈ればいいのかわからなくなるじゃないか。
武装した組織、ってどっちも、武装した組織だし。

イマサライマサライマサラ

自衛官の人が、日本の演習場なり自宅なりに居ていれば、
少なくとも、今イラクに居る誰かの攻撃にあうことはない。
今イラクにいる誰かも、自衛隊に対する攻撃は、しなくてすむ。

いいから、帰って来てくださいよ。
日本国民の為、って言ってくれるなら
国民の1人として、それは、しなくていいですと、お伝えしたい。
日本国民の内である、それぞれのご家族の所へお戻りください。
何か、決定的なことになる前に。


ついでに思う。
「エラソウに」とか「貴様の指図は受けん」「ぐだぐだうるせえ」と
思うに、1日数回はつぶやいていそうなタイプの方は
その同じ頭で、軍隊に守ってもらわないでどうするのだ
と考えるとき、その軍隊に自分は参加している設定なのだろうか。
軍隊って、そんな本人の希望するような尊敬できる兄ちゃんばっかしが
上官なものなのだろうか?自分の好みを選べるものなのだろうか。
「ぐだぐだうるせえ」おやじが、「エラソウに」一挙手一投足「指図」しまくるのにも、
従わなくてはならなくなるものなんじゃないか?
そういう仕事なんじゃないか?
で、撃てといわれたら撃て、死ねって言われたら死ねとなるわけだけれど、大丈夫なんだろか。
テレビの中の戦争の報道でさえ、見るに耐えないのに。

「自分は、別、守ってもらうの」っていうのなら
すごいと思うんだけれども
守る側が亡くなってしまって当然で、
守ってもらえる自分が、
場合によっては誰かを殺してまで守ってもらえる価値のある
他人よりも、他人の死をもってしても、生き残る価値のある人間だと思える
その根拠って何だろう?すごいな。上野のお山でたたされぼうず。

どっちにしても、戦時の際には、軍隊は一般市民の事は守らないものだと思うけれども。

martedì, giugno 21, 2005

大いなる欠点

Baghdad Burning更新

一年が廻ったんだなぁと思う。
砂嵐が吹いて、水も電気も不自由する中で
気温が上がる。
一年が過ぎて、状況は変わらないどころか悪化している。

我慢というのは、終わりが見えていれば、まだ希望をもてるけれど
先が見えないまま、一年間という時間を過ごした事を確認する気持ちを考えると
頭が重い。
本来の生活ではない形、暫定的な形での物事の処理を続ける生活があって、
同時に、爆弾や逮捕や死骸の途切れない不安のストレスが蓄積していく。
つい数年前まで、全く違う毎日、蛇口をひねれば水が出て
電化製品を利用し、店舗で必要な商品を選んで購入して消費する生活をしてきた人たちは
ある時期を境に、現実がこうなってしまったことに
信じられない気持ちさえ感じるのではないかと思う。
こんなはずではなく、こんなつもりではなく
描いていた、過去においての未来である今というのがあった筈だと思う。

イラクで起きている事は、世界中に伝えられていて
こうやって日記も綴られ続けていて
それで、この生活がこの人たちに強いられ続けているのは何故なんだろう。
過去起きた事に対してと同じように、
今起きている事を、でっちあげだとか大袈裟だとか
主張する人達がいるのだとして、今現在進行形な以上、
見ればわかる嘘や言い訳や矮小化を信じる人というのはなんなんだろう。

強い人の残酷さというのは
自分であれば、大変であっても耐えられる、
もしくは耐えられるだろうと思ってしまうから
弱い人間にとって、同じ事であっても、その辛さは同じではない
という事が、想像できない、という所にあると思う。
がんばれば、がんばれるものと思ってしまう。
どんな戦場となった地域であっても
戦場になる為にある場所ではないのだから
特に、数年前まで、戦闘地域ではなく生活が営まれていた場所なのだから
頑張れない人も、居るのではないかと思う。
がんばれる人にとってもいらいらがたまりぎりぎりである現在
頑張れない人は、どうしているかと思って
去年もそう思ったけれど
気が滅入る。
今、戦場になった場所に生まれ育って生活しているからといって
戦争に耐える為にできている人間ではない。
勝ち負けにこだわって、戦うことが好きな人々が、戦いたいのなら
せめて、戦いたくない人間を巻き込まないで欲しい。
勝手に新聞紙丸めて殴りあいでもしていればいいのに。
勝ち負けなんて、どうでもいい人間もいるんだけど。
そういう押し付けを、しかたがないですます神経というのが
とても愚かしいと思う。
戦争を利得や都合の為に始める人間も、ひどいと思うけれど
それを支持する人たち、賛同する人たち
なにかしらの、自分の趣味や価値観や、沽券や面子で
関係の無い人間が害を被る事を容認しないで欲しいと思う。

そんな権利は無いのに、強いとできてしまう事がある。
こういうとき、強さというのは、罪であり欠点だと思う。
強いという事を、肯定的にしか捕らえられない価値観が嫌だ。

うまく意味が取れないのだけど、Green Zoneのくだりで
自分達の場所であった海岸を、金網越しに眺めていた
沖縄の子供たちの一節を思い出した。
もう、克服しなければならない憎悪は充分生みすぎていると思う。
力任せの強さにつぶされる、悲しい事も苦しい事も
人間は充分繰り返したと思う。

lunedì, giugno 20, 2005

訂正文

私は、教科書に歴史的事実を掲載するべきだと思っているし
子供の頃から、戦争の悲惨さを教える必要はあると思っている。
メディアは、戦争で何が起きているかという情報を、
得られる限り最大限伝える必要があるし、
過去の戦争を経験した方々の証言は
少しでも広く、たくさんの人に伝えられる必要があると思う。
戦争で起きる事は何か、理解してこそ、
戦争を避ける努力というものも、なされるだろうと思うから。

子供の頃、夏になって
原爆写真展のポスターが、あらゆる場所に掲示されると
そのポスターを見るのが怖くて、
あちこちを目をつぶって走り抜けなければならなかった。
それでも、知らなくてはいけないと思ったので
戦争の話の書かれた本を読んだり、映画を観たりしたわけだけど、
その為に、とてもうなされたし、1人で外出できない時期もあったし
いまだにうなされて、自分の悲鳴で目が覚めることがある。

自分で書いたとおり、実際の戦渦に巻き込まれた人々の経験した辛苦は
そんなものではなく、また、現在戦争被害を受けている人々の苦しみも
そんなものではないと思う。
ただ、今、戦争にならない為と思って、私ができている事を、
私自身が自らの意志で選んだ見た結果だから良いけれど、それにしたって、
ここまでの状態になっていなかったとしても、
私はやっていたのではないかとも思う。
そんなものでないからこそ、そんなものにさえ耐えられない人間として
そんなものではなくひどい状態が、誰に強要される事も、許すわけにはいかないから
私は、戦争にも、そこに向けての流れにも反対する。

死体となった被害者の映像を見て、衝撃を受けないと、
戦争の悲惨さを理解できない子供も、居る。
そうではない子供もいる。
子供であっても、人間であり、それぞれに違う。
青山学院高等学校試験問題の文章中に、
I wasn't ready for such a scene
and I couldn't keep watching it,
so I turned the channel to another program.
という部分がある。
心の準備もできていなかったので、あまりにもショッキングな映像に、観続ける事ができず
チャンネルを変えた、
という意味だと思うけれど
この人の場合、防空壕として使われた洞窟を見学する際に
すべる石などに笑ったりする事ができ、
また、ひめゆりの塔の祈念資料館で、展示物や証言者の方の話を聞いていながらも
その話し方の方に注意が向いてしまうほどであるから、
戦争報道の映像を見て、観続ける事ができない、という事は、無いような気がする。
が、確かに、実は、私自身も、チャンネルを変える事は無くても
大騒ぎにはなる。詳しくは書かないが。大変よ。
それでも、ここまで伝えないと、戦争の事実、戦争で何が起きるかという事を
理解できない人も居るから、このような番組は放送されなくてはいけないと思う。
テレビ番組は、どうしても耐えられない人がチャンネルを変える事ができる。
知らなかった人、斜に構えて観始めた人が、事実をありのまま伝える映像によって
考え方の変わる場合もある以上、その意味はとても大きい。

ただ、考えてしまうのは、
極端な話、それを観る事によって、白目をむいて泡を吹く子供が居た場合に
そうであっても、嫌がるその子供に、その映像を観る事を強要しなければいけないだろうか?
それによって、その子供は、本当に確実に戦争にならないよう努力する人間になれるのだろうか。
強要する人、強要する立場の側に対する、反発や抵抗を覚えてしまう可能性が
あるかもしれないという事を、私は、頭では否定したいが感覚として否定できない。
目指すもの、傾倒するものを仰ぎ見すぎて、
目の前の子供の状態が見えなくなっていては、いけないと思う。
嘲笑や、ふざけによる拒否と、そうでない拒絶の区別がつけられる位には
生徒個人の個性を認識していて欲しいと思う。
だからといって、勿論、その恨みだけで物事を判断しているというのも、理の通る事ではない。
憎むべきなのは、そこまでの恐怖と衝撃を与える事実をもたらす戦争だと思う。
それと、あえて書くけれど、子供がそこまで嫌がっているのを見ながら
「正しい事だから」という自分の価値観を、
相手の状態、気持ちよりも優先して強要する、先生なり、
その他の大人のやり方なのではないか。
判断の難しい所だとは思う。
許容できる限界の所までは、教える必要があるだろう。
だけど、自分がしている事によって、相手にもたらされている苦しみを
無視、もしくは、見ないフリをしてしまったら
たとえ、正しい事のためであっても、
つまり、しつけの為という理由で殴るのに似てはしまわないか?

戦争というものについて教えるとき
子供が、本能的な拒絶反応、その子供の限界を超えている事を示していたら
その子供に対して、そこまで残酷なものを観る事を強要するよりも、
その子の許容範囲に応じた程度のものから始めても、いいような気がする。
お魚でも、いきなり超強火で煮たら、外は真っ黒に焦げて中は火が通らない
という事にもなる。
まず、何故戦争について知らなくてはいけないのか理解してもらう必要があると思う。
過去起きた、いろんな戦争の戦争に向かう過程、
どのように物事が進んだのか、文化、経済、政治の流れ、その為に歴史年表もあるわけだし。
過程があって、その結果として、戦争の惨劇がある。
知らなかった人々が、それゆえに易々と統制されていったという歴史を知って
何故、戦争について知らなくてはいけないかが理解できれば
自分の能力に応じて我慢できるところを自分で確認しながら
少しづつ、本人の意志で学んでいく事ができるかもしれない。
戦争と聞いただけで、耳を塞ぎ悲鳴を上げるようになってしまったら
それ以上、戦争について情報を得る事ができにくくなる。
嫌だと訴えている事を、無理やりやらせれば
話してもわからない相手が居る、という事を実感として刻み付ける事になってしまうだろう。
相手にダメージを与える事なのだと知っている内容については
見る、と決めた時に、知る事を決断した人間に、教える、という形であって欲しいと思う。
本人が選択して見ることではじめて、意味を持つものだと思う。
インターネットのサイトでも、テレビでも
「心臓の悪い方は」などの警告文はあるでしょ。

無理強いをすれば、戦争について知らないまま成長してしまううえに、
残酷なものに動じてはいけない、弱虫になってはいけない、
恐怖感は常に克服するべきなのだ、強くならなくてはいけない、
という考え方が根付いてしまったり
必要で正しい事のためであれば、
どんな犠牲を払っても、人を傷つけても苦しめてもいいのだ
と思ってしまう事もあるかもしれない。

「戦争が怖いのはわかるが、それが何故軍隊を持ってはいけないことに繋がるのかわからない
どこぞが攻撃してきたらどうするのか、」といった疑問をもった子供が居たとき
その疑問は発声されなければいけないだろうし、
「屁理屈いうんじゃない。」とか、「生意気言うんじゃない」と切り捨てずに
なぜ、攻撃されると考えるのか、どこが攻撃すると思うのか
その国の攻撃する動機は何か、攻撃される前にそれを回避する為の交渉はできないのか
相手が子供だとなめてかかったり、子供にはどうせわからないと思わずに
難しい話になっても難しい話をするべきなんだろうと思う。
それが無理なら、少なくとも閉鎖された教室や家庭という空間の中で
相手に屈辱感を与えるような”やっつけ方”をして、つぶしてしまう事くらいは避けて欲しい。
今の意見がどうあれ、戦争や平和という事について考え始めたという事を評価して、
意見を持とうとしている人間の、その芽を育てるのが育てる人の役目だと思う。

現在の学校の仕組みの中で
そこまで個々の特性に沿った教育はできない
のかもしれない。
ここまで、裕福になった国で
個人の個性を尊重して育てることさえできないなんて、
情けない事だけれど。
一人一人の教師が、一人一人の生徒の個性に合わせられないなら
生徒の方が自分にあった教師を選択できるようになったらいいのに。

・・・今の問題について、遠い夢を語ってもしかたないので
とりあえず、先生が嫌がる子供に無理やり何か強要するのは
逆効果に働く可能性もあるという事に気が付いて欲しいとだけ思う。
どんな信念があるのでも、手段というものも選ぶ必要はある。
尊重するべきものもあると思う。
どうしても怖くて今はまだ耐え難いという部分がある個人については、
耳を塞ぐ自由くらいは許してあげられないものか。
そのかわり、同じ事象について扱った
もう少し表現方法の受け入れやすいものを読む事を勧めるとか。

けれども、どのような成長過程や理由があるにしろ、
自分が準備をしなければ観続ける事に耐えられず
チャンネルを変える程の恐怖を覚える戦争によってもたらされる被害
というものがあるのを知りながら
にも関わらず、反日感情、を例にとり、その原因として
そのような被害を受けさせられたアジアの人々、大人たちが、子供に対して
”正確な歴史的事実を、適切な方法で教えているのだろうか?”
という疑問を持ってそれを試験問題文にまでするというのは、やっぱりとても矛盾している。
普通に考えて、情報として目にするのも耐え難いひどい事を
実際にされた、という歴史的事実がある以上
ひどい事をした側に対して、手放しの好意を感じる筈は無いと思うけど。
それでも、その被害国の人々の中に、歴史として割り切ってくれようとする人々もいて、
現在において、交流が進んでいる、という寛容さについても、認めるべきだと思うし。
やっぱり、見ないできた何かが欠けている。

相手が攻撃してきた時に反撃する為に、軍隊を持ち戦力を充実させておくべきだ
と考えるのも矛盾している。
攻撃をされて反撃をして戦争となったら
自分がたった数分の映像を観るにも耐えられない事が、
避けようも無く毎日延々と続く現実となるのである。

他人から問答無用で無理やり価値観を押し付けられた事に
嫌悪感を持ち、反発した人間が
相手に対して問答無用で価値観を押し付ける最たるもの
本人の意志に関わらず人を殺す事さえ命令し、それに逆らわせない軍隊機構に対して
憧れを持つのも、よくわからない。

私が学校で出遭った先生の、ほとんどを好きではなかった。
片手に満たないくらいにだけ、例外の人が数人居るけれど
基本的に、嫌な思い出が多い。
こう書いたときに安易に想像されるような感じの”先生”だけでなく
やたら”民主主義教育”的な熱意に燃えた正義感の強い先生も、ここに含まれている。
(あれは、本当の意味での民主主義教育ではなかったと、今の私は思う。)
おかげさまで、私は今、自分が尊敬するような人に対しては
なるべく先生という敬称は使わない。
なんとなく「先生と呼ばれるほどの・・・」という慣用句も浮かんでしまって、
そういう人達と一緒にしたくない気持ちになってしまうので。
先生と呼ばれる事で、培われてしまった部分もあるかもと思って。
(しかし、この世には先生と呼ばれる事が好きな人は多いですね。)
だけど、嫌いなのはその先生個人なわけであって、
だからといって、その人間がくみしていた大きな単位、考え方とか方向性とか
そういうものまで全部否定しようとは思わなかった。
なにしろ、嫌いな人は多いのだから
それでいちいちその周辺まで嫌いになっていたら、何もかも嫌いになってしまう。

妙に具体例を出して申し訳ないが
どこかのサイトに対する感想として、
「押し付けているつもりはありません、と書きながら、
一番、押し付けているんだよ」
というような文章を見た。(ありがたい事に、私とも、こういった内容とも
まったく関係のない所でだけれど。
でも、私がこのようにいわれても仕方ない気は、ときたまする。)
押し付けられるのが不愉快なら、
「押し付けるつもりはありません」と書いてあるわけだし
読まなきゃいいし従わなければいいのに、
無意識に、書いている人の本意の望む所をくんで、それに沿おうとしてしまうから
自分の気持ちと違う事になり、不快感を覚え、怒りを感じるのではないかと思う。
自動的に、相手の気持ちに沿おうとしてしまっている時点で
既にこの人は、”素直で優しい”。過剰なほど。
命令や要望があったとき、まず、それに従おうとする、
なんだか、けなげだ。
自分が内容に納得できなければ、自分本人の方も尊重して良い筈なのに。

大人に価値観を押し付けられたから反発したのは、もっともだ。
ただ、反発の方向がなにか間違っている気がする。
自分の価値観を、相手を説得する、納得してもらうという手順を踏まず
力関係を利用して、無理やり強要する事に対して、反発するのが、順当だと思う。
戦争を拒否する人々のイメージや性格の傾向が、好きになれなくても
別にひとつの考え方を持っていたら、それに似た考えを持つ人の群れに属するべき、
完全に同一化するべき、というものじゃないだろうと思う。
自分の意志の方向とたまたま同じだという部分にだけ、自分の重みを加えれば良いと思う。
他人にいわれて従うのが嫌い
納得できない事を強いられるのが嫌だと思うのならば
一握りの世襲制的な権力者の人間ではない以上
本来、持っているはずの意見はどちらかといえば、どちらか方向だと思うのだけど、
・・・・思うんだけどねぇ。
誰か気に入らない個人への反発で方向を変えてしまうなら、結局は自分が認めない相手に
自分の考えをねじ曲げられた事に変わりないような気がする。
影響受けさせられたという事になる。不自由ではないか。

で、これのどこが訂正文なのかというと、
試験文章を書いた人や、この文章のどこが問題なのかわからなかった人が
このような考え方だからといって、想像力が欠落しているわけではなくて
想像力の働く方向が、違うのだと思う。
そこに至る経緯というものがそれなりにあったのだろうと
考えを広げる事のできなかった自分の方が
想像力が足りなかったし、自分が理解しやすい人の気持ちを思いやる事はしても
自分と逆の考え方を持つ立場の人間の気持ちになってみようとは、
しないできたのだろうと思ったんですよ。まぁそういう事ですよ。

それにしても、沖縄の証言者の方々というのは、
さすがに、格が違う。
私だったら、あやまってすむもんじゃないっ
と啖呵きりかねない(だめだめじゃん)

なにもかも受け入れてきたのだろうと思う。
自分の受けた苦しみを、他の人が受けないでほしいと
ただただ祈っておられるのだと思う。
だから、思い出したくない事を語り続けているのだろう。
表面だけ強く焼き付けるのではなく、中まで染み入るように
語っておられるのだと思う。
like a bedside story told by a mother to a baby.
この凄味が、いつかこの文章を綴った「先生」にも理解される事を祈る。
理解されていないなら。

問答無用で”侵しがたく崇高”なのではなく
この理由があって、やっぱり崇高だと思う。

ちなみに、ひめゆり平和祈念資料館は、
私は修学旅行ではないけれど個人の旅行で訪れた事があります。
あの場所で、退屈という印象を持つ感覚の人も居るというのは
本当に、人間というのは千差万別でその差はあまりにも大きいと
思いますですよ。絶望はしないまでも。

domenica, giugno 19, 2005

めも

『従軍慰安婦の言葉なかった』 文科相発言
(東京新聞)

「憲法は今」 
(東京新聞)

戦没画学生 「無言館」の慰霊碑に赤ペンキ 
(MSN 毎日新聞NEWS)

入試問題で「ひめゆり学徒体験談は退屈」 青学高等部
(asahi.com)

下記の文章については、いくつか訂正したい部分がある。
多すぎて訂正しきれないので、後で別項で改めるつもりで居る。
たまたま訪問いただいて読もうとしている奇特な方は
書いた本人がそういう気分になっている文面である事を念頭において読んでください(6月20日)。

問題になった、試験問題原文と翻訳もいくつかのblogに掲載されてる。(各自検索御願)
何故、これが問題なのかわからない、戦争を肯定しているわけじゃないし、
という文章もいくつかみつけた。
建前的には言葉によらない伝え方もある、場合によってはその方がより鮮烈に伝わる
といった内容の文章のように思う。
試験問題云々を別として(は、いけないのですが、本来は。)この文章を読んで、
話される言葉によって、思い描くという事が、できなくなっちゃってるわけね、
と思った。実際に経験した方が話す話よりも、洞窟で明かりを消された時の方が
強い印象を受けた、っていうのは、随分動物的だなぁって思うんだけど。正直。
人間も動物だけどね、言葉を使う生き物なんですよ、とりあえず、今までのところ。

原文抜粋引用
we were a little afraid and nervous that we might have to listen to some stories, maybe even more shocking. Yes, the story that the old lady who survived the Himeyuri squad told us was shocking and gave us a great image of the war. But, to tell you the truth, it was boring for me and I got tired of her story. As she spoke more and more, I lost my strong impressions from the cave. I could see that she told the story so many times, on so many occasions, and she became so good at telling it.
(http://www.inter-edu.com/kaito2005/high/aoyama/pdf/eng.pdf)

要するにさ、この人は、笑えない話だし楽しくないし、それをこれ以上聞くのか
と、まず、少々憂鬱になったわけだ。
話じゃなくて1日24時間毎日毎日その状況そのものから逃れられなかった人の身になってみろよと、
思うのだけども、この人には何かが欠落していてそういう想像力は働かない。
更に、元学徒として実際に悲惨な目にあった人の話を聞きながら
随分話しなれてるなぁ、みたいな感想を、
世渡り上手なこの人としては、なんとなく書かないほうがよさそうと思いながらも
書かずには居られないほどに、まずこの印象を強く持っちゃったように見える。
これはねぇ、基礎情報があまりにも足りないのだと思う。
この人にとっての戦争の悲劇は、洞窟の暗闇止まりなんだもの。
こういう刹那的で偽悪的、露悪趣味である事を、
かっこよく思うような価値観を持っちゃう年齢に至るその前に
どれだけの情報を得る事ができてきたかっていう事なんじゃなかろか。
「はいはいはい、わかりましたよ。」って思ったって事でしょ、要するに。
その時点で、
ぜんっぜん、わかってないんだよおおおおおおおおおおお

I still remember how I felt when I saw the outside light
and how I thanked God when I finally got out of the cave.


こうなってくると、この人の、「どれだけ感謝をした事でしょう」っていうのは、
たいした感謝じゃなかろうと思える。
今が戦争じゃなくてラッキー、っていうような、その程度なのではないかと。

Of course we shouldn't say that the information
they got from their parents was wrong,
but what exactly did their parents say to them? And how?


「勿論、彼等が間違った情報を彼等の両親から得たなどと言ってはいけないが」

このいけないっていうのを、何故、いけないって思ってるかって言えば
「ぐだぐだ言われちゃうからね」って事なんじゃないの?ちゃうの?
で、これは、言っちゃいけないかもしれないけど、こうだよね、って
いう意味なんじゃないの?違うの?
傷つけられた人々の痛み、とか、まったく考慮外、に思えるのですが。
相手の言い分は、大袈裟なんじゃないのって言うのを
大前提に反意的な疑問文にしているように思えるのですが。

大袈裟じゃないと思うけどなぁ。
むしろ、時間によって自然摩滅した部分があって、
本来は、証言されている何倍もひどい事だったと思うけどなぁ。
私の主観なんかじゃだめだろうけど。第一次の、体験した証言者の言葉で
ぴんと来ないんだからして。

で、
ここまでただなにかしらの主張をしたい事を前面に出した試験問題を出されて
なおかつ、もしかしたら、この部分の失点によって落とされたのかもしれない
受験者も相当気の毒だと思う。
とにかく、想像力は無いのだから、受験者の気持ちも、わからないわけなのですよ。

なんでも、かんでも正義正論一点張りっていうのも、かゆくなってしまうが(かゆい?)
本質的な悪い事と良い事の区別があまりにもついていないというのも、
あんまり面白くもない。
何から何まで問答無用で禁止されてきたが為に
自分の身から考えたなりの価値観と善悪の基準がもてない従順さが
垣間見えるように思える。
悪い子ぶってみたが、その実、素直すぎるんじゃないかと。
ミルク飲み人形みたい。
人を傷つけて平然としていられるゆがんだ悪役をやりたいのだとしても、
最低限、自分のやっている事がどのくらいひどいのかわかってないと、
それで、「いくら悪くてもそこまで悪い事はできませんよ」っていう
慎ましさも必要なんじゃないかと。

sabato, giugno 18, 2005

めも

レジ袋、07年度にも有料化 環境省方針


前々から気になっていたのだけど
生活保護を受けている方々とかは、ゴミ袋、どうしているんだろう。
安いのを選べるわけでもなく、自治体によって決められた袋を
一種類一包120円とかで買わないといけない。
120円あると、にんじん一袋買える。石鹸三つ入り買える。
ノート一冊買える。新聞一朝分なんとか買える・・かも。
どうも腑に落ちないのだけど、
捨てる為だけのものを買うっていうの、何か、変。
経済状態が荒んでいても、自分が生きるためのものよりもまず、ゴミを買えと?
ごみ収集の日に、収集所に積まれるゴミ、
あの中のゴミ袋部分だけ集めたら、結構な量にならない?
その分、ゴミ増えてない?
やれ、何グラム減らせのなんのと言うのに、
ただ、捨てる為だけに買うことが義務付けられているゴミ袋の分は、別腹?じゃなくて、別計算?
ずーっとわからないんだけども、
スーパーやコンビニで、もらえる袋は、
大概燃やしたときに有害な物質が出ない原材料を使っているって書いてある。
買ったものがちょうど入るくらいの大きさ。
買ったものの分だけの大きさで、出るゴミの量とも、似ていると思う。
スーパーの袋に、収集日に合わせて分別したゴミ入れて、出せれば無駄が少ないのになぁ。
収集日も分けられていて、
中身は、収集日に集める種類のゴミである事が前提なんだから、
袋の色や書いてある文字が、どうであろうと、
分別されていれば構わないのでは、なかろうか?
黄色がカラスのひっかきまわしを防ぐなら、レジ袋を黄色に統一すりゃいいじゃないか。
買い物のときにも、数回使いまわそうと思えば使いまわせるし、
スーパーの袋って、ベランダに置くもののほこりよけとか、
押入れの中のものの仕分けとか
なんだか知らないがあらゆる事に、使えるし。
そのうえで、へたったら、ゴミ袋としてゴミだけどゴミを入れる袋でもある両得の状態で
収集に出せれば、ゴミ全体量は、計算上、減ると思う。
購入させられているゴミ捨てる為にしか使えないゴミ袋の分。

ダイオキシンが問題なら(問題ではある)、
ダイオキシンの出るような梱包を生産販売する事を減らせばいいんだよ。
あの、プラスチックトレーとかかさばるし、邪魔で仕方ないんだよ。
お豆腐とか卵は、容器がかなり必要だけど
しその葉数枚の為のトレーなんかは、分量として物よりトレーの方がはるかに多い。
きのことかさやえんどうとかトマトとかお肉とかお魚とか
どうせ、小売店の中で、トレーへの入れ替えしているみたいなんだから、
多分、運搬上の問題ではないような気がする。
それなら、商品が潰れない陳列棚を考えたらいいんだよ。
買ったら、つぶれないように気をつけて持ち帰るよ。レジ袋に入れて。

持参の買い物袋に入りきる位の量だけ買っていると
何度も何度も買い物に行かなくちゃならなくて
しかも、小分け品を買わなきゃならないと、割高だし
その分表面面積が大きくなって梱包が多くなってゴミは多くなるんだよ。

企業など大きい単位で排出されるダイオキシンについては、規制がゆるそうなのに、
焚き火はダイオキシンが出るから、やったらだめだとかとてもうるさい。
だけど、冬の夕方五時には児童唱歌”焚き火”が放送されたりするんだよねぇ・・・
落ち葉焚きで焼き芋は、禁止されちゃってるのに。
昔ながらの方法でのゴミ処理は、もうだめで、
不用品を使用してごみ収集に出すのもだめで
とにかく、指定された袋を買わないと、ゴミを自分の家から無くす事ができない。
つまり、貧乏人はゴミを出すなと。
だけれども、今、何か生活必需品を得ようと思ったら
たいてい、梱包されて売っている。
どうしたって、生活していたらゴミが出る。
企業は、資金がなくなれば倒産なされば宜しいが
人間は、お金がなくなっても、死なない限り、なくならない。
どこであれ、どうであれ、生活しなければならない。
なのに、あらゆる事の負担は、個人の人にばかり押し付けられるんだよなぁ。
ゴミ袋代、家電リサイクル料金、消費税、手数料、維持費・・・・・

・・・つまり、お金の払えない人間は生きるなと。
ああ、そっかぁ・・・。

そのわりには、自殺予防対策とか言う。
何がしたいのかな。
何のための何なのかまったくわけがわからない。
自殺じゃなくて、お金持ちの人の利を更に増やす為の人殺しの道具として死ねと?
その為に、法整備中。はは。

寒風

共謀罪、が新規に加えられる刑法の改変審議
今国会で、強行採決されるおそれが出てきているらしい。

関心を持つ人が、これだけ少ないと
現実になるのかも。

そうなると、絶対逮捕されたくないと思ったら
確実な方法は、唯一
誰とも、コミニケーションを、取らないようにする事、かな。
誰とも、ぶっちゃけの本音で話さない事、
毒のある冗談は、間違っても言わない事
飲んで話すなんて、危険極まりない。

それとも、今興味を示さない多数派の人は
もうとっくの昔から
そんな付き合いはしないでいるのか。
そうなのか?

無能の人

2週間位前ネパールでのエイズを患った人たちに対する支援のレポートを観た。
あの活動をしているのって、どういう人達だったんだろうって思って
検索かけて、めつけた。
http://www.laligurans.org/index.htm

このような場所でも、同じ日本で生まれた人達による
必要とされている支援活動が行われている事を知って嬉しく思った。
必要としている人されている人双方の為に、
そして、実際に自分がそこに行くことができない分
そこに気持ちを託しているという思いもあって、
なんとかして、この地道で確実な助けが、続けられていく事を願って止まない。
日本人の人の中からも、国内の知らない人は知らないけれど
本当に世界中のたくさんの場所で頑張っている人が出ているのだなぁと、
こういう機会に知る事ができる度に驚く。
活動をしている人達は、それが目的ではないわけだけども
それでも、この方々のおかげで培われてきた日本の立場、日本観というものが
あるだろうなと思う。
イラクでのNGOやNPOの活動の事も、人質事件以前はあまり知らなかった。
知らなかったのは、多分私だけじゃないと思うけれどどうなんだろう。
もし、もっとずっと前から、普通に一般の人たちにこのように、直に接して
地元の人々に溶け込んで友達として必要な支援をする活動が続けられている事が
広く知られていたなら、そこに武装をした軍隊のような形での派遣がされる事で
それまで築いたものが壊れてしまうという事が知られていたなら
自衛隊の派遣についても、もう少し違った結果が出たかもしれないと思う。
現地に赴いて、薬を運んだり、ビーズ細工を教えたり、施設を運営している人たちは
その仕事があるわけだから、そのうえ日本の国内においての活動の報告などまで
やらなくてはいけないのは、今更書くけど、大変だ。
人一人にできる事は、どんなに、”デキル人”でも、限界があると思う。
だから、そこで実際に活動できないここに居る私達の方から、
こちらから知ろうとしなければならないだろうし
また、日本の国内に居るのだから、海外の情報の届きにくい所でのその活動が
少しでもスムーズに進められるように、
政府の方針による副作用で停止に追い込まれたりならないように、
見ていなければいけないのだろうなと思う。
だからっつって、自分で世界中回って見てくるわけには行かないのだから
やっぱり、そこは、報道によって
実際に、何か起きた時だけでなく、日常的に、
どこでどんな事がされているか普段から、
知らされていることが必要なのだと思う。
テレビからの目で観る、印象に残りやすい既存の知識が事前にあったなら、
ネパールで、議員が次々自宅軟禁みたいになって、
国王が政権を強行的に把握したりしたニュースも
違ったものに見えていたような気がする。
それによって、どういう影響がどういうところに及ぶのか、想像ができるから。
チェチェンでもウズベキスタンでも、事件起きました、と突然いわれても、
それがどういう意味を持つのか実感としてよくわからない。
こういう事も、ニュースを伝えるという技のひとつかな、と思ったりする。

とにかく、本当に、何にも知らないわ。私。
だけどさぁ、ずーっとニュース番組やインターネットに
へんばりついてるわけにもいかないしさぁ。
(結局 怠け者〆)

giovedì, giugno 16, 2005

とても汚い汚染

昨晩、アーンド日テレで、
劣化ウランのレポートやってた。

自衛隊の隊員の方々は
いろんな事、全て了解して納得して行くのかもしれない(私は良く知らない)。
でも、任務が終わって無事帰国できて
また家族と生活をすることができるようになって
子供が生まれて、被爆の被害が出てしまったら
その子供は、何の了承もしてないわけなんだけど。
そうなることを親が選んだのだって知った時、
どう思うだろ。
そのとき、親はどう答えるんだろ。

劣化ウラン弾で汚染された地域に
もとから住んでいて、被爆の影響が出てしまった人たちは
ただでさえ、生活環境も整わない中で
毎日、暮らさなければならない。
足がむくんで動かなくても、足が無くても
瓦礫の中で生活しなくちゃならない。
スロープもてすりも、それよりまず車椅子も無いかも。
指が無いとき、蛇口をひねるのは難しいだろうし
バケツで水を運ぶのはもっとむつかしいだろう。

なんで、こういうものつくるのかね。

地球って、地域ごとに仕切られているわけじゃないから
地面も海も空気も繋がっているから
今、自分の周囲にあるものは、たぐっていくとウランに汚染された所にたどりつく。
たぐらなくても、循環している以上、
何度もこういう兵器を使っているんだから
少しづつ、この、今呼吸している空気の放射線濃度も
濃くなっている筈だよねぇ。
今、はっきりと目に見える影響が出ていなくても
どんどんこゆくなっているってことは
いつか、影響を及ぼす濃度に達するんだよねぇ。
今の使い方見てると
結構早いかもしれないよねぇ。
この空気やこの水と繋がっていない、どこに行ける?

なんでこういうものつくるのかね。ほんとに。

mercoledì, giugno 15, 2005

NO BORDER! continues!!

NO BORDERの最新作が
サイトに出てた。今日から放送だそうです。

笑顔篇。
映し出されるのは、イランに在住するアフガニスタン難民の子供たち。

http://www.nissinfoods.co.jp/product/cm/show_cm.html?cm_type=B&cm_id=131

http://cupnoodle.jp/
CMの所からmaking映像も観る事ができる。

戦争を過去の事として振り返る未来が
一刻も早く来ますように。
この子供達の今の家族も一緒に
怯えずに暮らす事ができるのに間に合うように。
今生きている、この人達の為には
この人達の居る時に、平和にならないと、ダメだと思う。
本人が居なくなって、ずっと後の平和って
あんまり意味が無い。確かめられないし。

過去の人々の犠牲の上に築かれた平和の中に住む人の幸せも大事だが
その過去の人々も、それが現在の時、現在大事な筈だと思う。
この画面に映って笑った子供達が
笑った瞬間、笑えたという事が嬉しい。
両親を失った子も、心に傷を失った子もいるという。
でも、自分が子供の頃
こういう顔、見ていたような気がする。
おんなじ。

一生懸命制作したものが、
真逆の意味に取られるのって、かなりきつい。
それが自分の道と決めた仕事でだったら、尚更だと思う。
それでも、前作が放送中止にされても、
このシリーズが、作られ続けられている事に
穏やかに、けれども、たゆまずに、流れている事を目の当たりにして
この国の大人に対する希望を感じました。

lunedì, giugno 13, 2005

七夕

*たなばたキャンペーンの概要*
「たなばたキャンペーン」は、入管収容施設の処遇改善をもとめるために、
日本全国から1435枚の短冊を集めるキャンペーンです。
1435枚の短冊に書かれるのは、日本の入管収容施設に収容されている人たちへの、
応援のメッセージ。
2005年7月、応援のエールが書かれた短冊を笹につけて、
パレードを行います。

http://www.geocities.jp/tanabata_tanzaku/
(フォームにメッセージを書き込んで送信できます)

*キャンペーンでは、4つのことを目指します。*

○多民族・多文化との共生について
多民族・多文化共生社会を目指した施策を立案・実行してください。
日本人も外国人も民族的少数者も、その個性を尊重しあって共に生きていきたいのです。

○収容所での処遇環境について
被収容者の処遇環境を改善にしてください。
少なくとも、被収容者に、土曜日日曜日も含めて毎日、
運動及び温シャワーが使用できるようにして下さい。
また、食料の差し入れもより柔軟に認めて下さい。

○在留と収容について
無期限収容はやめ、不必要な収容をしないでください。
そして人道上の配慮を要する外国人に対し、在留を許可してください。

○難民について
難民をより積極的に庇護し、日本をようこそといえる国にしてください。

呼びかけ人
サンプラザ中野さん(ミュージシャン)
中川敬さん(ソウルフラワーユニオン ヴォーカル)
池田香代子さん(翻訳家、『世界がもし100人の村だったら』再話者)
田中章義さん(歌人、ワールドユースピースサミット平和大使)
イーデス・ハンソンさん(アムネスティ・インターナショナル日本特別顧問)
ナラカズヲさん(rAnAtEkAr ヴォーカル)

・・・・以上 転載・・・・・・・・・・・・

メッセージ書くだけでも
少しでも助けになれるなら、書かなきゃ損ってものだと思った。

チアリーダー

壊さなければ、修理する必要も無かったと思う。
武力行使による破壊が行われなければ
復興支援の必要も無かったはずだと思う。
イラクは、イラクの人達の国だから
イラクの人達によって、生活に必要な施設も営まれて
いたのだし、それが続けられていたと思う。
武力行使に、賛成して資金提供をする国があったから
武力行使による破壊はここまで進んだのではないかと思う。
それによって機能が滞って支援を必要としている所に
攻撃している側の国籍軍に属する形での
”人道支援”の名目で自衛隊をサマワに派遣する事で
それまで中立の国だったからこそできた
民間レベルでの活動はできなくなったから
民間レベルの活動がなされていたイラクの他の場所で必要とされていた支援は
そこの人々に届かなくなったと思う。

自衛隊を今撤退させても、それだけで戦争は終わらないかもしれないが
日本が、このイラクの人々に対するアメリカ政府のやり方に
従わない姿勢を示す事で、イラク戦争に対する国際的な評価が
また少々変わるかもしれない。
アメリカ政府にプレッシャーをかけられるかもしれない。
と、同時に、この自衛隊派遣と自衛隊の現地での活動にかかる資金を
イラクで民間レベルで復興活動を支援できる人々が居るならば、彼等に、
イラクの人々による、市民レベルでの自分達による復興活動があるなら
そこに、今使われているのと同額を提供できれば
自衛隊がやるよりもよりきめ細かく彼等の希望に沿った形での復興が
進められるかもしれないと思う。

確かに、今後の自衛隊の役割を変えるための布石としている以上
今、自衛隊がイラクで積極的な戦闘への参加をするとは思えないが
それでも間接的に、戦闘行為への後押しをしていると思う。
応援になっちゃっていると思う。
だから撤退した方が良いと思う。

イラクの人たちが、あのような目に合わされているという事を
日本人の多数の感情として、肯定している、
イラクの人たちが、世界中のいろんな国の人に、
見捨てられた、殺されたり傷つけられて仕方ない存在と思われた
と考えてしまう事が、私は嫌だ。そんなの絶対嫌だ。
修復しても、修復できない事もある。
後から直しゃ何やってもいいってもんじゃないと思う。
後から直す役だけれども、壊す側の味方に立っている
という存在に対して、どういう気分になるか、考えてしまう。

発電所にしても、電化製品がある以上
武力攻撃で滞るようになった以前には、イラクの人達によって
作られて運営されていた発電所があったはずで
である以上、イラク人の中にも発電所を作り運営する事のできる人々が居るはずで
しかも彼等は今、仕事を必要としているのではないのだろうか?
そういう人が全部、移行政府やアメリカ軍に奪われてしまっているとしても(まさか)
技術を教える人がいれば、新しく作り運営できるようになれる人々は
遺されているのではないだろうか?
って、思う。

そこに居るその国の人々が、望んでいるかどうか
はっきりしない事の為に、軍隊のように見える武器を携えた団体さんを
派遣するのは、やっぱり変だと思う。
例えば、日本人ではあるが一部の人が、なんだかわからないがいきなり「私達は望む」
と外国のマスメディアに対して発言したから、だからそうなのだ、という理由で
ぜんぜんやり方や立場の違う国の軍隊、とりあえず北朝鮮でもいいや、
そこの軍隊が来て、彼等のやり方で突然、日本人の為だからとか言いながら
発電所を作ったりしだしたらびっくりしないか?
例えそれが、たまたま発電所が必要な場所だったとしても。

・・・・・そういえばこの日本は
アメリカ軍がたくさん基地を作っているんだった。
日本人の為とか、多少は言いながら(どうみても自国の戦略上の為だけど)。
なるほど、だからわからないんだ。

domenica, giugno 12, 2005

Libération!

Libération紙のFlorence Aubenasさん
彼女のガイドをしていたHussein Hanounさんが、
5ヶ月ぶりに解放された。
Hussein Hanounさんは、Baghdadで家族と再会した。
Florence Aubenasさんは、フランス時間12日21時から22時頃
Villacoublayの飛行場に到着の予定。
彼女の健康状態は良好で土曜日の午後自由となったと
AFP通信は伝えている。

Le monde frから抜粋

sabato, giugno 11, 2005

羊も効かない

「参拝は他人に言われてするものではない。」
((この場合)うっそだろ・・・)

言われたからどうこうというものではないなら
自分で、お止めになったらよろしいと思う。
この際その体裁はどうでもよろしいと思う。
戦争で死ぬ事が素晴らしい勇ましい潔い良い事だ
と思っていないなら
戦争に参加して亡くなった、が、ゆえに
その事を尊いとして、それを理由に本尊にして崇め奉る所に
参拝するのはおかしいような気がするし
戦争をしない為に、あらゆる努力を重ねる事を仕事にしている方が
戦争を鼓舞し肯定(しかたない、避けられないも含めて)する方針を持った神社にお参りしていれば
状況によっては再度、しかたない、でおっぱじめるのではないか、と
思われても、しかたないのではなかろうか?
その際に、おっぱじめる相手にされそうな
近くに居て、外交問題を抱え、最近では政府間の関係が
冷えてきていると言われて久しい近隣諸国が
怖いから、やめてくれ、と言うのだとしても
それは、”他国に口を出す”というよりは
自国の事を思えばこそ感じる不安から出る依頼
と思えるのですが。
だからこそ、この神社が奉る所の考え方によって起きた出来事が
それぞれの国の人たちにもたらした状況を
思い出してくださいと、繰り返すのではないだろうか?
反省の要求という形で、本尊としてお参りしているその概念が
どのような結果に繋がるものだったか、もう一度再認識して欲しいと
願っているのではないかなと思うのですが。

言われて止めるのが嫌なら
国民の代表としての首相という立場を鑑みた
自発的な考え、によってやめる決断をすればいいのに。
どっちにしたって、人間はあらゆる考えに影響を受けて
その中でTPOとやら、適宜適当なよりよいものを選ぶわけなのだから
選んだ決断が周辺各国の願いでもあり
国内の、それなりの数の人間の願いと同じであったとしても、
良いのではなかろか。
意見があったね、気があったね、というのは、そう悪い事じゃなかろ。

「顔色を伺って言いなりになる」のと、
「検討を重ねて、的確に状況を判断し、沽券や面子に縛られずより良い選択をする」
というのは、違う。
「信念を貫く」というのと、「石頭」も違う。

しかたなければ、戦争もあり、という考えを拝んでいると
空っぽの”大儀”を振り回されて「しかたないので、戦争します」と言われた時に、
人を苦しめる為の資金だって払えてしまうのではなかろうか。赤字国債抱えてても。
血税ですまないなら、血も汗もブーツも旗も蛙も。あ、蛙は違うか。
こういうのが、言いなりって言うんだと思うんだけどなぁ。
なんでここでこの言葉が適応されない。

類稀なる偶然で総理就任直前に、たまったま宗教が変わったから
個人として本気でどおおおおしてもお参りしたいというなら
せめて引退してからにすればいいのに。

何も私みたいなのが書かなくてもいいことかもしれないが
私みたいなのも、末尾のけばで書いてもいいかもしれないと思って。

venerdì, giugno 10, 2005

Clementinaさん解放

喜ばしい。
とても嬉しい。

誰にだかわからないが
ごめん。
信じている宗教があると
こういうとき楽なんだろうな。対象者が明確になる。
特には無いので、とりあえず、誰か読んでるなら誰かに。
まぁ、たまに少しは嬉しい事がありますだ。

拘束されていたTimor Shah容疑者の母親の釈放とひきかえに
Clementina Cantoniさんは、無事解放され
10日午後にもROMAへ到着の予定。

せっかくなので、嬉しいついでにいっそ戦争も武器も一切合財無くしてくれませんか、神様。

これができるのは、神様じゃない、ほんとうは。




ロイター通信は10日、イラク西部のカイム近郊で、
16人の民間人の服装の射殺体が見つかったと伝えた。
ほとんどが目隠しされており、2遺体は頭が切り離されていた。
毎日新聞ニュースから
今月に入ってイラクでの暴力襲撃などによる死者は900人に上る
CRIonline

・・・・・・・・・。
感情の絃がひきつってわけがわからなくなるよ。

mercoledì, giugno 08, 2005

大愚痴

「平和であってほしい、戦争には反対だと、
どんな手段でも表現できるそれによって得られる満足感、歓びを
否定してはいけないと、なんだか思ったのでした。」
「平和を望むひとりであり続けることを、
ちゃんと嬉しく思おうと思います。」

結論から書けば、これはウワゴトだ。
嬉しいと思おうと思って、嬉しく思えれば世話は無いんで
こういうの、自分ではものすごい嫌いな筈なんでした。
自己満足だの自己顕示欲だのという言葉を、あまりたくさん見過ぎて
血迷ってしまったと見える。
他の人にとって、それほどでないのかあるのか
力量の低い私にとっては、かなりきつかったのでうわごとでもこじつけないと
やってらんなかったんだと思う。
だけど、こういう事をうめくから、”きれいごと”とか言われちゃうんだわ。
楽しくないものは、どう楽しく思おうと思ったって
楽しいものじゃないわ。
喜ばしさなんて喜ぼうと思って喜ぶものじゃない。

その中に、楽しさや嬉しさを見つけられる人は
それを否定するべきじゃないと思う。
自己満足でも、満足も得られるなら幸運(と、才能)。幸運は大事にしないと。
ただ、私個人で言えば、たいした事しているわけじゃないのに、
やたらきつい。
正直、自己主張、あまり得意ではない。
大概、人が機嫌悪くなったり、怒った顔しているの見るだけで、
胃が喉元にせりあがるような
本当のところの、吐き気に襲われる。
けれども、だからっつって、大事な所で
自分の考えに逆らって迎合して顔色伺って卑屈になるのも
嫌だよ。嫌ではないですか?嫌ですよ。他人でも、そういう人見たくないし。

正直、人間としてやらなければならない
最低限の事だと思って、最低限くらいはなんとかしようと思い、
自分の意見として、戦争に反対という気持ちだけは表明しないといけない
と思うから、せめてできることとして書いている。
戦争へ進む方向へ導くのも
戦争へ進んでいる動きに追随するのも
最悪だと思う。
これだけの知能を持った人間を使って戦争をすれば
それだけの結果が出てしまうから
そこへ向かおうとする存在は本当の意味で地球上に存在する唯一の有害生物だと思う。
戦争は、どんな理由があってもやってはいけない。
やってはいけない事は、やらないのだから、準備も道具も必要ない。
そういう方向へ進む事に対しては、微力であっても無力であっても
自前の乏しい脳みそで考えつく、可能な限りの方法で逆らわないといけない。
って思うから、書くんだし言うんだし、有り金もはたくんで
(そんな額に見えなくてもそうなの。名古屋地裁、きちんと審議してください)、
まぁ、たのしかないわな。
疲れるし、時間も削られるし
買いたいものも我慢しなくちゃならなくなるし
しかも、なんだか知らないが、やたら人の悪意とぶつかる事にもなる。
妙に、浮き上がって標的になる。
目立ちたい人は、目立てばいいんだよ。自分で。
絵で喜ばれたりすれば
喜ばれる事を目的として描いている場合、
目的が成功したわけなので嬉しい事も無いではないが
(実際には、数ヶ月かけても香典袋みたいとばっさり斬られてへこむばっかしだが)
自分で巧くない事がわかっている文章誉められても
厚意は嬉しいが、誉められた事自体については、
なんというか、ああ、わかりましたっていうか、さぁ、
やらなきゃいけないのはわかってますよ、やりますよっていうか。
でも、他人のことは誉めたりしちゃうけど。
だって、私みたいなひねくれもんばかりじゃないとは思うから。

たまにちょびっと楽しい事があるとすれば
私の考えていて訴えたいと思う事を
私が頭の中でこねくっているよりもずっと鋭くて巧い表現で
表しているものを見たとき。巧く、じゃなくても、それまで黙っていた人が
口を開いたとき。それを見ると、嬉しい。それくらいのもんだ。
それは、私が何もしてなくても、あれば見れるものだしなぁ。
ただ、完全に自分がなんにもしてない、という焦燥感は少なくてすむかも。
そんなもんだわ。

世の中が平和であっても、嫌な事は多い。
だけど、戦争中の場所に居る人の嫌な事はそれどころじゃない。
戦場で、生き生きした人が多い、のは、
生き生きしてない人は、まず真っ先に死んじゃったからなんじゃないか?
いつ失うかわからないと切実に感じているから家族同士人同士が
大事にしあう為に、それぞれの大事さを実感できるのかもしれない。
でも、いくら大事にしていても、壊されてしまう
世界のいくつもの場所に居る人々が、その事を知っていて
壊しているのが、誰か何故かも薄々、もしくは明らかに知っていて
なのに、続いている、終わらない
その状況が、良いとは言えない。
生き生きし続けているっていうのは、
いつ何が起きるかわからなくて緊張し続けているわけで、普通の人には疲れるわ。
自分が何しようとしまいと、自分の住む場所が平和であったら
今現在は平和の中にいる事ができるけれど
平和にしておこうとしなければ、平和ではなくなるという事もあるんだし、
自分の居る所が平和でも
どこかの国に住む人が戦争の被害を被っている
その戦争に自分の属する国が加担しているのだとしたら
それを見てみぬふりは、やっぱりできないよ。
何の力にならなくても。
加害者がやめれば、被害者は被害者でなくなるのだから。惨事は加害者にしか止められない。
でも、基本的には、平和である事のほうが普通の最低限の基盤なんだから
いちいち空気の成分が、こういうのでよかったなぁとか
呼吸するたびに嬉しくてたまらないわけじゃないのと一緒で
自分が平和な国に住んでいる事も、
どこかの平和な国に住んでいる人が
平和な国に住めているという事も
いちいち、わー、うれしい、楽しい、と、いうものではない。
戦争をしている国の戦争が終わったら、そんときは嬉しいだろうけど
なかなかそうもいかないし。

戦争を止める事、戦争にならないようにする事は
言葉を持っていて、表現できる以上、やらなくちゃいけないんで、
楽しかろうと苦しかろうと嬉しかろうと虚しかろうと
やれる限りはやらなくちゃいけない。
人間に生まれちゃったから、仕方ない。
人間って難儀だ。

神経花火

能動的に、人々を先導して情報を操作し軍隊を指揮した人間だけに
戦争の責任を問うのでは、良くない、
見たくない物を直視せずに、強い力のせいにして、
半ば積極的に騙されて盲進したのだから、一般の民衆にも、責任はあると言う。
んあー、
そうかもしれないけれども、
だけども、
その中でも、言論を統制されたり、様々な形での圧力を受けながらも
自分の信じること、戦争をするべきではないということを
言い続けた人も、言った人も、口には出さなくても、
その自分の良心からの意思に反する行いはできなかった人も
この”民衆”のなかには、居たはずと思う。
公衆の面前で、演説するわけじゃなくても、
自分の子供にだけは嘘を教えなかった人や
たくさんの先生の中には、その後どのような目にあうか覚悟しながら
言わなければいけないと思うことは、子供達に伝えようとした
”お国の為に死ぬ美徳”なんて、そのような洗脳をされてはいけないと
伝わったかどうかは別として伝えようとした人も居たと思う。
後で、拷問を受けたなり、収容されて強制労働だなんだで、
転向とかさせられて、言う事を変えさせられた人でも
一生の中では、言うべき事を言った事もあった人は、
その後にどのような事を言わざるを得なくなったとしても
言うべき事を言った事があるという事実は、損なわれる事は無いと思う。
少しでも反発した人は、一般の”民衆”の中に、1人じゃなく居たと思う。
その人たちの力が及ばなかった事は、罪か?
その人たちが、力を尽くしても、戦争を避けることができなかった事は、
その人たちの責任か?

できないという事は罪か?
力が及ばないという事に、責任は負わされるものか?

1人ないしは数人、変な人が居たとしても
ついていく人が居なければ、戦争はできないのだから
ついてゆく人に、責任は無いとは言えないけれど
でもさぁ、やっぱり、まず先頭に立って権力の暴力を使って
戦争に突き進んだら、いけないよあぁ。
間違った方向に進む指導者に、無責任についてゆく人の罪は、そう軽くは無いけれど
間違った方向に進む指導者が居なければ
無責任についていく人なんてのは、無責任なんだから
自分から何もできないのだから
この人々だけじゃ戦争にはならないはずなんだよなぁ。
2つ揃わないと。ついてゆく方と率いる方と。
ついていく方も悪いが、勿論、率いる方にも、歴然とした重い罪があると思う。

で、
力が及ばなかった、のは、どうなんだろう。
だめだった、っていうのは、罪なのかな。罪なのかな。
じょうだんじゃないよな。
損した上に、
日和見して強い方についておこうと巧くたちまわろうとした人と
同じ罪負わされたら、たまんないよな。

ところで、
枕元にたまねぎ置くって、ゴキブリ出そうでちょっとやりたくない。
ラベンダーとかカモミールとか、ぜんぜん効かない。効いた事ない。
眠れない。眠りが浅い。眠れたかと思うとすぐ目が覚める。神経ちりっちり。
こういう時は、あんまし考えない方がいいんだけど。
何書くかわかんないし。
何書いてるのか、よくわからないし。

sabato, giugno 04, 2005

めも

Clementina Cantoniさんが拉致されたから18日が経過した。
昨日もカブールの政府はClementinaさんの健康状態は良く、
犯行組織との連絡は継続しているとうけあった。

2005 6月4日 RAInews抜粋

アフガニスタンのTolo Tvで、Clementina Cantoniさんの映像が放送された。
ビデオの中でClementinaさんはベールで頭部を覆われて座っている状態で
両側には覆面をした男性2人が、彼女の頭にむけている。
彼女は5月28日という日付と他にいくつかの事を話しているが
音声は明瞭ではなく、Reutersは本人である確証は今のところ
取れていないとしている。

Reuters it 概要 6月1日

venerdì, giugno 03, 2005

詰め替え用パック

本当に、”心の問題”で、個人的に本気で信仰上の理由から
靖国神社に参拝をするのであれば
総理大臣になる前から、参拝している筈なのではないか、と思ってしまう。
それは、人は変わることもあるが、宗教というものの性質上
信仰というのが、職業の変化によって変わるっていうのは少々不自然なんだけども。
元々から、そういう信仰を持ってますよ、参拝しますよ、っていう事が明らかだったなら
支持のされ方も多少は違ったかもしれないじゃないか。(わからないけど)
なんとなーく、なんらかの”大人の事情”によって
参拝しますよ、ほら、しましたよ、って、状況証拠作りしている感じもするから
わけわからなくなる人だって、いそうだと思うけれど。

大概、2001年以前と今と、政治の方針みたいのも
ものすごく違う気がするんですけれど。
もしかして、誰か中身詰め替えた?

選ばれる人って言うのは
選ぶ基準になる所がそう簡単に変わるようじゃ困るんじゃなかろうか?
マーマレードって書いてあるから、マーマレードが欲しくて選んで購入したら
柑橘のにおいの芳香剤、だったりしたら、
とりあえず、のけぞるぞ。で、レシートもって返品しにいくぞ。

mercoledì, giugno 01, 2005

すっきりさっぱり

賛成できかねるような事ばっかりなさるお上ですが、
かりゆしは、好き。あの服が好き。
さすが電通プロデュース(え、違う?)
ついでなので、外側を装うだけではなく
ちった、あのような風情のある布を育んできた沖縄の人の
気持ちにも、思いを馳せていただきたい。
どういう歴史を過ごしてきたか、考えていただきたい。
で、首の周りがすっきりした所で、
青い海と青い空が、きれいにすっきり安心できるように
とりはからっていただきたい。

軍用機とか、軍隊とか、基地とか、べたべたして重たくて苦しい。
べたべた湿気てるの嫌いなんだよねぇ。
湿気ちゃって調子悪くてしょうがないですよ。